DNTシェーンコップ×ヤン。

Comfort

 君の髪は、と言い掛けてから、ヤンはそこで声を止めて、シェーンコップの髪へ手を伸ばす。
 頬へ流れる髪へ人差し指を差し入れ、思ったよりもずっと柔らかい感触へ、ヤンは思わず目を細めた。
 何か、と言う風に自分を見つめて来るシェーンコップから微妙に視線をずらして、ヤンはベレー帽の乗った髪を、毛先から上へ向かって目を凝らす。
 くすんだ、暗くて重い金色に寄った髪色。そのくせその色から受ける印象には、暗さも重さもなく、ヤンが思い浮かべるのは、ミルクのたっぷり入ったコーヒーか、口のねじ曲がるほど甘そうなチョコレートだ。
 コーヒーも甘いチョコレートも、どちらも苦手なヤンは、この髪を見るたびにその苦手なはずの味が口の中に広がるのを感じて、この髪は舌に乗せたらきっと美味(あま)いのだろうと思う。そんなはずもないのに。
 シェーンコップは、ヤンの好きに髪をいじらせて、微笑みながら、そして不思議そうにヤンを見ている。
 ヤンは、シェーンコップの柔らかい髪を指の間に挟んで、梳くように動かすと、また元の位置へ戻ることを繰り返す。髪から、甘い匂いすらするような気がして、現実には、この男の首筋から立つのは、もっと重くて深い、ヤンにはまるで似合いそうにない香りだ。コロンの類いに詳しくないヤンには、名前も、香りの種類もまったく分からないその匂いも、シェーンコップの傍にいる時にほのかに香って来ると、つい顔を近づけたくなる。
 おしゃれだねとついつぶやいたら、身だしなみですと、あの人を食ったような笑みで答え、答えた後の言葉の端がかすかに沈んだのを、ヤンは聞き逃さず、何か、この香りで消したい匂いがあるのだと悟ってしまった。
 装甲服の、金属の匂いか、戦斧の手入れに使うオイルの匂いか、あるいは、洗っても落ちない、殺した敵の血の匂いか。
 そうしてヤンは、自分の皮膚にも恐らく染み付いている、人殺しの匂いに気づく。シェーンコップが直に浴びた血の匂いとは違う、ヤンは浴びなかった血の匂い。宇宙の藻屑と消えた、死体の形すら残らなかった人々の、確かに流した血の匂い。
 宇宙の闇の中に、漂う1滴の血、あるいはわずかな滴り、あるいはせせらぎ。いずれ集まるそれは、川になり、河になり、どこかへ向かって流れてゆく。音もなく漂泊する血の大河の向かう先のひとつに、自分がいるとヤンは自覚して、その流れに飲み込まれる自分の最期を想像する。大量の流血に溺れて、いずれ死ぬ自分は、肺の中も全身も血にひたして、呼吸の代わりに血の泡を吐く。
 シェーンコップの髪の色へ視線を当てて、ヤンは自分の身から立つ血の匂いのことを、一瞬忘れる。
 美味(あま)さの思い浮かぶ髪色の、光が当たれば色のやや薄れる、代わりに艶を増して、ますます美味そうに見えるその色へ、ヤンは再び目を細めた。
 チョコレートは苦手だ。美味いものと思うなら、酒の方がいい。喉を通り過ぎる円やかな苦味と、焼けるような熱さ。酔っ払って前後不覚になれなくても、少なくとも、酒を飲んでいれば酔った振りができる。
 血管に満ちてゆく酔いの感覚を思い出しながら、ヤンはシェーンコップを見つめている。髪には触れたままだ。
 恐ろしく造作の整ったこの男は、美味い酒にも似ている。色の美しさ、香りのまろやかさ、飲み下せば体を熱くして、酔えさえすれば、浮世の憂さを数時間は忘れられる。
 酔って耳の奥に聞く、自分の体の中を流れる血の音。ごうごうと、確かに心臓から送り出され、再びそこへ戻る血の音は、やがてヤンに、流血の大河の存在を思い出させ、そのせいでさらに酔いの必要になるヤンは、自分の血の中に酒を混ぜ続けるだけだ。
 甘いチョコレート色、あるいはミルクコーヒー色の髪のこの男をこうして眺めていると、ヤンの内側のどこかがゆっくりと波立って来る。強いて言うなら、愉快と言うような、そんな気持ち。子どもの頃に、繰り返し繰り返し読んだ冒険の物語の、本を抱えてベッドへゆく時のような、そんな感覚。諳んじてしまった内容を、それでも読むたび高揚する気分が止められず、夢の中にまで入り込んで来るその物語の中へ、自分がいっそ飛び込んでしまいたかった、無邪気な子どもの頃の思い出。
 シェーンコップは、様々な感情を喚起する。なぜなのか分からない。この髪の色のせいだ、好きでもない甘さが舌の上に甦る、この色のせいだと思いながら、ヤンはそれをいじる手を止めずに、この髪を食べてしまったら、チョコレートの味がするのだろうかと、馬鹿馬鹿しいことを考える。
 本物のチョコレートも、本物のコーヒーも、どちらもヤンには必要ない。欲しくもないのに、この男の髪色と言うだけで、舌に乗せたくなる。なぜだろう。
 空腹のような表情が浮かんでいたのかどうか、シェーンコップが可笑しそうに微笑んで、
 「もう、よろしいですか。」
 言われて、ヤンはやっとシェーンコップの髪から手を放した。
 視線は外さずに、けれど体の間に距離が空くと、途端にまたその髪に触れたくなる。口に入れたらきっと甘いだろうと、チョコレートもミルクコーヒーも思い浮かばず、ただその髪を口に含みたくて仕方なかった。
 想像するだけで、口の中に広がる美味(あま)みへ、ヤンの舌が思わず動く。
 「小官の髪が、何か──?」
 ヤンはぼんやり首を振り、髪の色より幾分明るい瞳へ見入ると、その髪色で、口の中から消えない鉄の味が上書きされることに突然気づいて、ああ、この男のコロンと同じだと思った。
 血の匂いと血の味を消すために、ヤンは手にしていたぬるい紅茶を口に含み、その苦味で逆に血の匂いを強められて、思わず顔をしかめて自分の手元を見る。
 養い子に制限されている酒の代わりに、シェーンコップを見つめて、もう一度改めて、ヤンはこの髪を口に含みたいと思った。
 そう思っただけで、口の中に甘さが甦り、血の匂いが遠ざかる。
 血の染みは消えない。それでもわずかの間、その味と匂いを忘れることはできる。
 決して忘れてはいけないことなのだとしても。
 ヤンは自分を戒めながら、気の鬱ぐことだと思って、その昏くなった瞳のままシェーンコップを見つめた。ヤンの瞳に走る色の意味を、この男なら言わずに悟るだろうと期待したその通り、シェーンコップが少しだけ眉を寄せて、痛ましそうにヤンを見る。
 ごうごうと、また血の流れる音が耳の奥から聞こえ始めた。それはヤンの血ではなく、宇宙のどこかを渡ってゆく、流血の大河の音だ。この手を取ってそこへ飛び込もうとしたら、この男は拒まないのだろうなと、シェーンコップの手をちらりと見て、ヤンは根拠もなく確信する。
 溺れながらシェーンコップを抱きしめて、血で満たされた口の中に、けれどその髪に触れただけで何もかもがかき消える──ヤンは、血の色を消すためにゆっくりと瞬きし、遠ざかる幻聴を追わずに、ただシェーンコップを見つめていた。
 君は、とまた言い掛けて、同じように口ごもるヤンへ、シェーンコップはもう何も聞き返すこともせず、触れ合わない距離を空けたまま、慰撫する視線をヤンに当てて、ふたりの手の中で冷めてしまったコーヒーも紅茶も、再び口がつけられることはなかった。

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