* みの字のコプヤンさんには「気付いてしまった」で始まり、「そっと目を閉じた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以上でお願いします。
夜更けの訪れ
気付いてしまった。部屋の片隅にある気配に。それはぼんやりとした物の影のような、どこからともなく発生した空気の揺れのような、目を凝らしてもはっきりとはせず、見間違いかと思って視線を外すと、また同じ気配が肩の辺りへまつわって来る。
まさかと思ったことを、シェーンコップは声に出した。声に出した自分に呆れ、そんなばかなと皮肉の混じった苦笑を自身に投げて、そのくせ足は素早くキッチンへ向かっている。
取り出したグラスへ酒を注ぐ。自分が飲む時よりも少し多めに。
「まさかとは思いますが、貴方ではないですよね、提督。」
自分のところになど来るわけがない。姿を現すべき先は、他に山ほどあるはずだった。
「それとももう、他はすでに回って、そろそろどうでもいいところへ顔を出していると言うところですか。」
案外皮肉ではなく、本気でそう思いながら、シェーンコップはもうひとり言のつもりでもなく、薄暗い虚空へ向かって話し掛けていた。
──ひどいな、どうでもいいってことはないだろう。
腕の長さ半分くらい先に滑らせたグラスへ向かって、明らかに空気が揺れた。自分の半身へ伝わるその気配へ、シェーンコップは横目に瞳をずらす。
「・・・どうでもよくはないなら、我々を置き去りになさらなければよかった・・・。」
微動だにしないグラスの中で、酒だけが揺れる。
何もない自分の左側へ向かって、うらみがましさのこもる声が止められない。シェーンコップは自分の手元へ目を伏せ、自分『も』飲むかとふと思った。
──好きで置き去りにしたわけじゃないよ。
薄闇から声が聞こえる。自分の耳を素通りし、頭蓋骨の中に直接染み通って来るその声へ、シェーンコップは思わず長い瞬きをした。
──謝る暇もなかったから・・・みっともなさ過ぎて、君のところに姿も現せなかったわたしの気持ちも汲んでくれ。
シェーンコップは軽く首を振り、いっそう大袈裟に、呆れたと言う仕草をして見せた。
「死んだ人間の胸の内を慮るほど、私はできた人間でも、暇人でもありませんでね。」
シェーンコップの嘘を見抜いたように、あるいは、その毒たっぷりの皮肉を懐かしがるように、気配が──ヤンが、グラスに手を掛けて微笑んでいる。
グラスの中の酒が、明らかに減っていた。シェーンコップはそれに気づいて、ヤンには見えない側の唇の端を、そっと持ち上げる。
──君が暇じゃないのはよく分かってるよ。自分の誕生日も忘れるくらい、忙しくしてるんだろう。
グラスの酒がまた大きく揺れ、はっきりと減った。
思いがけないヤンの指摘に、シェーンコップは息を止め、奥歯を噛んだ。動揺をヤンに見られまいとする努力は追いつかず、喉へせり上がって来る苦い固まりをうまく飲み下せずに、ごくっと大きく喉が鳴る。
ヤンが逝って以来、しなくてもいい仕事も拾い上げて、シェーンコップはろくに休みも取っていない。夢を見ればヤンばかりが出て来るから、眠ることもしたくはなかった。今夜もそうだ。頭の中でやまない砂嵐の向こうに、ぼんやりと見える人影はヤン以外の何者でもなく、それを憐れに思ってかどうか、ついにご本人の登場だ。
はっきりと姿は見せず、足があるかどうかも確かめられないと、シェーンコップは自嘲気味に思った。
「貴方との差が、開く一方ですな。」
もう歳を取ることはないヤンと、ついさっき誕生日を迎えたシェーンコップと、見つめ合って、見えないのにヤンの向ける視線が慰撫のそれと分かるシェーンコップは、ヤンが死んで以来、今日が何日かと考えることすら忘れていたことに気づく。
処理する書類に記された数字はただの記号でしかなく、文字は脳の中で理解と対処したところで、記憶には残らない。あれから何日経った? あれから俺は一体何をしていた? 何を食べ、何を飲み、誰とどんな話をした? 何も憶えていない。いや、覚えているはずだけれど、その記憶へたどり着けない。何もかもが霧に埋もれた迷路に放り出されたように、シェーンコップの中はすべてがぼんやりと漂っているだけだ。
──せめて、今夜くらい君がちゃんと眠れるようにと思ってね。
「ひと晩中、そばにいて下さるつもりですか。」
──君が、そう望むなら。
「提督、私の望みはご存知のはずで──」
──それは無理だよ、シェーンコップ。
ヤンがシェーンコップを遮り、切り捨てるように厳しい声を出す。
死者と情を交わすと魂が地獄へ落ちると言う古い戯れ言を、信じているはずもないふたり──生者と死者──が、片方はそれを死ぬほど恐れている。もう片方は今それを信じたがっている。
俺を連れて行けと、シェーンコップが吐き捨てるように心の中で思ったことを、ヤンが読み取ったように、例の困った笑みを浮かべる。目を凝らせば、血まみれの左足が見えるのかもしれない。すでに乾いているだろうその血の、自分の掌を染めたねばつきが指の間に甦ったような気がした。
いつの間にか、酒のグラスが空になっている。
相変わらずだとシェーンコップは薄く苦笑をこぼして、次を注ぐかと思った途端、ヤンが掌をかざしてグラスにふたをする。その手が血まみれなのが、シェーンコップには確かに見えた。
静かに深呼吸をして、ベッドへ戻るために体を回す。首と肩と頬へ、ヤンの気配がまつわって来る。あごを包み込むヤンの掌の感触へ、撫でられた猫のように喉を伸ばし、確かに今夜はよく眠れそうだと思いながら、シェーンコップはそっと目を閉じた。