シェーンコップ×ヤン
* 犬呼ばわり注意

わたしの犬 / 貴方の犬

"わたしの犬"

獣は服など着ない。案外柔らかな体毛にこすられて、後ろから繋がりながら時々首を噛んで来る。 私は貴方の飼い犬ですからと、妙に卑屈なことを言う声音は、言葉の意味を完全に裏切って、今はその手指でわたしを支配しながら、けれど昼間その首に回った枷を握るのはわたしの方だ。 待てと行けをすぐに覚えて、今わたしの中で尻尾を振っている。 自分を犬と言う嘘つきな薔薇の騎士は、わたしだけの犬だ。


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"貴方の犬"

 薔薇の騎士連隊と言う、名乗るのも気恥ずかしい呼ばれ方には、その優美さとはまるきり逆の、野犬と狂犬の群れと言う侮蔑が含まれている。飼い主のいない、野良犬の群れ。躾もされず、ゆえに正しい振る舞いも知らない、血に飢えたけだものの群れ。
 ああそうだ、俺たちは裏切り者だ。
 最初は虚勢だった。それが諦めに変わったのはいつだったろうか。信じないと言うなら、こちらから信じることなど捨ててやる。裏切り者を、裏切ったのはそちらだと、同じ穴の狢に陥って、差し出された手に噛み付こうと常に唸っている。
 剥き出しの凶暴さを、誰もが嫌悪と恐怖の目で見る。そうして嫌われ、嫌う彼らを憎み、憎しみは凶暴さの理由にしかならず、そうやって憎んで憎まれて、いつの間にか、憎まれる自分たちの姿にこそ安堵を覚えるようになったのは、一体いつのことだったろう。
 わたしは貴官を信じるよ。
 差し出された手。戦斧になど触れたこともないだろう、将官の手。宇宙の闇と同じ色の瞳には、なぜか軽蔑も嫌悪も恐怖の色もうかがえなかった。
 あたたかな、乾いた寝床。空腹を満たす餌。襲われ、殺されそうになる心配もなく眠れる夜。野良犬の欲しがるものなどその程度だ。それすら得られなかった過去に、荒み切っていたのに、ただひと言、信じると言われて、思わず尻尾が振れる。狂犬は素直にその手に自分の手を差し出し、頭を撫でられ、目を細めた。
 待てと言われ、行けと言われ、素直に従いながら、血まみれで戻れば褒めてもらえる。無事で良かった、よくやったといかにも安堵の声で言われ、元野良犬は力いっぱい尻尾を振る。
 私は貴方の飼い犬ですから。口調だけは冗談交じりに、けれど本気でそう思ったままを口にすると、彼は少し悲しそうな目──こちらの方が犬のような──で、君は犬なんかじゃないと言う。
 犬でいい。貴方の犬がいい。傍らに寄り添い、撫でられ、愛され、同じ時間を生きながら、恐らく先に迎える最期を看取ってもらえる、そんな飼い犬でいい。貴方の飼い犬がいい。
 ほんの少し前には贅沢な望みだった。夢見ることさえ許されない、誰かのあたたかな手だった。
 今では、帰れる場所がある。根無し草の、生き甲斐であり死に甲斐であり、死ねば亡骸を埋めてもらえる場所があると、そう思うだけで、こんなにも気持ちが落ち着くのだとは知らなかった。
 死ねば彼は泣いてくれるだろう。共に過ごした時間を思い出し、忘れずにいてくれるだろう。その記憶の中に生き続ける自分。そうして死んだ後も、彼の中で生き続ける自分。
 ぬくもりを分け合った夜を数える。足元へまとわりついた昼を数える。血の代わりに今は彼の掌のあたたかさに飢えて、際限なく欲しくなるそれを与えられて、柔らかな彼の皮膚に、噛み跡は残さないように気をつけながら。
 発情期みたいだと、彼が笑う。けものの交尾の形に、剥き出しの膚をこすり合わせる。貴方の飼い犬だと言うのに、卑屈の響きなどない。むしろ誇り高く頭を上げて、彼の傍らで戦斧を振り上げて、真っ二つにした体から流れる血を浴びて、振り返る首に回った枷の先を握る彼の手へ、また頭をこすりつけてゆく。
 貴方の犬だ。貴方だけの犬だ。
 護るためなら何でもすると、犬が誓う。彼はやるせなく微笑んで、また犬の頭を撫でる。
 掌のぬくもり。それが裏切らせない。裏切れるはずもない。裏切る自分を恐れる必要はもうない。差し出される手を舐め、私は貴方の犬なのだと胸を張る。
 誓う相手はひとりでいい。貴方だけがいい。他には何もいらない。
 犬の生きる場所。犬の死ぬ場所。戦争の犬呼ばわりも狂犬呼ばわりも、もう心には響いて来ない。わたしの犬と呼ぶ彼の傍らで、彼だけを見ていればいい。彼の振る腕に従って、進み、戻り、忠実に役目を果たせばいい。生きて帰れば、彼がまた抱き寄せてくれる。
 寄り添うぬくもり。近寄せる躯。互いの首筋を噛み合っても、それは傷つけるためではなく、繰り返す誓いの言葉を、彼の微笑みが受け止めてゆく。
 彼は犬の飢えをなだめ、とくとくと鳴る心臓の上に掌を置き、血の流れる音に耳をすませる。生きているのだと確かめながら、犬の、自分よりは短いだろう命を思って、こうしてわずかに重なり合った時間のことを、永遠に記憶にとどめようとする。
 犬の誓いをどれほど真に受けるべきかと迷う表情を浮かべて、それでももう、決して犬が裏切ることはないのだと確信を抱いて、彼は無防備に喉笛をさらす。犬はそこを舐め、彼の唇に触れ、そうしてもう少し、親密な形に躯を重ねてゆく。
 繋がる体温。犬の口の中に指を差し込み、彼が牙に触れる。犬は彼を噛まずに、その指を食べてしまいたい素振りを見せても、彼にそう誓った通り、裏切りの気配など微塵もない。
 裏切りを忘れた裏切り者。飼い主を得た野良犬。金輪際、あの修羅の日々に戻るのはごめんだった。生きたいと、生きてもいいと、彼のために思ったあの日に、死ぬのもまた彼のためにだけだと、そう思い決めたのだ。
 犬はただ、彼の死のみを恐怖する。貴方の犬と名乗りながら、彼のために生きながら、彼のために死ぬ日を夢見ながら、今日も戦斧を握りしめて、彼が行けと掛ける声を、ほとんど恍惚となりながら聞いて、彼のためにある己れの存在すべてを、敵の目前へ運んで、犬は血と死を撒き散らす死神になる。彼を死なせないために、犬はすべてを皆殺しにする。
 その犬の背を、彼が瞬きもせずに、あの闇色の瞳で見ている。その彼の手の中で、握りしめた犬の枷が冷たく鳴った。

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