DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 17

 その日シェーンコップは、上機嫌で現れて、そしてうきうきとヤンを自分のねぐらへ連れて行った。
 見せたいものがあるんですと言ったそれは、穴のいちばん奥へ置かれ、
 「あなたがしていたように、木枠か何かをつけてくれませんか。そうしたらここに飾れます。」
 鉤爪の先で丁寧に開いたそれは、例の、リンツに頼んでいたと言うヤンの姿絵だった。
 なるほど、巨大だったと言う死んだ年寄りの竜の皮は、元の大きさは一体どれほどだったのか、その絵に使われた一部すらゆうにヤンの背丈ほどもあり、ヤンはシェーンコップが広げて見せるそれを、背中を反らすようにして眺め、自分の姿など、水浴びの泉の揺れる水面でしか見ないヤンには、何だか自分とは思えず、これがリンツの見ている自分なのかと、やや面食らって、戸惑うようにシェーンコップを見る。
 シェーンコップの喜びように、ヤンは面映さに顔を薄赤く染め、穏やかな微笑みを浮かべる絵の中の自分が、初めて会う赤の他人のそれに見えて、シェーンコップに向かう時、自分はこんな表情をしているのかと、その幸せそうな様子が何となく馴染まない。
 リンツがシェーンコップのために描いたものと思えば、何かしらそこに、リンツのふたり──主にはシェーンコップ──への好意も含まれているに違いないと解釈して、平たい皮の表面に閉じ込められた自分は、今ここで動いている自分とはまた別物だと、ヤンはやっとその絵を真正面から眺めた。
 それにしても、シェーンコップの時と同じに、今にもそこから抜け出して来そうに精緻な、本物と見紛うばかりの出来だった。
 こういうものを実体化させる魔術はあったかなと、自分の本の山のことを考えて、ヤンは思わずそうする時の癖で指先を絵に向かって振りそうになる。
 ああそうだ、枠をつけて飾れるようにしてくれと、シェーンコップは言ったんだったかな、思い出して、ヤンは持ち上げ掛けた指先を、そのまま絵の端を宙でなぞるように動かし、自分が飾った時よりは少し美しく見える、どこかの地下から引き出した翠の石を、丸く磨いたもので飾ってやる。
 それを見て、シェーンコップの瞳が石の艶を受けてさらに輝き、ヤンはその絵を、以前シェーンコップがここに横穴を開けたいと言った辺りへ、静かに移動させた。
 「これでいいかな。」
 ええ、とシェーンコップが長い首をヤンの方へ垂らして、鼻先をこすりつけて来る。
 まるでそこにヤン自身が立って、ふたりを眺めているように、まったく見事なリンツの絵だった。
 「次はあなたの肩から上を描いて、それからもしかしたら、あなたと私を一緒に描くかもと。」
 長い竜の尾が、そっとヤンの足から腰へ絡みついて来る。それを引き寄せるようにしながら、ヤンはシェーンコップの方へ体を傾けた。自然に指先が、鱗の流れに従って、シェーンコップを撫でている。
 「リンツは大忙しだね。わたしの、君の絵は急がないからと言っておいてくれ。」
 「伝えましょう。」
 この絵を仕上げるのをきっと急かしたに違いないシェーンコップは、そう優しく言った後のひと呼吸の間にその場で人の姿に変わり、今度は尾の代わりに腕をヤンの背に回して来る。
 ヤンの髪に頬をこすりつけながら、ヤンの絵に見入ったまま、シェーンコップはふたりのヤンが自分の傍らにいるのに、満足そうに目を細めた。
 「絵を描くのに忙しいと、卵を抱いてあたためる暇なんかなさそうだ・・・。」
 シェーンコップを抱き返さない腕をだらりと下げたまま、ヤンが、できる限りで穏やかに言う。
 ヤンの声の底に含まれた響きを聞き取って、シェーンコップがかすかにヤンの髪から触れていた頬を遠ざけた。シェーンコップが深く息を吸った音が、ヤンの耳に届いた。
 「・・・ブルームハルトが、何か言いましたか。」
 「君があたためるはずだった卵を、彼があたためることになったって、そう聞いただけだよ。」
 自分の絵からはっきりと視線を外し、シェーンコップの方も見ずに、ヤンはどこか自分の足元の辺りにぼんやりと視線を投げている。人間の姿になっても、竜の時の少しヤンにはひんやりとしたままのシェーンコップの体温が、ヤンの体温を吸い取っている。ヤンは、自分の胃の底が妙に冷たいのを感じていた。
 「卵をあたためるのは、別に義務と言うわけではありません。頼まれて、私がしたいかどうか、それだけです。」
 「でも、断って相手は気を悪くする、そうじゃないのかな。特に、君だと。」
 ここに連れて来た人間にかまけて、仲間の竜をないがしろにしている、そう見えるに違いない、それが自分の思い込みだとは、ヤンは思わなかった。
 竜の書物を谷の外へ持ち出すことも、それを人間のヤンに読ませることも、ヤンをここに連れて来ることも、ヤンをここにとどめていることも、何もかも黙認されているのは、それがシェーンコップだからだ。けれどヤンを人間風情と吐き捨てて、明らかにそれを快く思わない竜もいる。ヤンが思うよりもずっと、シェーンコップの立場は悪くなっているのではないかと、ヤンは考えた。
 自身が、そうして結局、他の人間たちから遠ざかって隠れ住んだように、シェーンコップもまた、この谷を離れて、仲間もなくどこかへ去る羽目になるのではないかと、ヤンはそれを恐れている。
 そうなったシェーンコップの傍らに、迷いもなく自分の姿を思い浮かべても、心地好く暮らす場所を追われるシェーンコップを、ヤンは見たくはないのだった。
 今はまだ多分、物好きなとわずかに眉をしかめられるだけだろう。けれどいずれ、一部の竜たちは、人間のヤンをきっと追い出しに掛かる。そうしてシェーンコップは、間違いなくヤンとともにここを去ることを選ぶだろう。何のためらいもなく。
 卵のことは単なるきっかけだ。ヤンがシェーンコップを大事に思い、シェーンコップがヤンを大切に思えば思うだけ、シェーンコップの心は竜たちから離れてゆく。そうしてシェーンコップは、ここで少しずつ、自分の居場所を失ってゆくのだ。
 ヤンが、そうだったように。
 君を、そんな目に遭わせたくない。ヤンは思う。たとえシェーンコップがその結果を受け入れるのだとしても、ヤンはシェーンコップにそんなことを受け入れさせたくはなかった。
 そうしてシェーンコップの傍らで考えながら、ヤンは物思いの底に、結局は竜の世界には馴染み切れずに、孤立してゆく自分の姿を見出すのだった。
 人の世界に居場所はなく、竜の世界にも居場所がないと、そう思い知るのが怖いのかもしれない。自分は結局、どこにも居場所のない存在なのだと、そう知ることが恐ろしい自分に、ヤンは気づき始めている。
 それでも自分の傍らにいることを選ぶに違いないシェーンコップの、自分への想いへは疑いを差し挟む余地などないのに、自分のためにシェーンコップが生まれ育った世界を捨てる決意をさせる、その勇気がヤンにはない。
 ようするにわたしは、自分が選んだ孤独を愉しむことはできても、否応なく落ち込んでしまった孤独には耐えられない、そういう人間なんだ。
 リンツの描いた自分の、穏やかで幸せそうな笑みを見て、きっとシェーンコップも同じ表情で自分を見ているのだと思う。それがいつか、険しく寄せた眉や、何かに耐えて食い縛った口元や、冷たく見開かれた瞳や、そんなものに変わるのを見るのは辛過ぎると、ヤンは思う。
 ヤンを襲った街の人間たちを惨たらしく殺したシェーンコップが、同じ憤怒の表情を自分の仲間の竜たちに向ける未来など、想像したくなかった。
 もう、触れ合うことも見つめ合うこともなくても、シェーンコップは易々とヤンの頭の中を読み取って、いつの間にかヤンの背中に添えていた掌が落ちてゆき、その震える指先を持て余すように、その震えが唇にまで伝わっている。そのシェーンコップを、いたわるようにヤンは見上げた。
 厳しい顔つきで、シェーンコップがゆっくりと唇を動かした。
 「あなたのことは、誰にも、何も口出しはさせません。」
 「うん、分かってるよ。君ならそうするだろうし、そうできるだろう。だがわたしは、君に無理をさせたくないんだ。」
 「無理なんかしません。卵を抱く話と同じです。私がしたいかどうか、それだけのことです。」
 「うん、その通りだろう。今はね。だがいずれ、そうではなくなるよ、シェーンコップ。」
 ヤンの言葉に、シェーンコップの灰褐色の瞳に、鋭く紫がかった光が走る。ヤンは、そのひと筋の光から、決して目をそらさなかった。
 「──あなたに、予知の力まであるとは知りませんでした。」
 皮肉っぽく言うのへ取り合わず、ヤンは苦笑を浮かべて首を振る。くしゃっと、シェーンコップの表情が歪んだ。
 「君は最初から、わたしのために無理をしてくれた。人の姿になるのもそうだ。竜の書物を携えて、わたしに会いにやって来てくれたのもそうだ。わたしの前では狩りをせず、肉も食べようとはしなかった。わたしに、君の鱗をくれ、血まで飲ませてくれた。今はわたしをここに匿って、他の竜に謗られるのを我慢している。そうしてわたしは、一体君のために何ができるんだろう。」
 「私の命は、私を救ったあなたのものです。そしてあなたは、あなたのつがいである私のものだ。私が死んだら、あなたは私を食べて、あなたが死んだら、私があなたを食べる、そうして私はあなたになるし、あなたは私になる。それではいけませんか。」
 「それは、150年も先の話だよ、シェーンコップ。わたしは人間だから、そんな先のことまで考えられない。喜んで君に食べられるし、君を食べるよ。だがそれはずっと先に話だ。わたしは、今の話をしてるんだ、シェーンコップ。」
 悲しみや怒り、憤り、人間ならそう名付けるだろう様々の感情が、シェーンコップの面を絶え間なくよぎってゆく。竜のままなら、長い尾が大きく振れ、つい広げた羽がばたりばたり動いたろう。今は人の姿をしているシェーンコップは、ただ唇を震わせ、今もまだ上手くは使えない人間の、短く厚い舌を、言葉を紡ぎ切れずに、口の中にさまよわせている。
 ヤンは、数秒、瞬きを止めてシェーンコップを見つめた。絵にするように、目の前のシェーンコップを心の中に焼き付けて、決して忘れまいと思った。
 それから、長い瞬きをして、穏やかにシェーンコップへ目を凝らし、その灰褐色の瞳の潤みの中に揺れる自分へ、ヤンは、リンツの描いた絵の自分とまったく同じ微笑みを向ける。
 「──海のあるところへ、行こうと思う。」
 言ってしまえば、一緒に、なぜか安堵の色合いの息が漏れた。ヤンは自分でそれに驚きながら、動く唇を止めようとはしなかった。
 「海のあるところに、黒い髪と黒い瞳と、それから肌の色も黒い人たちの街があるそうだ。わたしはそこに行くよ。そこの人たちが、わたしをどんな風に見るかは分からないが、殺されそうになったらここに逃げ戻って来るよ。」
 物騒なことを言う語尾を、ヤンは笑いに紛らわせた。シェーンコップを微笑ませるためのその物言いは、けれどシェーンコップを慰めはせず、シェーンコップはヤンを見つめたまま、苦いものでも飲み下したように、苦しげに顔を歪めたままだ。
 ヤンは両手を伸ばし、シェーンコップの頬を包んだ。鱗のない顔は、ヤンの掌に収まり、伸ばせば指先に頬の骨が触れる。シェーンコップの頬を親指の腹で撫で、やがてその指先が涙で湿り始めるのに、
 「その街でも、君の好きな焼き菓子が見つかるといいな。」
 やっとシェーンコップの唇が、震えながら応えて動いた。
 「またお茶に、招んでもらえるのですか。」
 ヤンが大きくうなずく。
 「海を見つけて、街を見つけて、棲む場所を作って、本を全部きれいに並べて、それから焼き菓子を探しにゆくよ。君のために。君がいずれ、リンツの描いた君の絵を、わたしのところへ届けてくれるのを待つために。」
 そしていつか、竜と人間が、一緒に暮らせる場所を見つけようと、ヤンは心の中でシェーンコップに語り掛ける。この世のどこかに、あるかどうかは分からないその場所を探すために、ヤンは行かなければならないのだと、シェーンコップはやっと理解して、けれど受け入れられるのはずっと先のことだろうと思った。
 竜で在ることと、人間で在ることと、それがいつか交わるのか、それはいつかふたり──ひとりと1頭──にとって、ただひとつのことになるのか、たとえこの先百年生きても、答えは出ないだろう問いへ、今は心を馳せることしかできない。それでも、同じ問いを胸に抱いてゆくのだと思った。その答えを求めて、ともに生きてゆくのだと思った。
 同じものを見つめて、違う場所で生きてゆくのだ。少なくとも、今は。
 シェーンコップの、流れ続ける涙へ、ヤンはそっと唇を寄せる。舐め取り、飲み込み、塩辛いと言う海の水と同じ味のするその竜の、透明な涙が、ヤンの体の中にしみ通ってゆく。
 シェーンコップの生み出す小さな海へ、ヤンはひと足先に泳ぎ出そうとしていた。

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