Deeper in the Hole
それほど寒い日ではなかった。水分の多い雪はそれでも地面にうっすらと積り、差した傘に残る雪は、柄を握る手に確かな重みを伝えて来る。滑らないように、雪を踏む爪先を見ていたヤンは、行く手のすぐ目の前に彼が自分を待っているのに気づかなかった。「シェーンコップ。」
まるで本物の猟犬のように、この男はヤンの行動に嗅覚が鋭く、今日のようにふらりと出掛けた先へも、こうして姿を表わすのが常だった。
「ひとりで出掛けるなとは言いませんが、せめて行き先くらい言い置いていただけませんか。」
一体このヴァルハラのどこに、今さらヤンに対して害意を表す輩がいるのかと思うけれど、ヤンが行方知れずになると、今そうしているように、口調はあくまで冗談めかしても灰褐色の目はちっとも笑っていない。
ヤンは傘の中で、聞こえないように小さくため息をこぼす。
「ちょっと探したい本があっただけだよ。残念ながら空振りだったがね。」
シェーンコップは3歩分の距離を2歩半で詰めて来て、ヤンの手から傘を取り上げた。
「傘のいる天気でもないでしょう。」
「寒くはないが、雪で濡れるのがいやなんだ。」
小さな公園を突っ切る形の舗装路に、ちらほらと行き交う人たちは皆空手で、傘を差しているのは確かにヤンだけだった。
「濡れて冷えると、脚が痛む。」
歩いて来るヤンが、かすかに足を引きずっているのにシェーンコップは気づいていたから、取った傘の中に主にヤンを入れて、揃わない肩を並べた。
「君だって、冷えると背中の傷が痛むだろう。」
「私はその手の痛みには慣れてますからね。」
全身傷跡だらけの男が、澄まして言う。ヤンの言う背中の傷は、跡ではない。傷口がはっきりと分かるように黒い糸でざくざくと縫われ、洗われ拭われてはいても、斧で切り裂かれた皮膚の再生しない縁は赤黒いままだ。
痛くはないとシェーンコップは言うけれど、糸を取り去った後には指先の入るほどの隙間があって、裂かれた肉の内側に直接触れる──乾いていて、血は出ない──と言う稀有な経験を、ヤンはする羽目になった。
けものがそうするように、抱き合った後には時々、ヤンはその傷口を舌で舐めた。そうしたところで、もう再生の始まるわけもないと思われたけれど、もう血の味もない、けれど治りもしない傷を、ヤンはひどくやるせなく思って、見るたびそうせずにはいられない気分になる。
シェーンコップも、ヤンの脚に残る銃痕に同じ気持ちを抱いているのだと知ったのは、ヤンが特に深くも考えずにシャワーをそこに掛けていて、裏側まで貫通したその穴に水が通るのを面白がり、シェーンコップをわざわざ呼んでそれを見せた時に、シェーンコップがそれまで浮かべていた笑みを一瞬で消して、ほとんど蒼白の顔を片手で覆ってバスルームを出て行ったからだった。
ごめん、とヤンはバスルームを出て、静かに言った。シェーンコップはそれには答えずに、まだ濡れているヤンを抱き寄せ、肩口にあごをこすりつけた。
大きくはない、けれど深い、その穴。覗き込んで見えるのはただの闇だ。ヤンを血まみれにして、ヤンの命を奪った、その小さな、けれど深い穴。
似たような穴を、ヤンはシェーンコップの胸のどこかに開けて逝ったのだ。血の流れない傷口。抱え込んで、ただ痛みに耐えるしかない、心の傷。
シェーンコップがヤンの腿へ掌を乗せ、覆って、穴を見えないようにする。そうしてヤンに触れて、早過ぎたヴァルハラでの再会にまだ納得はしていないヤンの唇を塞いで、交わす呼吸に体温があるのをゆっくりと確かめてゆく。
ヤンはシェーンコップの背中へ腕を回し、塞がることのない裂けた皮膚をそっと指先に探り、持ち主自身ははっきりと見たことのないはずのその傷を、今はもう指先の感触だけで隅々まで思い浮かべることができた。
穏やかに時間の流れるヴァルハラで、もう何も思い煩うこともなく、それでも、ふたりが別々に通って来た時間を変えることはできずに、体の傷の示す心に負った傷を、ふたりは互いの分まで想像して、もう一度傷つくしかなかった。
その傷を癒やす時間だけは、確かにたっぷりある。シェーンコップの胸には、ヤンの形にぽっかりと穴が空き、ヤンがそこに収まっても穴は完全にはまだ塞がらず、だからヤンの姿を常に視界に収めたがって、シェーンコップはどこか正気を失った目つきでヤンを探し回る。
可哀想に。ヤンは、シェーンコップの頬を撫でながら思う。もう、何も心配はないのに、シェーンコップはそれを心底信じ切ることがまだできずに、再びヤンが突然姿を消して、永遠に会えなくなるのではないかと疑っている。
どこにも行かないと、繰り返し繰り返し躯の深奥で誓っても、まだ塞がらない心の傷の疼きがシェーンコップを少し狂わせて、正気に引き戻すにはヤンの体温が少し足らない。
ヴァルハラは今は冬だ。あたたかくなるまで、もう少し掛かる。白い息の混ざる距離で見つめ合って、それ越しに互いを眺めて、頬に上がる赤みが体温の在り処を確かに示していても、シェーンコップがその色に思い出すのはヤンの血まみれの姿だけだった。
もう少し、時間が掛かる。傷の疼きがやわらぐまで、もう少し待たなければならない。
軽く足を引きずって、ヤンはゆっくりと歩き出した。傘から向こう側の肩をほとんどはみ出させて、シェーンコップも歩調を合わせて歩き出す。
「君が濡れるよ、シェーンコップ。」
水分の多い雪はすぐに溶け、服の上で染みに変わってゆく。それを払いながら、ヤンはあくまでさり気なく、シェーンコップの肩へ触れたまま傘の中で体を近寄せた。
わずかの間、明らかにシェーンコップの歩調が乱れて、けれどそれが元に戻ると、シェーンコップは傘を持つ手を変えて、空けた手でヤンの腰を抱き寄せる。
小さな空間に何とか体を収めて、雪を避けながら、ふたりは歩く。
閉じられてはいない、けれど周囲から区切られた、ふたりきりの小さな空間。傘の中にふたりの体温がこもり、冬の最中にここにだけ春が気まぐれに訪れたように、溶けた雪がぱしゃりと音を立てて傘から滑り落ちてゆく。
ヤンはシェーンコップの肩から手を滑らせ、傷口のある辺りへそっと掌を乗せた。そこから、自分の体温が流れ込んで、永遠にとどまればいいと思いながら、疼く自分の傷の痛みを、なぜか心地好く感じていた。