各媒体、コーンスープのお口ヤンとシェーンコップ。

スープの冷めない距離

● DNT ●

 事の起こりは、午後の休憩に行って戻って来たヤンが、やけに不機嫌だったことだ。
 あまり気分の上下と言うものを見せないヤンが、珍しく唇を尖らせて、眉の辺りに険しいしわを刻んで、何かまた政府がろくでもないことを言い出したのがヤンの耳に入ったのかと、それを見たシェーンコップはまず考えた。
 そんな話は聞いていないがと思いながら、どうかしましたかと、できるだけ穏やかに訊いてみた。
 「コーンスープがなかったんだ。」
 「は?」
 スープと言う言葉の響きに似つかわしくない声音と表情で、ヤンが説明を続ける。
 「休憩所のサーバーに、コーンスープがあったから、いつか試してみようと思って、今朝からずっとスープのことを考えてたのに、さっき行ったら中身が入れ替え中だか何だか、出ないって表示が出てたんだ。」
 ヤンは今にも机でも叩きそうに、悔しそうな表情を浮かべた。
 「はあ・・・コーンスープ、ですか。」
 そう言うシェーンコップの鼻先に、ちょっと甘い香りが立ち、あたたかで少しとろみのあるきれいな薄黄色の液体の感触が、舌の上に思い起こされた。
 ヤンがそんなことを言うから、シェーンコップもちょっとあたたかなスープが飲みたくなって、よく行くサンドイッチのスタンドにはスープのメニューはあったかなと、ヤンの憤りを一瞬放置して考える。
 ヤンはコーンスープだと言うけれど、シェーンコップの気分はもっと具のたっぷりと入った、ミネストローネみたいなスープだ。いやもっと肉々しい方がいいか。スープのメニューがある軽食スタンドはどこだ──。
 「朝からずっと・・・いや、昨夜からもう、今日はコーンスープを飲みたいってずっと決めていて、わたしの頭の中はそれでいっぱいだったんだ。わたしの口はもう完璧にスープしか受け付けないんだ。スープなしじゃ今日は何もできない。」
 何だかこの世の終わりみたいに頭を抱えこんで、それでもユリアンがアイリッシュシチューでも差し出せば、一瞬でコーンスープのことなど忘れてしまうに違いないと、シェーンコップは、ヤンには見えないように苦笑する。
 ああだが本当にスープが食べたくなって来た、これではもう午後は仕事が手に付かない──。まるでヤンと脳が繋がったように、シェーンコップの頭の中もスープでいっぱいになる。
 まだ険しい表情を消さないヤンの頭から、湯気が出ている幻影が見えて、ヤンがこんなに心中剥き出しなのも、自分の目の前だからだろうと思えば、ようするに間接的に何とかしろと言われているようなものかと、正しく部下の心境で、シェーンコップはそのような結論に達する。
 どちらにせよ、ヤンの不機嫌をあやすにやぶさかではなく、そしてシェーンコップの頭も胃も舌も、完全にスープに支配されていた。
 シェーンコップは、机の上の書類の山──キャゼルヌが進呈したに違いない──へ掌を置き、できるだけ優しい声を出した。
 「仕事は待ってはくれませんよ、閣下。」
 「──分かってるよ。」
 「きっと明日には、サーバーも元通りになっていますよ。」
 「──分かってるさ。でもわたしは、今コーンスープが食べたいんだ。今じゃなきゃ嫌なんだ。」
 言いながら頭をくしゃくしゃと片手でかき回し、そうしながら、もう一方の手で、書類を1枚取り上げる。
 「明日もサーバーが直ってなかったら、責任者を探すことにするよ。」
 「ご英断ですな。」
 低めた声で、笑いを噛み殺しながら言う。
 まだ、黒い眉は寄ったままだ。それでもヤンが書類の上に顔を伏せて中身を読み始めたから、シェーンコップは答礼は期待せずに敬礼して、ゆっくりとその場を去った。


 ペンを放り出して、ヤンはやっと手を止めた。書類の山はあらかた片付き、帰宅のためにここから立ち上がるまで後1時間くらい、今夜の夕食は何かなと、ユリアンの笑顔を思い浮かべながら思って、それでも舌からコーンスープの味が消せない。
 今日のわたしの口は、コーンスープだったんだ。
 何だかひどく理不尽な目に遭ったような気がして、自分の被害妄想が、時間の経過でましになるどころか、夕食を目の前にしてさらに悪化しているのに、これはきっと妙に腹が減ってるせいだとヤンは解釈した。
 スープのために、昼を軽くしたからなあ。
 おまけにシェーンコップにみっともないところを見せて、八つ当たりめいた言い方までして、あの男もきっと呆れたことだろうと、ヤンは処理済みの書類をとんとんと机の上で揃えながら、気分を変えるために、ユリアンに電話して今日のメニューを訊こうかなと考えた時、執務室のドアがするりと開(あ)き、再びシェーンコップが、爽やかな笑みを浮かべて入って来る。
 敬礼しなかったのは、両手が塞がっていたからだ。その手に、コーヒーや紅茶の紙コップよりひと回り大きく、そして少し背の低い、発泡スチロールのカップ。
 「遅くなりました。探すのに少し手間取りまして。」
 右手のカップを、そっとヤンの前に置く。半透明の蓋の上にはプラスティックのスプーンが乗り、そして、今日ヤンがずっと考えていた匂いが、かすかにそこから漂って来ていた。
 「え、准将、これ──?」
 「コーンスープです。サーバーのではありませんが、お口に合えば──。」
 ヤンは目を白黒させて、シェーンコップとカップを交互に見て、そしてついに匂いに耐え切れずに、そっと蓋に手を掛けた。
 「君、わざわざ──。」
 「私も、口がスープになってしまいましたので。」
 あくまでさり気ない風に言って、さらに爽やかに微笑み、くだけた態度で机の端に腰を引っ掛けて来る。
 蓋の中はびっしりと水滴がつき、そしてスープの薄黄色い表面から、まだかすかにぬくもりのある湯気が立つ。ヤンはそれと漂う匂い両方に目を細め、唾液でいっぱいになる口の中で、舌なめずりするように舌を動かしていた。
 スプーンでかき混ぜると、たっぷりのコーンが引っ掛かる。甘い香りがいっそう強くなり、ヤンはいただきますも何もなく、ひとすくい、すぐに口元へ運んだ。
 ああ、これだ、昨夜からずっと考え続けていた味と匂い。コーンの歯触り。噛むと、甘い香りが鼻に抜ける。まだ舌を焼きそうに、十分熱いスープが、喉と胃を焼いてゆく。ヤンは眉の間を開いて、知らず微笑んでいた。
 「君のも、コーンスープかい。」
 「いえ、私のはチキン入りトマトスープです。」
 行儀の悪い格好で机に半分腰掛け、わざとちょっと音を立てて赤いスープを口に運ぶシェーンコップは、何だかとてもチャーミングに見えた。
 「もっと大きなサイズもありましたが、夕食の障りになっては坊やに悪いでしょうから。」
 そうだ、休憩に飲む紅茶より少しだけ大きいくらい、軽食に最適のサイズだ。これなら全部食べても、ユリアンの夕食が入らないと言うことはない。
 ヤンは安心して、がしがしカップの底をスプーンの先で引っ掻いて、コーンの粒を残らず探そうとした。
 シェーンコップはひと際大きな人参の輪切りをすくい取りながら、ヤンの方は見ずに静かに言った。
 「サーバーの責任者には連絡をしておきました。明日の午後までにはちゃんと直しておくそうです。」
 ヤンは持ち上げたカップを口元へ近づけたところで、そのカップで隠した口元で、
 「・・・相変わらず仕事が速いなあ、防御指揮官どの。」
 「司令官閣下のご機嫌を可及的速やかに平常に戻すのも、防御指揮官の重要な任務のひとつかと存じます。」
 わざと慇懃無礼な風に言うのへ、ヤンは止められず吹き出しそうになった。
 空になったカップに、元通り蓋をかぶせ、ごちそうさま、とヤンはすっかり和やかになった表情を声で言う。軽くふくれた胃の辺りを撫でたそうにしながら、
 「みっともないところを見せて、悪かった。」
 素直に謝るヤンへ、シェーンコップはにやっと人の悪い笑みを返し、
 「私が閣下なら、サーバーを蹴り飛ばしてたかもしれませんよ。」
 あくまでにこやかにそう言うのが、案外冗談でもないように思えて、ローゼンリッターの詰め所付近の休憩所では絶対に飲食物を切らすなと、管理の責任者に必ず伝えておこうと、メモするようにヤンの指先が動く。
 それから、やっといつもの落ち着いた声で、ヤンは穏やかに言った。
 「君に礼をしなきゃな。君はブランデーよりウイスキーの方がいいのかな。」
 「ウォッカでも構いませんよ。」
 シェーンコップが笑って見せる。
 「ウォッカか、じゃあわたしの口をウォッカにしておかないとね。」
 「私の口も、ぜひウォッカにしておきましょう。」
 空になった自分のカップとヤンのカップをまとめて、シェーンコップは机から下りた。
 再び両手が塞がってヤンには敬礼ができず、代わりに微笑みを微動だにさせずに、シェーンコップは、スープを食べていた時と同じくらいチャーミングな仕草で、かすかに頭を傾けた。
 「もっと、別の口にしても、私は構いませんがね。」
 ヤンの反応を待たずに、では、とシェーンコップは背を向け、ドアを通り抜けながら意味ありげなウインクを、かすかに向いた横顔から投げて来た。
 別の口とは一体どういう意味かと、問う時間をヤンに与えず、そのせいでヤンは、今食べ終わったばかりのスープのせいで上がった体温で首筋と頬をかすかに赤らめ、その上にさらに、別の赤みを加えて、シェーンコップにスープの礼をする日まで、その答えを探し続けることになる。
 どういう意味か、分かっているような分かっていないような、ユリアンの夕食のアイリッシュシチューを口にするまで、ヤンの舌の上から、今日のコーンスープの味と香りが──そしてかすかな頬の赤みも──いつまでも消えないままだった。



● YJ ●

 「シェーンコップ、そこにいる?」
 ローゼンリッター連隊長の執務室の、連絡通信端末の画面に突然出て来た人物が、何の前置きもなく、応答したリンツに訊いた。
 「あ、はい。ただいまお呼びいたします!」
 リンツは思わず直立不動になり、画面の人物に向かって、彼らの使う戦斧よりも尖そうな敬礼をして、あたふたと部屋の外へ駆け出してゆく。
 「閣下!!閣下からお呼び出しです!」
 誰が誰やらさっぱり分からないリンツの呼び方に、ここで閣下と唯一呼ばれている男が、広い背から首だけねじ曲げて来る。
 リンツがこの場で閣下と呼ぶのはシェーンコップ准将、そしてローゼンリッター13代目の元連隊長であり、今はイゼルローン要塞防御指揮官と言う要職に就くこの男が閣下と呼ぶのは、この要塞の最高司令官であるヤン・ウェンリーだけだ。
 「提督が?」
 意外そうな表情を横顔に浮かべ、のっそり立ち上がる仕草に急いでいる様子はなく、自分の上官と言うだけではなく、ここでは誰も逆らえないことになっている人物の、いかにも緊急と言う風な呼び出しに、シェーンコップは不審がっても急かされることもなく、長い足を持て余すように、自分の代わりにあたふたと言う有様のリンツの傍を、草原をパトロールするライオンみたいに通り過ぎた。
 「何か御用ですか、司令官閣下。」
 小さな画面で、ヤンが厳しい顔を見せる。シェーンコップも思わず口元を引き締めた。
 「うん、大事な用なんだ。コーンスープをわたしのところまで持って来てくれ。30分しか待てないよ。それ以上になったらわたしは餓死してしまうよ。わたしを餓死させたくなかったら、30分以内にわたしのところにコーンスープを持って来てくれシェーンコップ准将。」
 は?ととぼけた声が出た。コーンスープが何だって? 聞き間違えたか?
 小さな画面の中のヤンは、普段に似ない真剣さでそれだけ早口に言った後で、すっと机の上に肘を乗せ、画面の方へ身を乗り出すようにした。
 「頼んだよ、シェーンコップ。早くだよ。は、や、く。はーやーくー。」
 強調するように、歌うようにそう繰り返すのに、リズムを合わせて一緒に机を叩きそうな勢いだった。
 そしてシェーンコップが、了解と返答する前にぷちりと通信は切れ、シェーンコップは画面には入らないように、傍で通信を見聞きしていたリンツを、思わず眉を寄せて見やる。
 「おいリンツ、おまえにもコーンスープって聞こえたか。」
 「・・・はい、コーンスープと聞こえました。」
 シェーンコップはあごひげに指先を当て、考え込む表情を作る。
 「ヤン・ウェンリー司令官閣下が、コーンスープをご所望と・・・30分以内にと・・・シェーンコップ准将閣下に・・・。」
 シェーンコップのために、リンツがヤンの言ったことを繰り返す。今の通信の内容を要約しながら、リンツの顔にも疑問符が踊っている。なるほど、幻聴ではなかったか。
 「コーンスープなんぞ、どこで見つかるか、知ってるか。」
 「サンドイッチやサブを売ってる店なら多分。」
 「公園の回りに、確か店が固まってたな。」
 「ああ、あそこならコーヒーのスタンドもありますし、軽食を扱ってる屋台もたくさんありますから、もしかしたら──。」
 「とりあえず行って来る。時間がない。」
 「お供いたしましょうか。」
 腕時計を見ながら、部屋を出ようとするシェーンコップへ、リンツが背筋を伸ばして尋ねるのへ、シェーンコップは振り向きもせず、いらんと手だけ振って姿を消した。


 どこのスタンドもサンドイッチショップも、チキンヌードルスープや、イタリアンウェディングスープや、ミネストローネスープなら、今日のおすすめのメニューに載せているのだけれど、コーンスープはすぐには見つからなかった。
 クラムチャウダーの匂いにちょっとそそられ、ブロッコリーは特に好きではないけれど、ブロッコリーのクリームスープは美味そうだと思いながら、次々に目に入る店でコーンスープがあるかと尋ねて回り、どこでも首を振られてから、シェーンコップは何度も時計で時間を確かめた。
 30分を過ぎても、まさか怒髪天を衝くような怒り方をする男ではないけれど、むくれられると後が面倒だからと、シェーンコップは足早に次の店へ向かう。
 腹が空くと、人間怒りっぽくなるしな。
 昼めしを抜いた話ではなく、戦場で何度か敵の目の前に取り残され、必死で数日応戦し続けながら、戦死が先か餓死が先か、武器が尽きるのが先か食料が尽きるのが先かと、そんな不安に叩き込まれたことを思い出している。
 そうして、一体何のつもりか、要塞最高司令官が欲しいと言うコーンスープを、要塞防御指揮官があちこちかけずり回って探し回るというこののんきさに、シェーンコップはささやかな、束の間の平和を楽しんでいることを痛感していた。
 あまり流行っている風でもない、小さな構えの店の中には、レジに店番の少女がひとり立っていて、シェーンコップが入ると店内は途端にいっぱいに、外からの光を遮られて薄暗くなる。
 少女はシェーンコップを見てちょっと後ずさりし、それから震える声でいらっしゃいませ、とやっと言った。
 「コーンスープを探してるんだが。」
 「・・・コーンスープ?」
 彼女の声が、シェーンコップがヤンと通信した時よりも不審げな感じに語尾を上げ、シェーンコップはそれに向かって、重々しくうなずいて見せた。
 「──コーンスープだ。」
 「コーンスープ?」
 「コーンスープ。」
 少女は上目遣いにシェーンコップを見、あごに指先を当てて、申し訳なさそうに首を振る。シェーンコップは途端にがっくりと肩を落とした。
 もう公園の回りはほとんど1周してしまっている。この店で駄目なら、後何軒残っていることやら。
 そうか、と言って肩を回そうとするシェーンコップへ、不意に彼女が、
 「あ、待って、あの──」
 呼び止められて振り返るシェーンコップへ、
 「あの・・・もし、待ってもらえるなら・・・明日の分のが・・・」
 「あるのか!?」
 どうやらシェーンコップの必死の形相に同情でも覚えたのか、そして今は噛み付くような勢いでカウンターへ身を乗り出して来るシェーンコップに恐れをなしてか、気の毒な少女は小さく震えて消え入りそうに肩を縮めながら、
 「ある、ので・・・あっためるのにちょっとお待ち下さい。でも内緒にして下さい。」
 内緒って誰にだ? ここの経営者か? 誰にも言わん。さっさとスープを出せ。そう思ったのを言葉にはせず、シェーンコップはせいぜい優しい──つもりの──笑みで少女に感謝の意を示す。
 もう時間はなかったから、待つ間に約束の30分とやらは確実に過ぎてしまうけれど、他の店を回って結局見つからないよりはずっといいと、シェーンコップはできるだけ店の隅へ行って、奥へ消える少女の背を見送った。
 急かすつもりはなくても、つい爪先と指先が動く。たかがスープだと自分──と脳内のヤン──に言い聞かせて落ち着こうとしながら、深呼吸をして待つ間の暇つぶしに、そう言えばあの少女の髪の色は、ヤンの養子のユリアンのと良く似ていたなと思い出す。
 コーンスープが飲みたいと、あの坊やに言うならともかくも、なんで私にですか司令官閣下──。
 とは言え、欲しいものなど滅多と口にしないし、そもそも本と紅茶と酒以外、欲しいものもなさそうなヤンのわがままなら、できる限りで叶えるのにやぶさかではないシェーンコップだった。
 コーンスープが見つかったことに安心して、ちょっと気を抜いて外を眺めているシェーンコップの背後へ、また少女の気配が戻って来る。
 両手の中に、発泡スチロールの容器をそっと抱えて出て来ると、彼女はそれを丁寧にビニール袋へ入れ、シェーンコップの方へ差し出して来た。
 「熱いので、気をつけて下さい。」
 おう、とぶっきらぼうに答えながら、ポケットから出した小額紙幣を置くが早いかシェーンコップはもう立ち去ろうとして、
 「あ、おつり!」
と少女が叫ぶのに、いらんと手を振って、
 「礼代わりに取っといてくれ。」
 このスープが美味そうなら、今度また来ようと、店から出て通りを渡ってから、シェーンコップは一瞬だけそちらにちらりを振り向いた。


 「遅かったね。」
 執務室に入った瞬間、ヤンが机の向こうから声を投げて来た。
 「提督のために要塞中走り回った部下に対する言い方ですかそれが。」
 「てっきり、君がわたしなんか餓死すればいいと思ってるのかと思ってたよ。」
 背中の後ろからビニール袋を取り出し、目の高さに掲げて見せた途端、ヤンの言葉がぷつんと途切れ、両手がこちらに差し出されて来る。
 「司令官閣下に死なれては、これからの人生が退屈になりますからな。」
 ヤンの目の前に、シェーンコップはそっと取り出した、少女の親切でやっと手に入れたスープの容器を置いてやった。
 「熱いそうなので、気をつけて下さい。」
 うん、と言って用心深くふたを開けながら、
 「わたしが死んだら、突然スープを持って来いなんて言う上官がいなくなって、君にはいいんじゃないのかな、シェーンコップ准将。」
 物騒なことを口にしながら、ほかほかと湯気の立つ、薄黄色いコーンスープを見て、ヤンは顔いっぱいに破顔した。
 ああ、俺はこの顔が見たいんだと思いながら、シェーンコップは行儀悪く机のこちらの端に腰を半分引っ掛けて、ヤンに向いて坐る。
 「中が一体どうなってるのかまったく不明の敵の前線基地に、一個小隊で乗り込んで来いと命令されるよりはずっとましですな。」
 プラスティックのスプーンが、ヤンの大きく開いた口の中に消える。即座に目尻が下がった。
 「イゼルローンを落とすよりは簡単だったかな。」
 茶化すように言うシェーンコップを混ぜっ返すヤンは、スープをすくう手を決して止めない。
 「・・・いや、イゼルローンを落とす方が簡単だったかもしれません。」
 昼の混雑する時間は過ぎていたとは言え、公園周辺の人混みの中を走り回ったシェーンコップは、すくい上げたコーンの粒をそっと口元へ運ぶヤンの、満足そうな表情に、こちらも目尻を極限まで下げた表情を浮かべていた。
 「・・・美味いですか。」
 「うん、美味いよ、ありがとう。」
 あの少女のいる店に、今度はヤンと一緒にいってみようかと思いながら、シェーンコップはだらりと無防備に、両脚の間に手を投げ出す。
 スープを半分近く食べて、やっと落ち着いたように、ヤンがぼそぼそ話し出す。
 「ここからはちょっと遠いんだが、将官向けじゃない方のカフェテリアの近くの休憩エリアに、スープのサーバーが置いてあってね、そこにコーンスープがあって、いつか試したいなあって思ってたんだ。」
 ぺろりと、行儀悪くスプーンの表面をヤンは舐める。
 「で、今日こそはって昨日から考えててね、昼に行ったんだよ、そこに。」
 「お目当てのコーンスープがなかったと──?」
 先読みして、シェーンコップが言い継いだ。
 「そう! 入れ替え中とか何とかサインが出ててね、よりによって今日にだよ!」
 スプーンを持った手を、憤りで振り上げそうにヤンが言う。
 「わたしの口は、もう昨夜からスープだったんだ! 他のものなんか食べられないよ。」
 かさかさ、容器の底をスプーンの先でひっかく音がする。もう空なのか。もうひとつ大きいサイズにすれば良かったとかすかに後悔して、やはりあの店に、ヤンと一緒に行かなければとシェーンコップは改めて思った。
 他に何のスープがあったか、サンドイッチはどんなメニューだったか、ろくに見もしなかったシェーンコップは、コーンスープが美味いなら外れではあるまいと、すっかり満足して容器をまとめるヤンの手付きを見ていた。
 「ああ美味かった。」
 スプーンまで丁寧に舐めて、すっかりきれいに食べ終わってから、今気づいたと言うように、
 「そう言えば、君の分は? 君は何も持って来なかったのかい、シェーンコップ准将。」
 シェーンコップは大袈裟に空の両手を広げて見せて、
 「私はとっくに昼メシは済ませちまいましたので。」
 椅子から腰を滑らせて床に下りながら、ヤンが食べ終わったスープの容器をさっさと取り上げた。
 「残念だな、君と一緒に食べたらもっと美味かったのに。」
 ヤンは、時々こんなことをさらっと言う。言葉通りの意味なのか、それともシェーンコップがそう願う通りの響きに聞き取るべきなのか、奥行きの見えない黒い瞳に、そのヒントになるような閃きは窺えず、それでも熱いスープに上がった体温のせいでか、少し潤んで見える目へ、シェーンコップは一瞬全身を吸い込まれたような心持ちになる。
 だからこそ、スープを今すぐ届けろなどと言う、益体もないヤンのわがままを、シェーンコップはついうきうきと聞いてしまうのだった。
 「今度は一緒に、スープを食べに行こうよ。わたしがおごるから。」
 今日のお返しに、と言い足すついでのように、無意識の仕草かどうか、ヤンはかすかに頭を傾ける。
 今日はずっとスープの口だったのだと言うヤンに、ああ、俺の口はたった今あんたになりましたよ司令官閣下、と、口にすれば恐ろしく下品な言い方になりそうなことを思って、シェーンコップは薄赤く血の上がった頬を隠すように肩を回す。
 では、と背中を向けて敬礼すると言う無礼も、このふたりの間では特に問題にもならず、立ち去るシェーンコップの広い背に向かって、ヤンが無邪気に手を振っている。
 スープを食べたわけでもない頬の辺りが、ずっと熱いままだった。



● OVA ●

 「おや、提督、どちらへ。」
 まるで監視カメラでもあるみたいに、執務室を出て数歩進んだ途端に、後ろからぴたりと張り付いて来るのは、要塞防御指揮官のシェーンコップだ。
 ヤンはわざと振り返りはせずに、瞳だけじろりと後ろへ動かして、
 「ちょっとね、休憩がてら──」
 中途半端に語尾を切り落として、どこに何をしに行くと、これもわざとはっきりとは言わない。遠回しに、君には関係ないねと言っているつもりで、きちんと通じているのも関わらず、後ろの男は歩調を変えずにヤンについて来る。
 口に出さなくても、ヤンの頭の中を聡く読むくせに、読んだからと言ってヤンの意に沿うように行動するとは限らないこの男は、ヤンのためではなく自分がしたいように行動していると見せ掛けて、実のところはヤンのためなのだと言う、周囲にもヤンにも、ひどく分かりにくいやり方をする。
 自分から離れずついて来ると言うことは、言わないだけで警護のつもりかと、ヤンは理解してまたじろりと瞳を後ろへずらした。
 まあいい、別について来られて困るところでは──。
 いつも行く休憩所とも、普段使うカフェテリアとも違う方向へ、何度か通路を曲がってゆく。シェーンコップはヤンに合わせた歩調をまったく変えず、けれど広い肩の辺りを訝しげな空気に揺らして、休憩と言うのに向かう方がいつもと違うと、素早く頭を巡らせているのが、後ろからヤンに伝わって来る。
 なるほど、ヤンが日常的に利用している場所はすべて把握していると言うことか。これも防御指揮官の任務のひとつ、と言うよりも、ヤンのボディーガード──自称──同然の自分の仕事だから当然だと、シェーンコップなら胸を張りそうだった。
 やれやれと、ヤンはいつものように髪をくしゃくしゃかき回したい気分になって、持ち上げそうになった手を止めた。
 そうして、のろのろ進むヤンが足を止めたのは、どのカフェテリアよりも少し距離のある、辺鄙な場所にある、他よりも少し広々とした休憩所だった。
 休憩所とカフェテリアの中間、何か売っているのか、レジがあり、担当らしい女性の姿が見える。
 地図や見取り図で確かめて、カメラで見たことはあるけれど、シェーンコップは来たことのない場所だった。
 ヤンはレジの方へすたすたと向かい、心なしか、その足取りがうきうき弾んでいるように、シェーンコップには見えた。
 セルフサービスのコーヒーのサーバー、ティーバッグ、そのための湯、そこまでは他の休憩所と変わらない。レジの傍にはサンドイッチが置いてある。そしてそのサンドイッチの隣りには、大きなポットが3つ。そこから、いい匂いが漂っていた。
 なるほど、カフェテリアから遠いために、ここに簡易に軽食を置いていると言うわけか。
 ヤンはポットの前に立ち、その足元へ置いてある札を見て、どうやら目当てのものが見つかったのか、楽しげな横顔をシェーンコップへ見せて、ポットの蓋へ手を伸ばす。
 開けて、そして、天国から地獄へ。
 ヤンの顔色と表情が、一瞬で天地がひっくり返ったみたいに変化した。
 「ああ、すみません、それ、今日はもう売り切れなんです。」
 ヤンが誰だか見分けないらしいレジの女性が、ろくにヤンの方を見ずに声だけ投げて来る。退屈らしく、向こうを向いてあくびを噛み殺し、ヤンの浮かべている絶望の表情には興味も湧かないようだった。
 ヤンはそっとポットに蓋を戻し、そうと分かるほど肩を落とし、無言でそこから離れた。
 傍を通り過ぎる時に、シェーンコップを見に顔を上げもしない。シェーンコップはまたヤンの後ろを、今度は1歩半離れて追った。
 背は伸びていても、足取りが明らかに重い。他のポットを見もしなかったと言うことは、あれだけが目的だったと言うことか。一体あの中身は何だったんだろうと思いながら、シェーンコップはそれをヤンの背中に訊いた。
 「残念でしたな。一体、お目当ては何だったんですか。」
 ヤンがゆっくりと足を止める。1歩後ろで、シェーンコップも止まった。
 「・・・コーンスープだよ。コーンたっぷりって書いてあってね。」
 「ほう、そりゃ美味そうですな。」
 「うん、実際いい匂いだった。ちょっとあの辺まで足を伸ばす用があってね、つい匂いにつられて通りがかりに、初めてあの休憩エリアに入ったんだ。スープが置いてあるとは思ってなくてね。」
 振り向かず、背中を向けたまま話すヤンの声が、かすかに震えている。そうか、そんなにあのコーンスープが楽しみだったのかと、シェーンコップは少しばかり憐れを覚えて、思わずヤンの肩へ手を伸ばしそうになった。
 「トマトスープやチキンスープはカフェテリアでもよく見掛けるが、コーンスープは初めてでね、それで、いつかと思ってたんだが・・・残念だよ。昨日からずっと今日こそと思ってて、わたしの口はずっとスープだったんだ。」
 「貴方のあの坊やに頼めば、コーンスープくらい──」
 「ユリアンはもうひと月分の献立を、わたしのためにいつも先に考えてくれててね、今から頼んでも作れるのは来月になってしまうんだよシェーンコップ。」
 なるほど、さすがこのヤン・ウェンリーの養子だけのことはある。キッチンでも最優秀か。少々優等生過ぎるきらいはあるがと、苦笑と一緒に付け加えて、
 「なるほど、それでは不肖私(わたくし)めが、提督のために特別に骨折りをいたしますか。」
 シェーンコップが腕組みしながら、いつもの煽るような口調で言うと、やっとヤンが振り返る。
 「君が?」
 「貴方の坊やほどじゃありませんがね、私も、祖父母に習ったスープくらいなら作れますよ。コーンスープも、以前何度か。」
 へえ、と意外そうに、ヤンの色濃い眉が上がる。でも、とすぐにそれはまた曇った。
 「それはありがたいが・・・でも、今日の話じゃないんだろう。」
 シェーンコップはちょっと面食らって、目を大きく開き、それから何度か瞬きした。坊やも大変だなと、内心でうっすらあのとても良く出来た少年に同情しながら。
 「ずいぶんとせっかちですな提督。普段気の長い貴方らしくもない。」
 戦争と本以外では、著しく決断力と言うものを欠く自分の上官へ、シェーンコップは片方の眉を上げて見せる。
 「・・・分かってるよ、でも今日のわたしの口はスープなんだ。他のものは欲しくないんだ。」
 「坊やの夕食も?」
 「・・・それは別だよシェーンコップ。」
 ふっと笑って、シェーンコップは肩をすくめた。この上官の胃を完璧に掴んでいる養子の少年に、苦笑交じりに、けれど本気のやきもちを焼いて、今夜は本棚をあさって、徹夜ででも祖母の書き残したレシピノートを探さなければと考える。
 買い物は明日か──となると、さて、坊やにはどう言い訳いたしますかな、提督。
 もう来月までの献立を考えていると言う義理の息子に、この男はどんな表情で、今夜は家では食べないよと言うのだろう、そしてあの坊やは、どんな悲しそうな顔と声で、そうですか分かりましたと応えるのだろうと、シェーンコップは想像して、きっと自分も内心ではいつもそんな表情をしているのだと、ヤンを見つめて思った。
 「とりあえず、明日の夜まで我慢なさい。それまでは、私が提督の、スープの口とやらを変えて差し上げることにいたしましょう。」
 やけに慇懃に言いながら、シェーンコップはヤンに半歩寄る。
 スープの口を変えるって?と、ヤンが聞き返すその唇を、もう通路の物陰へ引き込みながら塞いでいる。
 天井近くの監視カメラの角度を読みながら、モニタの中には映らない場所へ滑り込んで、自分の体でヤンを覆い隠した。
 シェーンコップの、かすかにコーヒーの匂いの残る息に、ヤンが眉を寄せて、それでもそれが自分の紅茶の香りの息を上書きしてゆくのを決して止めずに、眉をゆっくりと開く頃には、シェーンコップの言う通り、コーンスープのことはヤンの頭の片隅へ追いやられている。
 シェーンコップの作るコーンスープは、一体どんな出来だろうと、同じ頭の隅で考えて、コーンは多めに入れてくれと考えたのが伝わったのか、一瞬は離れた唇の間で、仰せの通りにと、元帝国人の美丈夫が気取った言い方をした。
 スープを食べた後みたいに、もうヤンの喉と胃の奥が、火照ったみたいに熱かった。

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