本と体温
シェーンコップがシャワーを浴び終わってベッドへ向かおうとした時、ヤンはまだソファで本を読んでいた。とっくにベッドに入っていると思ったのに、ヤンはシェーンコップをちらりと見てもまだそこから動く気配を見せず、シェーンコップは少しばかり焦らされているような気持ちになって、大きな歩幅でソファへ近づいた。
「まだ寝ませんか。」
本の陰から、ヤンがシェーンコップに一瞥をくれ、
「15分したら行くよ。」
素っ気なく言う。
シェーンコップはその場で腕組みしたい気分になったけれど、ここで皮肉や毒をぶつけるのは得策ではないと言いたいことは飲み込んで、無言だけを残してヤンに背中を向けた。
自分の不機嫌はともかくも、ヤンの機嫌を損ねるようなことをしたかと、今日1日を振り返りながら、それとも単に今夜はそういう気分ではないと言うことなのかと、あれこれ考えて、ベッドへ着く頃には、ヤンの中で自分の順序は多分読書や紅茶より下なのだろうと思い至る。
そんなことはとっくの昔に分かっていたことだと、自分に言い聞かせながらシェーンコップはベッドへ入った。
夜に、ひとりきりで、こんな気分になるのはあまり良くない。ベッドに負の感情を持ち込まないことと、常に自分に課していても、それがうまくできる時とできない時がある。
枕に頭の位置を定めて、シェーンコップは速やかに鬱ぎ込み始めた。たかがヤンにひと晩振られたくらいで、この世の終わりでもあるまいに、眠ってしまえばすぐに朝だ。ただ眠るだけの夜もたまにはいい。そんな風に、半ば無理矢理自分を納得させようとして、あまり成功せずにシェーンコップは何度か寝返りを打つ。
そして15分後、ヤンはそう言った通りベッドにやって来た。
シェーンコップは少し驚いて、ヤンの足音に気づいてもそちらを向かずに、きっと今夜はお互い背を向けて眠るのだろうと思い込んでいたから、ヤンがベッドを回って自分の前へやって来たのに、闇の中ではっきりと目を見開いてもっと驚いた。
「寄って。」
ヤンの手がシェーンコップの肩を押す。シェーンコップが動かずにいると、
「寄って。」
少し声を強くして、ヤンがまたシェーンコップの肩をつついた。
シェーンコップはそのせいで目が覚めたと言う振りをして、ヤンから遠ざかるように体をずらし、シェーンコップがいたところへヤンがのそりと入り込んで来る。
枕もそのまま取り上げられて、さっきのソファでの素っ気なさは一体何だったのか、シェーンコップの胸へ頭をこすりつけて来た。
「・・・今夜はそんな気分じゃないのかと思ってましたよ。」
寝た振りをしていたことを忘れて、はっきりと目覚めた声でそう言うと、
「ベッドが冷たいから。」
ヤンの手が背中へ回る。本を支えていた指先は確かに冷たい。寄せて来る爪先も氷のようで、シェーンコップはまだシャワーの後のぬくみの残る体全部で、ヤンを抱きしめた。
「毛布代わりですか、なるほど。」
声音に、いつもの甘い毒がこもる。現金に、シェーンコップはもう普段の調子を取り戻している。
シェーンコップの体温ですでにあたたまっている側で、ヤンは冷たい体を伸ばし、少しでも温度の高い場所を探して、シェーンコップの背中を冷たい掌で撫でてゆく。
「本なら、ベッドで読んだらどうです。」
ヤンのパジャマの下へ指先を滑り込ませながら、シェーンコップは息を吹き掛けるように、ヤンの耳元でささやいた。
「君の邪魔になるだろう。」
「私が邪魔になるんじゃなくて、ですか。」
からかうように指摘すると、ヤンが唇を突き出して、違う、と弱々しく否定する。
シェーンコップに引き寄せられて、ぶ厚い胸の下に体を敷き込んで、ヤンは、違う、ともう一度心の中でひとりごちた。
シェーンコップが邪魔なのではない。こうしていると、邪魔になるのは読書の方だ。冷たいベッドを言い訳にして、本とシェーンコップを切り離して、そうしなければ文字に集中できない。
自分のすべてがまるで、シェーンコップでできているみたいに、シェーンコップが触れて来ると他のすべてが消え失せる。それは困る。本を取ったら、ヤンには何も残らない。
それでも、君が残る。
喉を反らして、ヤンは止めた息の底で、声にせずにつぶやいた。
本と君と、どちらが大事だろう。
少し前なら、考えもせずに本と言えたような気がする。今は、考えても答えが出ない。
本と同じくらい、君が大事だ。
言わない言葉が、皮膚から伝わる。上で、シェーンコップが何かささやいた。言葉は聞き取れず、声の優しさがヤンの膚を震わせて、伝え返すために、ヤンは喉を開いて肺を絞るように叫んだ。
シェーンコップに触れて、指先も爪先もあたたかい。今は本には手の届かないこの空間で、ヤンは思う存分シェーンコップにしがみついて、ページの文字を読むように触れる皮膚からシェーンコップを読んでいる。
自分の名ばかり並ぶそこへ、シェーンコップを呼びながら、ヤンはゆっくりと唇を寄せて行った。