シェーンコップ×ヤン。ヤン命日によせて。

永遠の6月

 6月が特別だった時などなかった。祝日もなく、何かの記念日と言って思いつかず、誕生日の誰も特には思い浮かばない。1年のちょうど真ん中辺り、あまりにも個性のないその月は、半ばも過ぎてからああそうだ6月だったと思う、そんな月だ。
 6月と言って思い出すのは、せいぜい6月の花嫁、そしてシェーンコップはそんなものには興味なく生きて来て、そして恐らく、興味のないまま終わるだろう。シェーンコップが思うのは6月の花嫁などではない。
 シェーンコップは時間を数え続けている。1秒が1分になり、1分は1時間になり、1時間が1日になり、1日が1週間になり、1週間がひと月になった、そこからまた逆に、ひと月が1週間へ戻り、今シェーンコップは、1分1分時間を数えている。
 元々、世界に鮮やかな色があると言うわけでもなかった。黒髪に黒い瞳、軍服以外の姿は滅多と目にしたこともなく、本人の地味さに拍車を掛けるように、どこにいてもその場の空気に溶け込み過ぎて、探すのに苦労した。とは言え、シェーンコップの目には、彼のあの黒はいつだってひと際鮮烈に映っていたけれど。
 彼は、終わりの見えない、どこまでも深い森のような人だった。入り込み、先へ進み、ああ迷ってしまった、戻れないと思いながら、戻る気などさっさと失せて、永遠にその森の中で迷い続ける幸福に、突然森を抜けてしまうまでシェーンコップは気づかなかった。
 森は終わり、頭上には光が降り注ぎ、繁る枝と葉に遮られない陽射しはこんなにも明るく強烈だったかと、額へ手をかざしてシェーンコップは思う。
 森の地面に描かれた、木漏れ日の複雑な文様、一瞬も同じ形にはとどまらない陰影、葉が優しく遮る陽射しに目を焼かれることもなく、木々を渡る風はあくまで穏やかで、ああ自分はそこで安寧の時間を過ごしていたのだと、シェーンコップは思い知っている。
 森の優しさ。森の穏やかさ。目に映るものすべて、一瞬一瞬異なる、まろやかな彩度の万華鏡の世界。
 雨が降れば、幹に寄り掛かって晴れを待つ。陽射しを遮る繁りは、雨粒もそこにとどめてくれる。
 シェーンコップは確かに、そこで守られていた。
 森はもうない。そこを通り過ぎ、振り返っても森はない。戻ろうときびすを返したところで、戻る森はもうどこにもない。
 広がる森の、永遠と信じたのは、そこで過ごした時があまりにあたたかくて、いつの間にか森の空気に自分が溶け交じり、自分も森の一部なのだと思い込んでいた。
 森に終わりがあると、森に果てがあると、思ったこともなかった。自分の歩き回るどこも、永遠に続く森と信じて、そののどかさこそが自分の求めていたものだと、シェーンコップは思っていた。
 戦争の裏側にひっそりとある、森の安穏。いつかそれが、森以外の場所にも広がり、この地上はすべてこの森になるのだと、シェーンコップは信じていた。
 そうして、自分はその森の一部であり、すでに森に含まれ、森それ自体になっているのだと、思い込んでいた。
 そうではなかったのですか。シェーンコップは、体を引き裂かれた痛みに耐えながら考える。
 引きちぎれた、皮膚、肉、血管、内臓、骨、シェーンコップは自分の片側を見やって、傷の断面を凝視する。血まみれの、乾くことのない傷。傷の痛み、それを我が目で確かめる痛み、もう自分の半分は失くなってしまったのだと言う痛み、それは永遠に癒えないのだと言う痛み、架空の傷の、現実の痛み。
 6月は、特別になってしまった。特別過ぎて、シェーンコップは6月の存在を記憶から消してしまった。5月の次が6月だと思い出せず、7月の前は何月だったかと、考えなければ思い出せず、思い出した一瞬後には、考えたことすら忘れている。
 6月?そんな月があったか?いつだそれは。
 真顔で考え、1月から指を折って、12月にたどり着くのに指が余る。11ヶ月しかない。1年は11ヶ月だったか、一体いつから?
 シェーンコップは今、時間を数えている。1分1分、近づくその時を数えている。それはじきに秒に変わるだろう。
 そうと心に決めたのはいつだったか。6月のことを忘れてしまったのと同じ頃だったかもしれない。自分の6月は永遠に喪われるのだ。思い出す必要はない。6月はやって来ない。気がつけば、5月の次には7月になっているだろう。
 思い出せない、消えてしまった6月の存在を感じながら、シェーンコップは、行かず後家とはなと、思わず口に出してつぶやいていた。
 奪いもしないまま、失ってしまった。そこにあるなら、わざわざ手に入れたと、改めて確認する必要もないと思っていた。シェーンコップは森の一部だった。森になっていた。けれど、森自身ではなかった。
 行かず後家と言う、少々品のない表現がいかにも自分らしいと嗤って、自分をそんな風にした男のことを、また想う。
 森にはもう戻れない。失われた半身は戻らない。痛みは永遠に続く。この痛みをどうするかと、シェーンコップは片頬に薄笑いを浮かべた。


 シェーンコップは時間を数えている。1秒1秒、進む時を数えている。
 5月が終わる。そこでシェーンコップの頭の中はただ白っぽくなり、1秒ごとに進む時間の、かすかな気配だけが耳に届く。
 もうすぐだとシェーンコップは思う。5月が終わる。もう少しで、5月が終わる。
 さて行くかと、戦斧の柄を握り直す。振るっても振るっても終わらない。腕と手指がしびれ始めている。1秒1秒時間を数える。
 5月が終わってしまった。今は一体いつだ。1秒1秒時間が進む。
 5月の次は何だったか。7月の前は何だったか。憶えてない。憶えているのは、思い出そうとすると全身が痛み始めると言うことだけだ。
 足元に流れる血。これは誰の血だ。血に浸っていたのは、一体誰の体だったか。
 6月とは一体何だ。それは一体何のことだ。
 薄笑いが、口元からも片頬からも眉の辺りからも消えない。シェーンコップはただ前に進んでいる。時間と同じに、ただ前に足を踏み出し、他の何も見ない。
 シェーンコップが見たいのは、ただひとつの背中だけだった。
 あちこち跳ねた黒髪。肩越しに振り返る、困ったような笑み。唇が動いて、ごめんと言った。そして、ありがとうと。
 そんな台詞は聞きたくない。こんな遠くから、そんなものを眺めていたくはない。
 今すぐそこへゆく。失われてしまった6月はもう取り返せない。取り返さなくてもいい。別の6月を見つけるのだから。
 6月がそこにいる。6月がそこにある。シェーンコップが失った6月が、すぐそこにある。シェーンコップを待っている。
 6月など、何の変哲もない、年の区切りにすらならない、そんな月だったのに。過ぎてやっとそうと気づく、そんな個性のない月だったのに。
 まるで、貴方みたいじゃないか。見た目で判断すると痛い目を見る。冴えない6月。爽やかな5月と夏の7月に挟まれて、肩を縮めるようにしてある、6月。その6月が、恐ろしいほど特別になってしまった。貴方のせいだ。
 1秒。1秒。1秒。
 何月か思い出せない6月が進んでゆく。シェーンコップはそれに向かって進み、ずっと微笑み続けている。
 シェーンコップの6月がやって来る。そこへたどり着く。永遠の6月の、深い森の中へ、シェーンコップは再び迷い込んでゆく。その足の運びには逡巡の影すらなく、口元は歓喜に満ちている。
 シェーンコップの6月が始まる。6月1日のまま、それは永遠にそこにとどまり、1秒と進むことはない。
 シェーンコップは新しい6月を得る。
 やって来た6月が、一瞬時間を止め、そして再びどこかで動き出す。
 森の中で、足音がふたつ。ひとつはゆっくりと進み、もうひとつはかすかに片方の足を引きずって。血の足跡は、そこに降る雨がいずれ洗い流すだろう。赤い足跡は、木漏れ日の作る影が覆い隠すだろう。
 新たな6月が始まる。永遠の森の中で、永遠の6月が、ゆっくりと異なった時を刻み始める。
 もう動かないシェーンコップは、微笑んだままだった。

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