* コプヤンのお題→「アイアンブルーの深海魚」
アイアンブルーの深海魚
図書室へいるヤンを見るたび、その薄暗さのせいかどうか、シェーンコップはヤンを深海魚のようだと思う。ぽつんとひとりきり、背の高い書架の間に、異物のように置かれたテーブルと椅子に挟まれ、さらに異物のようにそこにいる、ヤンと言う男。
手の上に開いた本を乗せ、かすかにうつむいて、視線は紙面に据えたまま、自分がここから見つめられていることにも気づかない。シェーンコップが揺らすかすかな空気は、ヤンのいる深海には届かないようだった。
水の濃い蒼さに、溶け込み切らない黒髪、そして、長い間海水に洗われ削られて磨かれた石のような、闇色の瞳。髪は、地上で光を浴びると碧(みどり)みを帯びて輝き、瞳は、昏い青をひと刷けなすったように、火を入れ損ねた金属の色を思わせる。
沈んだ色の、小さな鱗に覆われた体。鱗に沿って触れればつるつるとして、逆らえば指先を切るような、快と危険を両方併せ持つ、不思議な彼。
紙面と言う、水面に漂う文字たち。もっと浅瀬にいる小魚を思わせる、その印刷された文字を、ヤンの指先がたどる。読む速さよりもふた文字先に、指先が文字を撫でてゆく。
その指先はまた、何かあれば砂に潜り込む不思議な生物を思わせて、そうして読書中のヤンを見つめながら、シェーンコップは自分が肺呼吸のできないことを悔やむ。
私も、そこに行きたいのですが。貴方と一緒にいるために。
そう言えば、あっさりと、来ればいいとヤンは言う。自分のいるところが、どれほど特殊か思いもよらないように、簡単にそう言う。
できるならとっくにそうしていますよ。
シェーンコップは、ヤンには言わずに、ひとりつぶやく。
傍らにいても、ふと遠いヤンを、抱きしめて腕の中に閉じ込めて、けれどそうできるのは一瞬だ。するりと身をくねらせて、ヤンは水の中へ戻ってゆく。水圧で内臓を潰され、骨を押し折られる深海へ、ヤンは易々と、ひとり──1匹──で戻ってゆく。
そこに、私の吸える酸素はないのですよ、提督。
ああそうだっけ。たった今気づいたと言うように、肺呼吸をしていない自覚もないヤンは、困ったようにぼさぼさの髪をかき混ぜる。
ヤンの手にある本に、シェーンコップは嫉妬する。穏やかに、けれど情熱的に見つめられる、あのくっきりと黒い、ヤンの髪と瞳と同じ色の、文字になりたいものだと、シェーンコップは何度も思った。
図書室と言う深海を、ヤンと言う深海魚が自由に泳ぎ回る。好きなところに好きなだけ──いつも、と言うわけには行かないけれど──とどまって、好きな文字を好きなだけ貪って、そこはヤンだけの世界だ。誰も立ち入れない。シェーンコップは近づけない。そっと、肺呼吸のできる場所で、本を読むヤンを見つめるだけだ。
本になれないなら、せめて、とシェーンコップは考える。
せめて、貴方が持ち歩く、栞にしてはもらえませんか。
ヤンの読む本のページの間に、ここまで読んだ、ここから読むと言うしるし、ヤンのためにそこにとどまって、ヤンが再びその本を開くまで、じっと待つ、ただそれだけの存在。
それでも、本を開けばヤンの指先が触れて来る。本を閉じる時には、どこへ行ったかと探してもらえる。
ヤンが、その本を手に取り、開き、読み、また読むのだと記した、その痕跡。
それはもしかすると、ヤンの体から剥がれ落ちた鱗のなれの果てかもしれない。
貴方の本の、栞になりたい。元は貴方自身の鱗だったのかもしれない、薄い紙片の栞になりたい。
ヤンが、ぱたりと読み終わった本を閉じる。栞の役目はなかった。その本を棚に戻し、人に戻ったヤンが、今やっとそこにシェーンコップがいることに気づいて、手を上げながら近づいて来る。
「何だ、いつからそこにいたんだい、シェーンコップ。」
ベレー帽の位置を定めているヤンの手指へ、自分の掌をかぶせるようにして、シェーンコップはベレー帽をきちんとそこに乗せる役目を引き取った。
「お邪魔をしては悪いかと思いまして。」
嘘だ。深海の水さえ煮え立つような視線で、ヤンを見ていたのだから。
貴方にはどうせ、伝わらないのでしょうが。
ヤンの本のための栞になりたいシェーンコップは、ヤンの傍らにぴたりと寄り添って、ヤンのために開いた図書室のぶ厚い扉を、ヤンのために押さえて待った。
扉が閉じると、シェーンコップは、ヤンの吸う、同じ酸素を胸いっぱいに吸い込んだ。
ヤンの後ろに濡れた足跡がないことを確かめて、ふと図書室の扉を振り返る。深海はそこで終わり、ここには酸素が満ちている。 肺呼吸にまだ馴染まないように、こほんと咳をしたヤンの背を、シェーンコップはそっと撫でた。
自分の許へ戻って来た黒髪の深海魚を、引き寄せたくて動いた手を途中で止め、代わりに微笑んで見せたシェーンコップへ、ヤンも人間の笑みを浮かべて見せた。