犬の散歩
「邪魔です、貴方はそこに坐ってて下さい。」邪険に、ほんとうに猫でも追い払うようにしっしと手が振られ、ヤンは憮然と、どっしりとした木製のテーブルへ坐った。
読書の途中に、紅茶でも飲もうと立ち上がってキッチンへ行ったら、後ろから追いかけて来たシェーンコップがヤンを追い越し、手に取った薬缶を素早く取り上げた。
「貴方がやると、手間が3倍に増えますからね。」
容赦ない言い方で、有無を言わせず、事実その通りだった──2倍じゃないのかと反論したのは胸の中でだけだ──から、ヤンはそこから、紅茶の準備をするシェーンコップの背中を観賞することにした。
シェーンコップが今水を満たしている薬缶は、この間ヤンがうっかり空焚きで真っ黒に焦がしてしまい、シェーンコップが数日掛けてぴかぴかにしたものだ。その薬缶以前に、同じ理由ですでにふたつお釈迦になっていたことを、ヤンはまだシェーンコップに知られていない。
貴方の紅茶は、私が淹れますよ。ここに来てすぐ、シェーンコップはヤンにそう言った。君の淹れてくれるコーヒーなら、飲んでもいい。ヤンはそう答えた。そうして、ふたりは見つめ合って微笑み合った。
両手で頬杖をつき、もう何度も水と彼の体温をくぐって布地のくったりと落ち着いた白いシャツの、やや大きさに余裕はあるのに、肩や背中の筋肉ははっきりと現れるその表面へ、その下の彼の皮膚の陰影を想像しながら、ヤンはシェーンコップを眺めている。
肩甲骨の、硬い盛り上がり。両手を添え、ヤンの掌が汗で湿るより早く、自身の熱と汗で湿ってゆく、シェーンコップの大きな背中。
探れば、もうよく見知った──触れて憶えた──無数の傷跡。その中にひとつ、無残に裂けた傷口を晒したままの、彼の世での致命傷だったらしい、斧の刺さったと言う痕。
今も目を凝らせば、シャツの下はすぐ素肌のそこに、深々と穿たれた傷口が見えるような気がする。
すでに縁も中も赤黒く乾き、血の流れる気配はないし、直に触れても痛みはないとシェーンコップは言うけれど、麗しいとは言えないその傷の見た目には、いつ見ても、何度見ても、ヤンは慣れずに眉をひそめて、そのくせ怖いもの見たさのような、シェーンコップを死に至らしめたこの傷を、自分は直視しなければいけないのだと言う奇妙な義務感のような、うまく説明のできない諸々の感情で、ヤンはその傷を指の先に探りたがる。
昨夜は、シェーンコップが長々と体を伸ばしてうつぶせになったその背に重なって、ヤンはその傷を舐めた。
近々と眺めると、まさしく裂けてちぎれた皮膚と薄い肉の断面の、粗い縁がよく見えて、装甲服や斧の手入れに使う溶剤の匂いすら、そこにかすかに染み付いているように思えた。そのくせもう血の匂いは一向にせず、癒えて塞がることはなくても、この傷はもう終わってしまったものなのだと思って、ヤンはそれをやるせないと感じた。
ヤンが先に逝った、ヤンのいない、シェーンコップの1年。その1年を終わらせた、この傷。ヤンは知らなかった、背中の傷。
3年、たった3年、千日と数えてもたったそれだけの、ふたりが一緒にいた短い時間。それでは足りずに、シェーンコップはヤンを追って来た。ここまで。ヴァルハラまで。
傷を舐める。縁を舌先でたどり、裂け目へ舌先を差し入れ、ざらりとした裂けた肉の表面を舐める。乾いて縮まり、固くなったそれを唾液で湿して、血の匂いも味もないことに安堵もしながら、同時に残念にも思いながら。
シェーンコップの流した血を啜る。啜り取り、飲み込む。唇を真っ赤にして、彼を死に導いた血を、自分の血肉にするために、舐めて飲む。そうはできなかった。ヤンはもう、先に逝ってしまっていたから。
傷の縁に歯を立て、今この皮膚と肉を噛みちぎったら、新たに血が流れるだろうかと、ふと考える。そんなことはしない。ヤンはこれ以上シェーンコップを傷つけたくはないし、そもそも他人の血を飲む趣味はない。
それでも、シェーンコップを見ていると、ヤンはいつも、普段は思いもしない考えに囚われてしまうことが多々あった。
湯気の立つ優美なカップを、シェーンコップがヤンの目の前へ運んで来る。きちんと皿に乗ったそれへ、ヤンは嬉しげに目を細める。
ヤンの隣りへ、膝の触れ合うほど近く、椅子を運んで来てわざわざ坐り、
「後で散歩に行きませんか。」
自分の淹れた紅茶を飲むヤンを眺めて、シェーンコップが言う。
「散歩かぁ・・・。」
面倒くさい、と思うのを隠さずにヤンが口移しにした。
「貴方に忠実な、貴方の大事な飼い犬を、たまには外に連れ出して下さってもいいでしょう。」
この紅茶と取り引きだと、ヤンが味にも香りにも満足しているのを見て取って、シェーンコップはちょっと狡猾そうな笑みを浮かべた。
シェーンコップがそう言うままではなく、実際に連れ出されるのは、日長1日読書ばかりしているヤンの方だ。少しは外の陽を浴びて、新鮮な空気でも吸わなければと、小言のように言ったところでヤンが聞くはずもないことを知って、シェーンコップはそんな風に話を持ち掛ける。
犬なら首輪と鎖が必要だねとヤンが言っても、恐らく怯みもせず自分の首を差し出すだろう。生きている時だって、自分で自分をヤンの犬呼ばわりして、今ではヤンももう、それに慣れっこになってしまっている。
「忠実な飼い犬が、飼い主のベッドにもぐり込んで来て、ベッドの半分以上を占領するってのはどういう了見だい。」
「ベッドが立ち入り禁止なら、床の上でもテーブルの上でも下でも構いませんよ、貴方の犬は。」
灰褐色の瞳が動いて、ヤンの足元と、ほんとうにテーブルの上へ視線が流れて行った。
脚のがっしりと丈夫なこの木のテーブルは、確かにふたり分の体重を支えられそうだったから、自分が足を踏み入れ掛けた危険領域のラインを素早く悟って、ヤンはすっとシェーンコップから目をそらし、ずずっと熱い紅茶を啜った。
テーブルの上や下よりはずっとましだったから、
「うん、行こう、散歩、後で・・・。」
ヤンがやっとそう言うと、約束ですよとシェーンコップが声を低める。言いながら、ヤンの耳元へ唇を寄せて来て、鼻先でくしゃくしゃの黒髪をかき分けるようにして、生え際に口づけて来た。
ヤンは紅茶のカップをそっと皿に置き、体半分シェーンコップの方へ向けて、自分から唇の位置をずらしてゆく。
透き通るような美しい紅茶の赤が、シェーンコップの血の色と重なる。ヤンはシェーンコップの背中へ腕を回し、あの深い傷口の辺りを探った。
散歩はもしかすると、もっと遅くになるかもしれない。深夜の散策なら、それでもいいと思いながら、深夜の散歩と思って、ヤンは別のことを考えた。
犬とふたりで、夜にさまよい出る。光合成は、月明かりでもできなくはない。シェーンコップといると、結局そのことばかり考える自分にうっすら自己嫌悪に陥りながら、膝から腿を撫で上げて来るシェーンコップの手を、ヤンは止めようとはしなかった。
本のページを繰る指先で、シェーンコップの首筋へ触れて、ふたりで一緒に絡み合うように椅子から滑り降りながら、広くはないテーブルの下へ転がり込んでゆく。
ベッドよりもずっと狭いその空間で、手足を縮める不自由さすら愉しんで、一緒にはいられなかった1年分を埋め合わせようと、ふたりは息を合わせた。
床の上、テーブルの下、犬はどこにでも入り込んでゆく。ヤンの中にも、遠慮など何もなく。それを許しているのはヤンだ。
「・・・紅茶が冷めるよ、シェーンコップ。」
そう言ったのは、自分に抗うためだった。
「後で、淹れ直して差し上げますよ、提督。」
予想通りの答えが返って来て、散歩は、と続けて問うのをヤンはやめた。これもどうせ、散歩のようなものだ。
テーブルの下から、時々手足がはみ出す。ヤンが二度脚を蹴飛ばして、上で紅茶のカップと皿がかちゃかちゃ鳴った。
シェーンコップの流した血の代わりに、彼の淹れた紅茶を飲む。冷めてゆく紅茶と、熱くなってゆく躯と、伸ばした喉の奥で呼吸を止めて、ボタンを外したシャツの中へ掌を差し入れて、ヤンはシェーンコップの背中を抱いた。
長くて深いその傷を掌で覆い、自分の、小さな穴の開いた腿で、シェーンコップの腰をこすり上げる。
互いを、別の世界へ連れてゆく、奇妙な散歩。熱と皮膚の湿り、そして呼吸を合わせてゆく、不思議な散歩。
シェーンコップが言ったのは、どちらの意味だったのだろうと、白っぽく溶け始めた脳の奥でヤンは考える。
散歩の後で淹れてもらうのは、コーヒーにしようかと唐突に思いつく。たまにはいいだろう。テーブルの下も、目先が変わっていいだろう。犬の視界で辺りを見ながら、はだけた膚に寒さが忍び寄って来ないことに気づいて、そろそろ冬も終わりなのだと薄目にシェーンコップを見上げた。
春が近いせいだ。犬の発情期に付き合って、テーブルの下の風変わりな散歩に出る羽目になったのは、きっと春が近づいているせいだ。
居心地の良い場所を見つけるのが上手いのは、犬や猫だけではない。人間もそうだ。シェーンコップの傍らで、毛布代わりに彼を抱きしめながら、テーブルの下もそう悪くはないと、唇を近寄せて思う。
放り出した手が、窓から入ったまだ弱い日差しを横切り、シェーンコップの下で背を反らしながら喉を伸ばして逆さまにした視界に、ヤンは自分の手がゆるく作る拳を収めて、その拳を開かせ重なって来るシェーンコップの、厚い掌と指を見た。
指を絡ませて、躯を絡ませて、テーブルの下でひそやかにふたりの散歩は続いていた。もっとゆっくり、長く続いてもいいと、ヤンはシェーンコップの下で手足を縮めて、短く切れる自分の息の合間に、シェーンコップの呼吸を奪う。
テーブルの下の、ひと足早い春の気配に誘われて、ヴァルハラにも、もうすぐ春がやって来る。