シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ

Calling Me

 ポーチには簡素な木の椅子が置いてあって、小さなテーブルもある。天気の良い日には本を持ち出して、そこでしばらく読書をするのが、あまり起伏のないここでの日々の、ヤンの楽しみのひとつだった。
 日も長くなって、夕方を過ぎてもまだ十分明るい。食事の後、ヤンは一昨日から読んでいる本を手にポーチに出た。
 少し風が冷たいかと思ったけれど、まだ地面から昼間のぬくもりが立ち上るのが残っていて、大丈夫かと椅子に腰を下ろす。
 本のページが10ページも進んだ頃、玄関のドアが開き、シェーンコップが酒のグラスを手に出て来る。
 「カフェインよりはアルコールかと思いまして。」
 ブランデーではない、ウイスキーだ。指の幅2本分くらいに、氷を少し。シェーンコップももうひとつの椅子に坐り、グラスを片手に外を眺め、じきそれに飽きると、今度は本を読むヤンをじっと眺め始めた。
 さすがに10分も、妙に熱のこもった視線を浴びると、ヤンも読書に集中できなくなって、酒のグラスに手を伸ばしたついでに本を閉じる。
 指先で頬を支える仕草が、絵になると言うのはこういうことかと言う風に決まるシェーンコップをちらりと見て、見つめられるべきはそちらだろうと、ヤンは面映さを眉間を寄せてごまかして、ふたりの間のテーブルの上にちょっと身を乗り出した。
 「わたしを見てて、面白いかい。」
 「面白いですね。貴方の表情で、本の内容が大体分かる。わざわざ自分で読まなくて済んでありがたい。」
 ヤンの本好きをからかって、シェーンコップはわざわざそんなことを言う。疫病の大流行に、当時の医師たちがどう立ち向かったかと言う内容の本に、興味のない人間はどんな面白みを見つけるのかと、ヤンもお返しに内心でだけ意地悪く考えた。
 空気が少し冷え始め、氷の溶ける速度も落ちている。ウイスキーは冷たくても、アルコールは喉と胃を焼いて、体の中はまだあたたかかった。ヤンは少し肩を縮めて、家の中に入る潮を窺っている。
 遠くの赤みを増した空へ、本から顔を上げ、ヤンは目を細めて見入った。
 シェーンコップはまたヤンの視線を追い、同じように夕焼けの空へ目を凝らして、それから不意にぼそりと、
 「ヤン・・・ウェンリー。」
 書かれた字でも読むように、ヤンの名をつぶやく。最初の部分と後の部分との間に、思わせぶりな間(ま)を空け、そうすると、まるでファーストネームの方で呼ばれたように感じられて、ヤンは夕焼けを写したのか頬を染めたのか、シェーンコップへ視線を移して忙(せわ)しく闇色の瞳を動かした。
 「わたしがどうかしたかな、ワルター・フォン・シェーンコップ。」
 シェーンコップは何が面白いのか、にやにやヤンを眺めて、ヤンはお返しに、わざとらしく音を立てて本を閉じた。
 テーブルへ乗り出していた体を椅子の背へ戻し、シェーンコップは酒をひと口すすると、正面の景色を見たままゆっくりと口を開く。
 「貴方には、愛称のようなものはないのですか。キャゼルヌ中将も、貴方をヤンとしか呼んでませんでしたが、あれは軍務上の建前のことですか。」
 ヤンは本をテーブルに置いて、シェーンコップを見習い、酒のグラスを手に取る。
 「──ないなあ。わたしの名前の順は、君たちとは逆だから、名字を呼んでも名前を呼んでるのと同じことなんだろうきっと。」
 「なるほど。」
 納得ではない、シェーンコップが単なる相槌を打つ。
 「もう、名前でなんて長い間呼ばれてなくて、父さんがどんな風にわたしのことを呼んでいたか、忘れてしまったよ。」
 「私も似たようなものですがね。」
 「よく言うな、君の場合は、名前の方で呼んでくれる女性たちがたくさんいたんだろう。」
 眉をしかめてヤンが言うと、シェーンコップは否定も肯定もせず、ただ唇の片端だけ上げて肩をすくめて見せた。
 それからヤンは、またさらに赤みを増した空へ目をやり、ぼんやりと視線をさまよせる表情になると、投げやりな仕草で椅子の背に背中をぶつける。
 「でも、君の言うことは分かる。家族が自分を呼ぶ呼び方は、何て言うか、唯一なんだ。それがいいとか悪いとかじゃなくて、単に、生まれて最初に聞いた声と音だったと言う意味でね。君やわたしが誰であるか、最初に決定づけた声と音だから他の誰の呼び方とも違う。父を亡くして、わたしはそれを思い知ったよ。」
 「貴方をもう、誰も貴方が覚えているようには呼べないと──?」
 「うん・・・。」
 シェーンコップの方を見ずに、ヤンはうなずいた。
 シェーンコップは手の中のグラスを揺らして、わざと中の氷の音を立てると、それをじっと見下ろしたまま、普段よりもずっと低めた声で、下らん昔話ですがと、前置きをする。
 ヤンが自分の方を見たのにちらりと灰褐色の瞳を動かして、
 「──私の母親は、田舎育ちの、貴族と名乗るのに憚りのあるような家柄だったとかで、父親と結婚した後で、親族からずいぶん家の格の違いを言われたようでしてね。何かで集まると、私を傍に引きつけてずっと壁際で何も言わずにじっとしてるんです。しゃべると、首都で生まれ育った親族たちと、言葉遣いが違うのを笑いものにされるからと言ってね。私は、自分の母の話し方が他の連中と違うなんて思いもしない。それでも時々従兄弟たちから、私自身もからかわれたことがあって、父がそのたびに、私たちをかばうよりも先に不機嫌になって、子ども心に嫌な思いをしたものです。母は必死になって喋り方を変えて、私にも従兄弟たちと同じ話し方をしろと強制しました。正直、鼻につく帝国貴族の言葉遣いよりも、母の元々の喋り方の方が好きでしたがね。その母の声も、もうはっきりとは覚えてはいません。」
 シェーンコップはそこで一度言葉を切り、自分を見ているヤンに気づかないように、赤い空を通り越してどこか遠くを見るような目つきになる。
 「とは言え、母にしつこく直されたのと、亡命後に祖父母と一緒に暮らしたせいで、少々古臭くはあるでしょうが、帝国貴族の言葉遣いはできるようになって、おかげで貴方の作戦に参加するのにも問題がなかったわけですから、一体何が幸いするか分かりませんな。」
 そこで初めて、シェーンコップはいつもの、周囲の輝くような笑みを浮かべて見せる。空の赤さが一瞬消えたように思えたほど、ヤンにはその笑顔が明るく見えた。
 軍人も戦争も嫌いだったけれど、それがなければこの男には出逢えなかったのだと、ヤンもその時改めて考えた。
 どこかで結ばれることにすでに決まっている、そんな繋がりもあるのだろうかと、似合わないことを思って、ヤンはグラスを置いてシェーンコップの方へ手を伸ばす。シェーンコップはグラスを持ち替えて、ヤンのその手へ自分の手を伸ばして来た。
 グラスに触れていたシェーンコップの指先は冷たくて、ヤンはそれを自分の手で包み込むようにすると、酒が終わったら熱い紅茶を淹れようと心の隅で決める。
 誰も、ヤンの両親のようにヤンを呼ぶことはできず、シェーンコップの家族のようにシェーンコップを呼ぶことはできない。それはそれでいい、新しい繋がりには、別の呼び方を、互いが作り出せばいいだけだ。
 自分を今も提督と呼び続ける男を見て、ヤンはまた微笑んだ。その提督と言う堅苦しい言葉に、恋人への呼び掛けよりも甘い響きを含ませるこの男を、ヤンは恐らくこれからもずっとシェーンコップと呼び掛け続けるのだろう。そのいかにも帝国風の名前に、ヤンだけが発することのできる、ヤンだけの響きをこめて。
 紅茶は、自分が淹れようとヤンは思った。シェーンコップのために。
 「中に入ろう、シェーンコップ。冷えて来た。」
 そう言って立ち上がるヤンを、シェーンコップは手を離さずに自分の方へ引き寄せ、自分の膝の上へ坐らせた。
 椅子が壊れそうな音を立てるのに、ヤンはちょっと身をすくめたけれど、シェーンコップに抱きしめられて腰を浮かすこともできず、いつものように額をこすりつけて来るシェーンコップの唇へ、耐え切れなくなったように自分から唇を押し当てる。
 濃い紫に変わる空から闇が降り落ちて来て、ふたりの姿をただ白っぽく滲ませる。今では隠す必要もない抱擁にしばらくの間そうして没頭し、口づけのわずかな合間に、シェーンコップがいつもの響きでヤン提督と呼ぶ。それに応えて、ヤンがシェーンコップと呼ぶ。
 ヤンだけが作る特別の響き、シェーンコップだけが聞き取れるその音を聞き取って、シェーンコップはひどく満足そうに微笑んでいた。

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