Make Me Happy
ソファに寝そべって本を読んでいるヤンに、シェーンコップが大きなマグを差し出して来る。今日は、砂時計をにらんで気取って淹れたそれではなく、鍋で葉を煮出してミルクをたっぷりいれたミルクティーだ。本を置き、体を起こしてそれを受け取って、表面に張った蛋白質の膜へ、ヤンは照れくさそうな笑みを浮かべると、熱いと承知でゆっくりと唇を寄せた。
ヤンの笑みを見届けてから、シェーンコップはキッチンへ去り、少しの間洗い物の水音がして、ヤンはそれをBGMに熱いミルクティーを楽しんだ。
いつもはブラックで飲む紅茶に比べると、これは素朴な味がして、ミルクの甘さにほのぼのしながら、たまには砂糖を入れてみてもいいなと、ちらとそんなことも考える。
水音の途切れたところへ、ヤンは伸ばしていた足を自分の方へ引き寄せると、
「犬ー。」
ふたりの間でだけは冗談で済む、傍目にはろくでもない呼び方で、キッチンにいるシェーンコップを呼んだ。
飼い犬だとしても普通は名前を呼んでもらえるだろうに、それでもヤンにとってもシェーンコップにとっても、これは何よりも親密な呼び方で呼ばれ方だった。
自分の分のマグを手に、シェーンコップがまたやって来る。ヤンは自分の足の前へシェーンコップを手招きし、腰を落ち着けたシェーンコップが自分の膝の上に両足を引き寄せて乗せてくれるのへ、改めて長々と体を伸ばした。
「お気に召したようで。」
にやっと笑って、マグを顔の横へ持ち上げてシェーンコップが言う。笑顔で小さくうなずいて、ヤンはまたミルクティーをひと口すすった。
シェーンコップの淹れる紅茶にもすっかり慣れ、まれにはそれにコーヒーが差し入れられるのにも、ヤンはもういちいちコーヒーがいかに悪魔的な飲み物かと言う御託を垂れることもない。
シェーンコップを犬呼ばわりしながら、飼い慣らされているのは案外ヤンの方なのかもしれない。
君が犬なら、わたしはきっと猫だ。
日長1日、ソファで体を丸め、気が向けば日向を探し、夜にはベッドにもぐり込む。犬のような忠誠心などかけらもなく、ひたすら怠惰に、毛をあちこちにまき散らして生きる、あの気まぐれな生き物。
怠け者のわたしにはちょうどいい例えだ。
マグを抱えた両手の中に、ミルクティーの熱さと一緒に、シェーンコップの首筋や肩の感触が甦って来る。乾いた皮膚の下の、堅い筋肉。触れている間に、自分の掌の下で次第に湿って来ると、離れがたい気持ちばかりが湧いて、ヤンはいつだって切なさに心臓を絞り上げられるような気分になるのだった。
ヤンはすでに半分ほどになっているマグを傍のコーヒーテーブルに置き、シェーンコップを再び手招いた。
シェーンコップもマグを置き、ヤンの方へ体を倒して来る。ヤンの脚の間へ這い寄るように、胸の辺りへ額をこすりつけて、そうする仕草は確かに犬そっくりだった。
ヤンは両手でシェーンコップの柔らかい髪をかき混ぜ、散々乱してから、音を立てて口づける。使っているシャンプーとは違う、何かいい香りがして、ヤンはその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、シェーンコップの頭を抱え込んで頬ずりした。
「わたしの犬は可愛いなあ。」
心の底からの本音を、思わずため息のようにこぼして、それから、急にヤンの声が改まる。
シェーンコップを抱いたまま、
「シェーンコップ。」
犬と呼ばれるのにすでに慣れ切った耳に、突然自分の名前が飛び込んで来て、シェーンコップは少し驚いた。
「何ですか、提督。」
きちんと、人間に対するようにヤンを呼び返して、シェーンコップはまたヤンの胸元へ顔を埋める。
「わたしは、いい飼い主だろうか。」
妙に切羽詰った声音で突然そう訊いて来るヤンに、さてどう答えたものかとシェーンコップは数瞬思案をめぐらし、もちろん否定する気などないのだけれど、ヤンの気に入るように言うのはどうしたらいいかと、ふた呼吸の間考えた。
「世話の焼ける飼い主を持って、犬は幸せと思っていますがね、飼い主閣下。」
ヤンが、自分の淹れた紅茶を飲む。大抵の場合は、笑顔で。誰かをささやかに幸せにできる自分なのだと、ヤンが教えてくれる。これが幸せでないと、誰が言えるだろう。
元帥にまでなった男を、飼い主とふざけた呼び方で呼んで、軍の階級のままの関係を保ちながら、ふたりはその中でそれなりにより親密な、特別な繋がりを生み出した。ヤンでなければできなかったし、シェーンコップでなければそうはならなかった。シェーンコップが犬呼ばわりを許すのはヤンだけだったし、飼い主と、敬愛をこめて呼ぶのもヤンだけだ。
それに何か問題でも、と体を起こしてヤンを見返して、時々この男が、ただ穏やかに過ぎる時間を享受することに抱く自己嫌悪のようなものを再び感じ取って、シェーンコップはなだめるようにヤンの手を取る。
「私を犬と呼べるのは、貴方だけですよ、閣下。」
そう言った途端、ヤンの頬の線が、少しだけ切なげに歪んだ。
それに、と、ヤンを見つめたまま、シェーンコップはゆっくりと言い継ぐ。
「私が紅茶を淹れるのも、貴方のためだけですよ、ヤン提督。」
取られていた手を強く握り、ヤンも体を起こした。それから、シェーンコップの肩へ額を乗せると、
「君は、わたしを甘やかし過ぎる・・・。」
「では甘やかしついでに、今夜はアイリッシュ・シチューにしましょうか。」
置いてあったマグを取り上げ、ヤンへ差し出しながら、シェーンコップはわざとらしく、いつもの人の悪い笑みを浮かべて見せた。
表情は必死で抑えても、瞳の輝きは隠せない。好物を作ると言われて、ヤンの目がきらめいた。
こんな目をされたら、忠犬でなくてもアイリッシュ・シチューを作りたくなるに決まっている。
自分のマグを片手に立ち上がったシェーンコップへ、
「セロリは嫌いなんだ、避(よ)けてくれ。」
そこまで甘やかすべきかどうか、一瞬思案してから、シェーンコップははいはいと生返事をしておいた。すりおろしてしまえば分かるまいと思いながら、好物と引き換えのご褒美の算段をして、いややはり入れないことにしようと決める。
ああ、確かに甘やかし過ぎだ、ヤンだけではなく自分自身も。
本物の犬ならきっと、隠せず尻尾が振り切れている。それをヤンに見られなくてよかったと、シェーンコップは思った。