* コプヤンのお話は「きっと仕方の無いことなのだ」で始まり「きっと大丈夫だって、今なら言える」で終わります。
恋の鼓動
きっと仕方の無いことなのだ、自分がこの男に恋してしまったのは。隣りで、健やかに眠る男の端正な横顔を眺めて、ヤンは思う。寝そびれてしまった夜、羊を数える代わりに、ヤンはシェーンコップの寝顔の、その惚れ惚れとするような美しい線を飽かずたどり、眠ると稚くなる男の、大理石を削り取ったような額と鼻筋と頬とあごの線の中に、実際にこの男がまだ少年だった頃の面影を見出そうとした。
軍人になったことでこの男が得てしまった様々の苦労が、恐らくこの男に様々なものを付け加え、今のこの男を形作り彩っているに違いない。そう思えば、男の少年の貌(かお)はさらに遠のき、ヤンは、出逢うまでにずいぶんと時間が掛かってしまったなあと、額に掛かる汗にまだ湿っているその前髪へ、そっと指を伸ばした。
この髪の色も、その頃にはもっと淡く、もっと柔らかな肉のふっくらと盛り上がっていたに違いない、今は鋭利に尖った頬の辺りの線へ、ヤンの視線が少しばかり痛ましそうに当たる。
ようやくヤンの目はあごから首筋へ下り、そこから肩の方へ滑り始めた。
ぶ厚い筋肉の盛り上がった胸。その筋肉と肋骨の檻に守られた、シェーンコップの心臓。ヤンの拳よりひと回り大きい、全身に血を送る動きを絶え間なく続ける、命そのもののような器官。
1秒に1度は必ず打つその数の何割かは、ヤンのために動いている。シェーンコップはヤンのために生き、その心臓はヤンのために動き、ヤンを護るための手足と、細部まで鍛えられた全身と、頭脳はほとんど楽しげにヤンに向かって毒を含んだ針を吐いて、そうだ、シェーンコップのすべてが自分に向かっているのだと、ヤンは自惚れではなく、単なる事実としてそのことを考える。
そうして、シェーンコップの心臓は確かにそこにあるが魂と言うものは一体どこにあるのだと、ヤンは頬杖をつきながら考え始めた。
魂は、人の体のどこに存在するのだろう。自然に、自分の脈打つ心臓へ掌を当てて、同じように動いてはいても、シェーンコップのそれほど力強いはずもない自分の、その鼓動へ苦笑を送りながら、ヤンは、ふと自分の掌に乗るシェーンコップの心臓を想像した。
皮膚と肉を裂き、骨を断ち切り、血管を切り取って取り出す、血まみれの心臓。この男の心臓ならきっと、体から取り出されても動き続けているような気がして、血に汚れることも構わず、自分はそれに頬を寄せてしまうだろうとヤンは思う。
握りしめようとするヤンの手指など跳ね返してしまう、強靭な筋肉の塊まり。魂そのもののような、あるいは魂のいれもののような、心臓。
恋とは、取り出した自分に心臓を、相手に見せ、捧げ、手渡すようなものなのかもしれない。ぽっかり空いた胸の穴へ、目の前のその人が入り込み、その人の抱えた心臓がそこで新たに脈打ち始め、そうしてまた自分は生きてゆくのだ。
掌に乗せた心臓。その重み。そのぬくもり。魂のような、自分の恋そのもののような、今ではそのような存在になってしまった、シェーンコップと言う男。
150まで生きるとうそぶくのを、150は無理じゃないかと苦笑いとともに返して、けれどこの男はきっと、天珠を全うして眠るように死んでゆくのではないかと、ヤンは考える。
それ以外の死に方を、ヤンは想像できないのだった。
たとえ死に掛けても、この男はヤンのために戻って来るだろう。ヤンより先に死ねるかと、ほとんど妄執のように考えているのを、ヤンは知っている。そしてそれを、咎める気も諭す気もないヤンだった。
ヤンは恐らく、この男の手を取り、その死を見送り、それから死ななければならないのだろう。どんな風にかは分からない。自分に安らかな死などないと思っているヤンは、それでもこの男の生に合わせて生き、その死に合わせて死ぬのなら、そう悪くはない人生だったと思えるのではないかと、心臓の辺りに、痛みとぬくもりを同時に感じながら思うのだった。
生きていてもよいのだと、ある場合においては、自分は生きなければならないのだと、苦痛を伴わずに考えられるようになったのはこの男のせい──おかげ──だ。
そうして、ヤンは今日も生きてゆく。この男に恋して、この男に恋されて、いずれそれを、愛と言う言葉で表せる日が来るだろうと、ヤンは確信していた。
これは、ヤンにとって何度目かの恋だけれど、そこから愛へ変わるのだと、思えたことはなかった。だからきっと、そうなった時に、ヤンはそれをこの男へ真っ直ぐ伝えなければならないのだった。
わたしは君に恋している。きっと大丈夫だって、今なら言える、この男の安らかな寝顔へ向かって、まずはそう伝えることから始めよう。
ヤンは眠る男へ向かってゆっくりと唇を動かし、まずは男の名をそこに形作る。その後戸惑った唇の、音のない言葉は確かに男の耳に届き、男の見ている夢のどこかへ、ゆっくりと沈みとどまり、その血に溶け込んで心臓へたどり着く。
男を眺めてひと拍跳ねた自分の心臓を押さえて、ヤンはもう一度、ゆっくりと唇を動かした。
わたしは君に恋しているんだシェーンコップ。わたしは、君に──。