リンツ×アッテンボロー、無関係世界だけどそうめん番外編。

ふたりはナポリタン 2

 また例の厨房で作る今日の深夜のナポリタンは、ベーコンではなくてハム、ピーマンは入らずにセロリが入り、この間食べたのより、ちょっぴり大人のほろ苦さがある。
 ざくざく切られたセロリの、時々舌に引っ掛かる筋にちょっとだけ閉口しながら、アッテンボローはそれでも美味そうにそのナポリタンを食べる。
 作った当人のリンツもアッテンボローの目の前で、同じ皿からくるくるスパゲッティーを巻き付けては取り上げ、運ぶ口元がケチャップのソースで赤い。
 「もうちょっと、ソースにワインでも入れたら、もう少し高級な味になりますかね。」
 ソースの残る唇の端を、リンツがぺろりと舐める。それを上目に見て、アッテンボローはソースと同じくらいの赤さに、隠して頬を染めた。
 「いいんだよ、ナポリタンはこのくらいで。レストランで出るみたいな高級な味にしてどうするよ。」
 軽くうつむいて、しゃくしゃく左側でセロリを噛みながらアッテンボローが言うと、
 「高級な味と言うのがよく分かりませんでね。提督のお口に合えばいいんですが。」
 「おまえが作ると何でも美味いぜ。」
 素直にそう言ったアッテンボローに、今度はリンツの方が照れてうつむく。
 育ちの良い人間特有の、まったく他意のない、無邪気な物言いが、リンツには時々真っ直ぐ過ぎて直視できなくなる。
 亡命者の、貧しい家庭で育ち、親たちはその日を生き延びるのに必死で、子どもたちに構っている暇はそれほどなかった。彼らは間違いなく自分の子どもたちを愛してくれたけれど、貧しさはどうしようもなく、帝国での、決してこんな風に貧しくはなかった暮らしをうっすら覚えているリンツの姉は、あのまま帝国にいればよかったのよと、少し難しい歳に差し掛かる頃にはそうやって始終両親に突っかかったものだ。
 それを見て、家族で唯一同盟しか知らないリンツは、自分がここでは外れ者なのだと言う意識をかすかに抱いて、それが結局家族の許を離れて、軍隊に入ると言う選択をさせたのかもしれないと、決して言葉にはせずに漠然と考える。
 滅多とやり取りもない自分の家族を確かに心から愛して、そうして、今は自分で選んだ家族を、リンツはとても大切に思っている。
 その家族の中に、黙ってアッテンボローを含み、今こうして同じ皿をつつきながら、自分とは違い、同盟生まれ同盟育ちの両親の許に生まれ、話に聞く限り貧しさと言うものに縁はなく、家族の仲も至って円満と言うアッテンボローの、それゆえにまったく嫌味のない明るさが、自分の抱く小さな闇を照らしてくれるのに、リンツは心から感謝していた。
 育ちの悪い人間と言うものは、それを常に意識して生きるけれど、育ちの良い人間と言うものは、自分の育ちが良いと言う自覚すらないらしい。だからこそそれが傲慢に繋がる者もいると知っているリンツは、アッテンボローの、朝になれば自然に上がる太陽のような、そこに当然と言う風にある、まぶしいほど健やかな屈託のなさから恩恵を受けて、この深夜のナポリタンは、そのお返しのつもりもあった。
 この人は、そういうところに自覚がないからな。
 自分がどれほど、周囲の人間にとっての救いになっているのか、恐らくそれも育ちの良さの現れのひとつで、アッテンボローは気づいていない。こんな人が世の中にもっと増えれば、きっと戦争と言うものもなくなるのだろう。
 だが、とリンツは続けて考える。戦争がなければ、リンツの家族は同盟にやって来ようとは思わず、リンツは同盟軍に入隊はせず、そしてアッテンボローと出会うこともなかった。
 帝国人として、帝国に育った自分の姿はまったく像を結ばず、永遠に消えることのない亡命者と言う烙印のみが、深々とリンツの秀でた額に見えない形で焼き付けられて、それを見るアッテンボローはだからと言ってリンツを見る時の目の色を一向に変えもせず、そうか、この人はそういう人なのかと、裏切り者呼ばわりされ続けた自分の半生の中に、初めて淡く明るい光を見たような気がしたものだ。
 少し突き詰めてゆけば、アッテンボローの祖先もまた、まだ同盟の存在しなかった頃の在りようをそのまま受け継いで、同盟では見えない形で蔑まれる生まれだったと窺える。だから傷を舐め合うように魅かれたと言うわけでは決してなかったけれど、この男特有の、ごくごくシンプルな人の好さと朗らかさは、まともに人とすら扱われないこのローゼンリッターに、そういう生き方もできるのだと静かに教えてくれた。
 感謝を、そうとはっきりアッテンボローに伝えたことはないけれど、アッテンボローが何か食べたいと言えば料理をし、何か歌えと言えば歌い、飲みたいと言えば付き合い、ここにいろと言われれば一緒にいて、自分のつまらないわがままをことごとく叶えるリンツに対して、アッテンボローは自分の態度をちょっと大人げないと思い、そういうアッテンボローの可愛らしさにリンツは参ってもいて、割れ鍋に綴じ蓋と言うわけではなくても、結局ふたりは何となく気が合って一緒にいるのだ。
 自分のためだけに作っていたものを、ローゼンリッターの隊員たちに振る舞うようになり、そこに今ではアッテンボローが加わって、自分の作ったものを美味い美味いと食べてもらえるのはこんなに嬉しいことなのだと、何となく皿をアッテンボローの方へ押しやって、リンツはまた小さくひと口、自分の作った──アッテンボローのために作った──ナポリタンを食べる。
 アッテンボローが、フォークの先に薄切りのマッシュルームを突き刺す。何を思ったのか、それをリンツに差し出して来て、食べろと言われているのだと悟ったリンツは、深くは考えずにそれをぱくりと口の中に取った。
 柔らかな歯応え。歯列にしっかりと伝わる弾力。案外したたかに、噛み切る歯を跳ね返して、口の中で粉々にする時には、ちょっと暴れる小動物を思わせる感触だ。
 包丁を通す時にも手指に感じるけれど、マッシュルームはアッテンボローの耳朶に似ている。洗うとつるつるしているところも、その弾む柔らかさも、食い込む歯列を受け止めるくせに、噛み切らせはしない意外な靭さと、ごくりと飲み込んで、リンツは思わず頬を染めた。
 アッテンボローも、きっと同じことを考えている。薄切りのマッシュルームは、リンツの耳朶そっくりだ。白いマッシュルームの、純白のような白さは特にリンツを思い出させる。ケチャップのソースにまみれても、赤さに負けない、輝くような白さが、帝国人特有の削ったような顔の造作から受ける印象と同じに、アッテンボローにその存在の強さを知らせて来る。
 薄切りのマッシュルームを噛んで、ふたりは一緒に、別々に、同じことを考えている。薄く切られてしまう前の、丸のままのマッシュルームの、奇妙にひとに似た手触り。ひとの皮膚やひとの体の線に、どこか似ているマッシュルームを、とんとんと薄切りにして、歯を立てればそれはまるで耳朶だ。
 ケチャップの赤が、血の色と言うには赤みが強過ぎて鮮やか過ぎて、戦場を連想させはしないことを、リンツは心からありがたく思う。
 リンツがアッテンボローを寄せ付けるのは、深夜のナポリタンまでだ。
 頭を潰され、腹を叩き切られ、手足を飛ばしてのたうち回る、死体寸前の兵士の姿なぞ、アッテンボローには見せたくない。分艦隊指揮官として、司令官卓にいて、血だまりを踏み越えて歩き進むような真似は、この人にはさせたくないと、リンツは思う。
 どうせ誰の手も、とっくに血まみれだ。それでも、誰かの血を直に浴びるのは自分の役目にして、アッテンボローをそんな目には遭わせたくはないのだった。
 オレの、勝手なわがままですが。
 「どうした?」
 急に黙り込んで、自分をじっと見つめているリンツに、アッテンボローが訊いて来る。リンツは答えずただ微笑みを浮かべて見せて、またナポリタンにフォークの先を差し入れた。
 「玉ねぎは多い方が美味いですね。今度はほんとうに赤ワインでも使ってみましょうか。」
 考えていたことを頭から振り払いながら言っても、血の連想からうっかり赤いワインを思いついて、けれどアッテンボローは幸いそんなことには気づかないようだった。
 「いいって、これで美味いって。ワインなんか入れたらせっかくのナポリタンが台無しだ。酒は酒で別に飲む方がいいだろ。」
 「結局それですか。」
 男ふたりでつついて、山盛りのナポリタンはそろそろ終わりに近い。もう皿の表面が見えているそこへ、アッテンボローがきこきこフォークを回し、残りの三分の一くらいを巻き取った。
 スパゲッティーの1本が長く垂れて、それをうまくすくい取って口の中に放り込むことができずに、アッテンボローは口の中を先に空にしてから、その長く残った1本をもぐもぐ食べ上げようとした。
 突然リンツのフォークがそのスパゲッティーの先へ伸びて来て、するりとすくい上げて自分の口の中へ入れてしまう。
 スパゲッティーの端と端をそれぞれの口の中へ入れて、ふたりは奇妙な距離で見つめ合う羽目になった。
 口の中にスパゲッティーを入れて、もごもごしゃべれたものではない。何してんだよおまえ、とアッテンボローの青光りする鉄色の瞳が言う。さあ、とリンツの鮮やかな緑色の目がとぼけた答えを返す。
 アッテンボローは意地になったような表情を浮かべて、不意にスパゲッティーを食べるスピードを上げた。
 するするそこへ消えてゆくスパゲッティーの、こちら側の端を、リンツも、アッテンボローほどの速さではないけれど食べ始めて、ふたりの鼻先がかすめる短さになるのにそれほど時間は掛からなかった。
 「──噛み切れよ、おまえ。」
 アッテンボローが、横開きの唇だけを動かして、不明瞭にリンツに凄んだ。
 「いやです。提督がどうぞ。」
 同じはっきりしない声で、リンツが言う。こうなれば本気で意地になるアッテンボローが、さらにひと口スパゲッティーを噛み進んだ。
 鼻先がずれて、どちらかが諦めなければそのまま唇の触れ合う近さで、一体どちらが最後の一片を口の中へ取り込んだのか、ふたりにも分からなかった。結局触れ合ってしまった唇の間にスパゲッティーの感触はなく、ただケチャップの酸っぱさと、玉ねぎの甘さと、セロリの苦さが、ふたりの唇の間を数拍行き交う。にらみ合うように目も閉じずに、こんな距離では互いの目の色に見入るしかない。
 触れ合っただけの唇は、またそれも勝ち負けの対象のようにしばらく外れないまま、リンツの膝に掌を乗せて来たのはアッテンボローだった。
 まだ少し残りのある皿に、ごちそうさまと言うようにフォークを置いて、アッテンボローはリンツに触れ、リンツはその掌に、自分の、大きくて少しかさついた掌を重ねた。
 まるで口紅でもなすったように、ふたりともの唇にケチャップのソースがついて、子どものいたずらみたいに汚れた顔で、やっと唇を離すとふたりともそっぽを向く。
 重なった手はそのままで、リンツが皿に残ったスパゲッティーを全部かき寄せて、ナポリタンの最後のひと口を終わらせる。ただひと切れ、マッシュルームをそこに残して。
 まだあっちを向いたままのアッテンボローへ、リンツは、最後のマッシュルームをぺらぺら唇の間に挟んで、尖ったあごごと差し出した。
 そう挑まれてアッテンボローは、今度は正確に、リンツの唇の際でがちっと噛みついて来て、ほんとうに子どもみたいな仕草でマッシュルームをきっちり半分噛み切った。
 見せつけるように、むしゃむしゃマッシュルームを噛んで、飲み込んで、まったく対照的に無表情に残りのマッシュルームを食べるリンツを、アッテンボローはどうしてか突き飛ばしてやりたいとでも言うような目色で見ている。
 重なったままの掌が、どこより正直に気持ちを伝え合っているのに、表情はまるきり逆に、まるで子どもの意地の張り合いだ。
 ナポリタンは美味い。特にリンツが作ったそれは。どれだけそれを真っ直ぐ伝えても、必ずわずかに割り引いてそれを聞いているようなこの元帝国人に、アッテンボローは時々、その肩を揺すぶってやりたい気持ちになる。
 自分だって大して大人でもないくせに、年上ぶりたくて、アッテンボローはぼそりと、気のない風に提案した。
 「安物だけど、部屋に赤ワインがあるんだ。飲みに来るか。」
 表情が変わらないから、喜んでいるかどうかはっきりとは分からずに、ぜひ、とリンツが言う。背中の側に、ぱたぱた大きく振れる尻尾が見えたような気がして、アッテンボローは数瞬前の意地の張り合いを忘れて、思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
 「じゃあ、皿洗ってここ片付けて、早く行こうぜ。」
 ええ、とまたすぐうなずくくせに、リンツは動き出そうとしない。
 ふたりとも、重なった手をほどくのが惜しくて、相手が動き出すのを待っている。
 おまえが先に行けよと、アッテンボローは肩を揺すった。リンツはそれを見て、逆にアッテンボローの手を握りしめて、もう石か樹のように動かない。
 リンツの首筋にうっすら血の色の上がるのを見て、その耳朶が、さっき食べたマッシュルームそっくりだと思う。それを思い切り噛んでやりたいと思いながら、アッテンボローも動かない。
 皿の上にフォークの跡を残すケチャップのソースの色が、乾くに従って血の色から遠ざかってゆく。リンツはそれを見て、アッテンボローに見えないように、聞こえない安堵のため息をついた。

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