お似合い
いつものように、ソファで寝そべって読書中のヤンへ、シェーンコップはブランデーをたっぷり注いだ紅茶を運んで来て、それを置くとまたすぐにキッチンへ戻って行った。引き出しを開けたり冷蔵庫を開けたり、何か自分が食べるものを作っているのだろう。今の時間ならサンドイッチかなと思いながら、ヤンはふと本のページを繰る手を止め、何となく考え込んだ後、本を手にしたままソファから起き上がる。
特に深く考えた行動ではなかった。突然思いついて、衝動的に、半ば面白がって、素足を滑らせながらキッチンへ向かい、思った通りサンドイッチのために、パンにバターを塗っているシェーンコップの横顔へ少し距離を置いて、ヤンはいつもの、例のわたしの犬と言う呼び掛けをした。
シェーンコップはヤンの方を振り向きもせず、バターナイフを使う手も止めず、
「何ですか飼い主提督、サンドイッチなら少し待って下さい、これを先に作ってしまいますから。」
ぱりぱりのレタスの葉を手でちぎり、ハムとチーズを一緒にパンに乗せているその手付きを眺めて、ヤンはちょっと肩をすくめて見せる。
「違うよ、サンドイッチが欲しいわけじゃないんだ。」
では何だと、やっとシェーンコップがヤンの方を向いた。
読書中はソファから動かないヤンが、わざわざ本を手にしたままここまでやって来るのは、何か食べたいのか飲みたいのかそれとも他に何の用なのか、その意を汲み取ろうと人間を見上げる犬のように、シェーンコップはじっとヤンを見ている。
「いや、大したことじゃないんだ、でも、ちゃんと言っておいた方がいいかなと思って。」
「何ですか、紅茶が薄過ぎましたか。」
「いや違う。そういうことじゃない。紅茶はちゃんと美味いよ。」
湯の温度も葉を泳がせる時間も、ヤンの好みにきっちり計っている。味には当然問題はないはずだと思いながら、シェーンコップの眉が考え込むように少し寄った。
ヤンは、こちらの方が犬のように、そこに立ったままでまず空いた方の手で髪をかき混ぜ、片足を軽く上げて所在なさげにその爪先でふくらはぎをかき、次は両手を背中に回して、唇を両方すりすり合わせるようにした。
そんなヤンを横目に見ながら、自分のサンドイッチを作り終えて、シェーンコップはここで今食べ始めるか、ヤンを促してソファへゆくか、3拍分考えていた。
「犬・・・?」
「何ですか飼い主。」
いつ聞いてもひどい呼び合い方だけれど、これが互いのファーストネームを呼ぶ習慣の、いまだない──恐らくこれからもないだろう──ふたりの間では、最も親密なやり方だった。少なくともシェーンコップは、ヤンが自分を犬と呼ぶのをとても気に入っている。
ヤンがシェーンコップに犬と呼び掛ける時は、心身ともにリラックスしている時と決まっているから、こんな風に何か言い迷うような姿にシェーンコップは違和感を抱いて、このサンドイッチをまずヤンに食べさせるかと、ヤンの機嫌を取る方法をすでに考え始めていた。
そこからさらに4拍。ヤンがやっと両足を床に揃えて、それをじっと見下ろしていた視線をシェーンコップの方へ上げると、ためらったせいで低くなってしまった声で、小さく小さくつぶやいた。
「──愛してるよ、犬。」
シェーンコップはサンドイッチの皿を持ち上げながら、反射的に返事をしていた。
「ええ、飼い主、私も愛し──ええ?」
声が上ずったまま途切れた後に、サンドイッチの皿が手から滑り落ちる音が続く。
サンドイッチは幸い、カウンターの上に真っ直ぐ落ちた皿の上に真っ直ぐ落ちて乗り、上下のパンと間のハムとチーズ──レタスはバターにひっついているから──は少しずれたけれど、元の形状は保っている。よし、サンドイッチは無事だと、皿を持った形のままの自分の空の手と、サンドイッチを交互に見て、シェーンコップはそれからやっとヤンを見た。
「・・・さっきの紅茶のブランデーが多過ぎましたか。」
「酔ってなんかないよ。わたしが酔うならブランデー丸々1本は必要だって知ってるだろう。」
もう長い間、酔っ払うほど飲んだこともない。酒に酔う必要がなかったからだ。
「じゃあ風邪でも引きましたか。気分が悪いとか。」
ヤンが白けた顔をして、小さく頭を振る。
「ひどいな、わたしが決死の思いで言ったら、わたしを病気扱いかい。」
「とても素面の台詞とは思えませんからな。何かの罰ゲームですか。」
「君に愛してるって言うのが罰ゲームって言うのは、いささか被害妄想がひど過ぎないか。」
「私を一度手ひどく振ったのをお忘れですか閣下。」
そら来た、とヤンは両手を、降参と言う風に宙に高く掲げた。
「悪かったって言ったろう。先に死んで悪かったよ!わたしだってあんな風に死にたくなかったよ!」
ヴァルハラにシェーンコップが現れて以来、一体何回目の、毎回同じやり取りだろう。ヤンが自分を置き去りにしたと、シェーンコップは恨み言を言う。ヤンは不可抗力にせよ、わたしが悪かったと素直に謝る。とは言え、これも5、6回を越える辺りから、何度同じ話を持ち出して、何度謝れば気が済むんだと、ヤンの方は少しばかりいらいらして来るようになった。
そうしてついに、あんな死に方なんか予想してなかった、あんな風に死にたかったわけじゃないと、シェーンコップにだけなら吐ける本音を苛立ちと一緒につい口にして、置き去りにしてしまった全員に対して済まないと思う気持ちは当然あり、けれど同時に、自分にだってあの死に方には不満があるのだと、1年間胸の内にためていた愚痴を、シェーンコップに向かって吐き出す形になった。
生きていた時から、なぜかシェーンコップは、ヤンにとっては少々乱暴な口を聞いても大丈夫な相手、怒らせても心のざわめかない相手だった。負の感情をぶつけても、シェーンコップは笑いながら受け流して、ヤンのそれが一体どこから来たものがすぐに見当をつけて、ヤンの不機嫌を正確にあやしに来る。
シェーンコップはシェーンコップで、辛辣な本音をぶつけても、ヤンはそれを個人的な攻撃とは受け取らないと知っている。
組み合わせの妙と言うか相性と言うか、割れ鍋に綴じ蓋と言うのとは少し違う、他の誰かとならこうはならないふたりの間柄だった。
だからこその、今までとこれからの感謝も含めての、さっきのヤンの告白だったと言うのに、よりによってこれを真っ直ぐ受け取らないとはと、ヤンは元部下の、自称ヤンの飼い犬のシェーンコップを、脱力感に苛まれながら見つめ返した。
「わたしが死んだのはわたしのせいじゃない・・・。」
声が弱くなる。シェーンコップにだけは言える、半分くらいは自己弁護の弱音だ。
シェーンコップは、中身が不揃いになってしまったサンドイッチを、皿の上でナイフで半分に切った。
「あれは貴方のドジのせいですよ、閣下。」
そう言われると、ヤンには返す言葉がない。それきり黙って、ヤンは下を向いた。
シェーンコップは皿を手にヤンの方へやって来て、
「愛の告白と言うのは、もうちょっとお膳立てをしてやるもんです。同盟政府より手際が悪い。」
「比較対象がひどすぎないか。」
「貴方のやり方がそれくらいまずいってことですよ。」
ヤンのあごを指先に持ち上げながら言う、思ったより近い位置に迫ったシェーンコップの唇へ、ヤンはいまだ不慣れな様子で頬を染める。
「もう1回、きちんと言って下さい。」
目の前で、ふっくらとした形のいい唇が動く。
「言えるもんかもう1回なんて。」
こんな近さで見つめられて、あんな台詞を口にできたものではない。ヤンは唇をことさら強く結んで見せた。
「じゃあサンドイッチはお預けですな。」
「いらないよサンドイッチなんか。」
「そうですか、じゃあ貴方のために紅茶を淹れるのもやめましょう。」
さすがに紅茶と言われると、ヤンは一瞬ひるんだ様子を見せ、唇がぱくぱく動いた後で、けれどまたそれを真一文字に引き結んで、
「・・・別に、紅茶やサンドイッチのために君と一緒にいるわけじゃない。」
案外きっぱりとそう言った。
シェーンコップはヤンが言い切ったのに感嘆したように唇の端を下げて、それをそのまま笑みに変えると、今は額へ軽く接吻する。ヤンは思わず肩をすくめた。
「今はそれで十分と言うことにしておきましょう。次回はちゃんと言えるように、後で練習でもしましょうか飼い主閣下。」
練習と言う言い方に、若干の不安を覚えた自分の直感が正しかったのを、ヤンが知るのは夜のことになるのだけれど、シェーンコップはそんなことは気振りにも見せず、ヤンの肩を押してソファの方へ戻るよう促して、サンドイッチの皿をちゃんとヤンの方へ差し出して来た。
一緒にはいられなかった1年分の淋しさを埋め合わせるように、半分ずつに分けたサンドイッチを、ふたりはもぐもぐ一緒に食べる。そんな午後だった。