シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ。

Good Dog

 「君が、すぐにわたしの後を追って来たらどうしようかと思ってたんだ。」
 まだ息を治めているシェーンコップを抱いて、髪を撫でながら、ため息のように不意にヤンが言う。
 終わった後で、会話とも言えない他愛もない話をしていた、ぶつりと言葉の途切れたその合間に、突然差し込まれた不協和音のように、ヤンの声がシェーンコップの耳に響く。
 待っていたとも会いたかったとも言わず、君も来てしまったのかと、そう最初に言ったきり、明らかにまだ会いたくはなかったと言う気持ちをヤンは隠さず、それでも傍へやって来たシェーンコップを無下にもせずに、以前そうしていた通りにふたりで過ごす時間は、戦争などない分穏やかで濃密ではあった。
 ヴァルハラでの再会を、手放しで喜ぶ気になれないヤンの気持ちは当然と理解して、それでも食い縛った歯から血を垂れ流すような1年を過ごした後では、あれがシェーンコップの限界だったのだ。
 ヤンの後を、すぐに追うことはできなかった。その前に、すべきことが多過ぎた。すべてを果たさずに来てしまったけれど、どちらにせよ人と言うものは、望みをすべて叶えることなどできはしないのだ。尽きた命を惜しむ気など毛頭なく、シェーンコップはやり遂げたのだと、それが何かははっきりとは自分でも分からないまま、驚くほど安らかに死んだ。
 1年。泥水に溺れるような1年だった。肺を粘る泥で満たして、息をしたいのかどうか自分でも分からずに、進む先にヤンが待っているはずだと、それだけを考えていた。
 その進む先とやらが一体どこなのか、自分がどこを目指しているのか、それも確かではないくせに、ヤンがそこ──どこだ?──にいるのだと言う確信だけは一瞬も揺るがずに、シェーンコップはのろい歩みを止めることだけはしなかった。
 まだ、伝えていないことが山ほどあった。まだ、知っていないことも多過ぎた。ヤンを喪って、もう呼吸も体温もないヤンの、眺めているだけならただ眠っているようなその姿へ目を凝らして、シェーンコップは、自分は一体ヤンの何を知っていたのだろうと繰り返し自問した。
 触れる肌の伝えて来たそれを読み取りはしていても、それはほんとうにヤンの、真実の一部だったのだろうか。それを確かめようにも、ヤンはもう答えてはくれず、問い掛ける自分の声だけがそこに虚しく響き、そうして、返っては来ないヤンの声を求めて、ああヤンは死んだのだと、シェーンコップは何度も何度も、自分に言い聞かせるように思った。
 死んだヤンに会いたいなら、自分も死ぬしかないと、思い決めたのは一体いつだったか。後はもう、いつ、と言うだけのことだった。
 ヤンの言う通り、シェーンコップは、1年耐えた自分自身に驚いている。血まみれの、呼吸のないヤンを見た瞬間、あの場で自分の喉を掻き切らなかったのを、しみじみと不思議に思う。
 なぜ耐えたのか。なぜ、1年待ったのか。ヤンの命日に死ぬと言う、そんな下らない芸当をするくらいなら、同じ日に、まったく同じ日にわずかの時間の差を置いて、ヤンを追ってしまえば良かった。
 あれを、人はシェーンコップの強さと読むだろうか。違う、とシェーンコップは自分で答える。強さなどではない。逆だ。ヤンを失った悲嘆すら受け入れられずに、ヤンの死を誰よりも信じていなかったのは自分だ。あれは、ヤンの死を信じることのできなかった、シェーンコップの弱さだ。
 眠るように横たえられたヤンが、目を覚ますのを待っていたのだと言ったら、人は笑うだろうか。
 目立つところに傷はなく、ただ眠っている風に見えるヤンが、そのうちゆっくりと目を開き、やあよく眠ったなと起き出すのだと、シェーンコップは本気で信じていたのだった。
 それを、1年待った。待ちながら、防腐処理を施されたヤンの体がそれでも不自然な青みを帯び始め、皮膚が乾きにひび割れて崩れ始めるその手前で、死体が腐り、皮膚と肉を失ってやがて骨になる自然の過程は、残された人間に、その死を受け入れさせるための儀式なのだと、シェーンコップはようやく悟りつつあった。
 ヤンは死んだ。そして、シェーンコップも死んだ。死んで、ふたりは再会した。ここ、ヴァルハラで。
 「君のことだから、血相変えてすぐこっちにやって来るんじゃないかと思ってたんだ。」
 どこか可笑しげに、ヤンが言う。シェーンコップの髪を撫でる手は止めずに、やがて小さくため息が聞こえて、シェーンコップは体を起こしてヤンを見つめた。
 「そうすべきでしたか?」
 上から訊くシェーンコップに向かって、ヤンが両腕を伸ばして来る。
 「君が来るのは、百年後だと思ってたよ。150年生きるって、君、そう言ったろう。」
 ヤンの乾いた、なめらかな掌がシェーンコップの両頬を包み、低めた声が、同じほど滑(すべ)らかにシェーンコップの耳を撫でてゆく。
 ヤンの片方の手に、シェーンコップは自分の掌を重ねた。
 「貴方と一緒なら、の話ですよ。貴方がいなくなると、何もかも面白くなくなってしまう。私は退屈が嫌いな人間なんです。」
 「わたしが面白い人間みたいな言い方をするね。」
 「面白いですとも。」
 真顔になって即答した。
 「貴方みたいに、こちらの予想を易々と裏切る人はいません。何しろ、死んだ時も呆気に取られましたからね。」
 できるだけ、軽々しくそう言った。ヤンが死んだと口にできるのは、今ここでヤンと一緒にいられるからだ。耐えた1年が、もう終わってしまっているからだ。
 「・・・わたしも驚いたさ。ユリアンの結婚式に出られなくて、ほんとうに残念だ。」
 切なそうにヤンが言う。それを見て、シェーンコップは見えないように奥歯を食い縛った。
 ヤンの親指が動き、シェーンコップの眼窩の縁をなぞる。心地好さに、シェーンコップは両目を細めて応える。
 「君は、よく我慢したよ。1年、役立たずになったわたしと、残されたみんなのために、よく頑張ったよ。」
 まるで何もかもを見ていたように、ヤンが優しい声で言う。
 思ってもみなかった、ヤンの言いようだった。
 ほとんど不信に陥りながら、シェーンコップはヤンにへ向けて目を伏せ、自分が聞いたのは、聞こえた通り、ヤンがそう言った通りだろうかと思いながら、震える唇を開く。
 「・・・死んだ後も、貴方は一瞬たりとも役立たずだったことはありませんでしたよ、閣下。」
 自分に触れたヤンの手を、そこで握りしめる。嬉しさと悲しさと、複雑に入り混じった色みすら分からない感情で、シェーンコップの声の端は震えて、かすれかけた。
 「わたしは役立たずでいいんだ。でないと、誰も自分のことを自分でしなくなる。」
 「・・・それには、家事は含まれないようですな。」
 微笑んで、茶化すように言った。言いながら、ヤンが驚いた顔で自分を見ているのに気づいた。
 頬に触れているヤンの指先が、そこで滑る。その指先の冷たさで、シェーンコップは自分が泣いているのを初めて知り、知った途端、大きく見開いた目から涙は止まらなくなった。
 嗚咽を飲み込んで、流れる涙に任せて、一緒に吐き出すように、シェーンコップはできるだけ尊大に言う。
 「もっと褒めて下さっても構いませんよ。私は何しろ、貴方の、とても良く出来た部下ですから。」
 途切れそうになる声を、腹に力を入れて止め、それを受け止めてヤンが苦笑交じりに微笑み、
 「──それに、わたしの犬だろう。忠実な、優秀な飼い犬だろう。」
 シェーンコップが自分で言う通りを、ヤンが静かに言った。
 「役立たずの飼い主に似ない、とてもいい犬だ。わたしにはもったいないよ。」
 案外世辞や口先だけでもなさそうに、片方の手が頬から外れ、言葉通り、犬にするように頭を撫でる。髪の中に指先が入り込み、シェーンコップの形の良い額を、いとおしげに、ヤンの親指の先が滑って行った。
 「おいで。」
 ヤンが、シェーンコップを自分の方へ手招く。
 ひらひらと動くヤンの指先を見て、シェーンコップは、自分がここへこの男を追ってやって来たのは間違いではなかったのだと思った。
 ヤンに会いたかったのは自分だけではない。ヤンも、そうとは口に出さずに、1年を、自分と同じように耐えたのだと、シェーンコップは初めて思い知っていた。
 シェーンコップは体を倒してヤンの胸に顔を埋め、もう声を耐えずにそこで泣いた。
 ヤンは、涙が自分の肩の辺りを濡らし続ける間、震えるシェーンコップの首筋や背中を撫で、そうして自分もそっと喉を伸ばし、目尻からひと筋だけ、こめかみへ向かって涙をこぼした。
 わたしの犬、と、誰にも聞かせたことのない穏やかな声を、そこで唇だけが形作ったのは、シェーンコップには気づかせないままだった。

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