シェーンコップ×ヤン、リューネブルグ

氷る声

 ヤンの中に躯を沈めて、シェーンコップは数拍息を止めた。
 動き出すと、一緒に同じリズムでうねり出すヤンの背中を見下ろして、引きずり込まれるように、頭の後ろが白くなる。
 ヤンの湿った声はシーツに吸い込まれて、シェーンコップの声はヤンの後ろ髪へ吸い取られ、首筋へ歯を立てた後、シェーンコップはまたヤンの背中から体を起こした。
 こすりつける躯の、張り詰めた皮膚が敏感にヤンの熱に反応している。シーツに乱れて散ったヤンの髪の、闇よりひと色昏いそれへ目を凝らし、シェーンコップは乾いた唇をそっと舐める。
 口の中にあふれた唾液が立てた音の合間に、ふと気配が交じる。冷たい、息を白くする空気。背筋を這い上がる寒気に、シェーンコップは思わずうなじの毛を逆立て、そしてはっきりと、その声を聞いた。
 柔らかいくせに、どこか下卑た響きの隠せない、己れ以外のすべてを見下し切った声。
 よりによってこんな奴とか──。
 シェーンコップの首筋を撫でる声と同時に、ヤンの髪へ向かって伸びる、長い指。白い膚の、刃物を思わせる、血の色のない、指先。
 黒い髪とはな。悪魔でもあるまいに。
 触れはしない。この男は、自分と連なる血以外は、汚らわしいと公言して憚らなかった。シェーンコップすら、その髪と瞳の色の濃さを嘲笑って、一体どこで拾われたものかと冷たい目と声で言ったものだ。
 氷の色の髪と瞳。皇帝の落とし子だと囁かれたあの噂は、あの男自身から出たものだと聞いたのは、一体誰からだったか。
 黒い髪などと交わって、貴様はますます穢れてゆくのだな。
 背に重なって来る、冷たい体温。氷そのもののような外見に、心は氷よりも冷たい男だった。
 同盟に飼われて、そこから逃げ出す気もないおまえには、お似合いか。今はこの黒髪の汚らわしい男が、おまえの飼い主か。悪魔の番犬とは、いかにも貴様らしい。
 何とでも言えと、吐き捨てようと思って、舌が動かない。氷の気配に全身が凍りつき、シェーンコップは、時間も凍っているのだと、動かない自分と動かないヤンと、ただ冷たい気配だけが自分の皮膚の上を這い回るのを、汗さえ凍らせて感じている。
 帝国貴族の誇りと言う、一文の得にもならない、むしろ生きるには枷にしかならないそれを後生大事に抱え込んで、挙句に、帝国に見捨てられて死んでも、まだその誇りとやらは健在らしい。シェーンコップとヤンを、その髪の色で蔑み、そうすることでしか自我を保てない、恐ろしいほどの内実の柔弱さを隠すための、誇張され虚飾された、その育ちと血筋とやら。
 穢れとやらを恐れて、ヤンに触れさえできない、彼の、弱さ。
 氷の見掛けの彼を、恐れたこともあった。打ち据えられて、その足元に膝を折ったこともあった。確かに有能な指揮官であった彼に、心酔したひと時もあった。そのすべては今は過去にせよ、確かに彼は、シェーンコップを導く者であったことがあった。
 今シェーンコップがヤンの飼い犬なら、その時のシェーンコップは、彼の犬だった。
 リューネブルグ──。
 ヘルマン・フォン・リューネブルグ。ローゼンリッター11代目連隊長。
 懐かしさなどない。ひと筋もない。憎しみもない。憐れとも思わない。ただ今は、そんな時があった、あんな自分もいたと、遠くを見るように思い出すだけだ。
 忘れられはしない。自分が殺した男だった。自分の手で葬らねばならなかった男だった。死を与えるなら、自分でなければならなかった男だった。
 あれは殺意や憎悪ではなかった。かつて、自分がその背を追った男への、精一杯の敬意だった。
 氷のような男。氷そのもののような男。世界のすべてを見下し、傲慢を体現し尽くしたような、彼。そんな生き方もあるのかと、目を洗われたような気持ちになったこともあった。
 髪や皮膚の色で、相手に対する態度を決める。それを正しいことだと、思った瞬間をシェーンコップは思い出している。
 狭めた視界を塗り潰していた、氷の色。それが取り払われたのはいつだったろう。この世界には、血の色以外の色もあるのだと、思い出したのはいつだったろう。
 凶々しいと忌み嫌われるはずの黒を、美しいと思い直したのはいつだったろう。
 もう、必要はないのだ。自分の生まれとやらに、無理に誇りを抱こうとしなくてもいい。それを憎む必要もない。自分はただ、どこかの男と女が出会って、その結果として生み落とされただけだと、胸を張る必要もなければ、卑屈になることもない。それはただ、そうだと言うだけのことだ。
 髪の色、肌の色、使う言葉、違うから何だ。俺が、黒い髪の上官に惚れたと言って、何が悪い。同盟の言葉すら、かすかに異なる響きで使うこの黒髪の男に、俺が惚れて何の問題がある。
 帝国貴族とやらとは、宇宙の端と端以上に隔たった、黒髪の司令官。蔑まれる側と言う卑屈も何もない、自分を下らない理由で見下す輩を、ただ静かに微笑んで見つめ返すだけの、宇宙の半分を抱く男。血筋と言うものを、ただそこに在るだけで否定する、黒髪の男。
 なるほど、氷の瞳がたじろぐのが分かる。ヤンを見つめて、見つめ返されて、自分の矜持が、根元(こんげん)などないそれが、呆気なく崩れてゆくのか。ヤンに触れて穢れが伝染(うつ)ると信じる浅薄さを露わにされて、困惑の中に叩き込まれるのか。
 戦斧ひとつ振るえないこの男が、百戦錬磨の兵士を震撼させる。連綿と続いて来たはずの血統とやらの、まるで歯の立たない、続いて来たものもこれから続くものも持たない、ただひとつでただひとりの、ヤン・ウェンリーと言う男。
 失せろ、とシェーンコップは胸の中で静かに叫んだ。
 追う背はひとつでいい。護るのはひとりでいい。穢らわしいと言うなら触れなければいい。
 俺は犬だ。ヤン・ウェンリーの飼い犬だ。
 貴様は何も変わらん。リューネブルグの声が、悪あがきする。主人がいなければ吠えるべき時も分からん青二才のままだ。
 耳元に吹き込まれる冷気へ、シェーンコップは間遠な瞬きをした。
 吠えるべき時は、この人が教えてくれる。手を上げて、行くべき時を知らせてくれる。この人は、俺を捨てたりはしない。
 せいぜい忠犬面下げて、残りの時間を楽しむことだな。良き飼い主に恵まれたと、ヴァルハラで自慢して回るがいい。
 高笑いの声の端が、どこか弱々しく消え去ってゆく。目を開けて、自分を見ているヤンと目が合った。
 ──ああ、ぜひそうするさ。
 体温の戻って来た首筋に、確かに血の色が上がる。
 ヤンは伏せた姿勢から腕を伸ばして来て、シェーンコップを自分の方へ手招いた。
 ヤンの薄い背へ胸を重ねて行きながら、さっきまであったはずの冷気の名残りを振り捨てるように、シェーンコップはまたヤンの中で動き始めた。
 ヤン提督、と深めた声の上に、連隊長、と思わず心の中で呼んだ自分の声が重なる。呼び戻すつもりではないその声は、ヤンにも誰にも聞こえないまま、シェーンコップの腹の奥の、闇のどこかへ静かに落ちて行った。

戻る