独身なのに団地妻なヤン提督と昼下がりの情事シェーンコップの、おバカダダ漏れエロ。

ゆですぎそうめんえれじぃ 1

 申し訳ありませんでしたと、深々と頭を下げる男の、いかにも柔らかそうな髪と灰褐色のその色へ、ヤンは目を奪われた。その髪の印象と声の深みが同じで、再び頭を上げた時に、振りではなく、心底申し訳なさそうに眉尻を下げた男の、髪と同じ色の瞳へなぜか見入って、男の顔の造作が恐ろしいほど整っていることを、数瞬見逃したままでいる。
 ああ、きれいな男だと思って、上の空で相槌を返し、その首から下を覆う白味の強い灰色の作業着の地味さが、男の華やかな美貌を隠し切れていないことに気づくと、こんな美しい男に頭を下げさせる自分が極悪人のように思えて来た。
 男がまず差し出した、シックに包装された包みを手にしたまま、ヤンは、上がってお茶でもと言うべきかとぼんやり考えながら、明らかに仕事の合間に謝罪にやって来た男を、これ以上煩わすのもどうかと思ってその言葉を飲み込む。
 ごちゃごちゃと散らかった台所は、そもそもお茶を淹れるどころではない。そうめんを茹でるための湯が、鍋いっぱいにぷつぷつ音を立てていて、ヤンはその音に気づいて、ふっと台所の方へ顔を向けた。
 火を止めないと。
 そう思ったのが空気に伝わったのか、男がやっと顔を上げ、
 「お邪魔いたしました。」
 そうさらに声を深くして言い、もう一度同じ角度に頭を下げて、まだ体を完全に元には戻さない姿勢で、そっと開けた玄関の金属の扉へ、滑るように体を差し入れて、ほとんど音もさせずに姿を消した。
 無個性な扉の灰色と、男の作業服のブルゾンの灰色がよく似ていて、男が一瞬この建物の一部になってしまったように見えて、ヤンはまだ目の先に男の姿を探している。
 男はもういなくなって、代わりに、狭い三和土に、かすかな汗の匂い混じりのコロンの香りを残して、髪の色も瞳の色も声の深みもその香りも、何もかもが完璧に釣り合った男だと、ヤンは思った。
 すごいな、あんなきれいな男って、存在するんだ。
 髪も目もただ黒い、ちらしの裏に丸でも書いたような自分の顔立ちと比べて、男の、彫刻のような、そこに体温があって動いていると信じられないような、人間離れのした美貌を、呆然と脳裏に反芻する。
 再び、湯の吹き立つ音を思い出して、やっとヤンは台所へ行った。
 昼のそうめんを茹でるための湯が、鍋の中にぽこぽこ大きな泡を起こして、男の不意の訪れが、そうめんを湯に入れる前で良かったと思いながら、やっとそうめんをひと束、ぱらぱらと湯の中に泳がせる。
 つゆは、おととい作ったのがまだ冷蔵庫にある。
 様々な調味料や請求書やよく分からない広告などが乗った小さなテーブルには、ひとり分の茶碗などを置くのがやっとのスペースしかなく、そこにとりあえず置いた、男が持って来た包みは、薄暗い台所にはまったく似つかわしくない洗練さを振りまいて、うっすらと銀の飛沫の散ったようなその包装紙へ、ヤンは指先を滑らせ、紙の、いかにも豪華にざらつく感触を楽しんだ。
 このテーブルも、数ヶ月前、まだユリアンのいた頃には常にきちんと片付いて、ふたりでここに坐って一緒に食事もできたのに、今ではヤンが何もかも乗せっ放しにするから、そうめんを入れる大振りのガラス容器すら置けない。
 大学へ進学し、寮へ入ったユリアンは、養父のヤンが学生時代から住んでいるこの団地で、一体ひとりでやって行けるのかとしきりに心配していたけれど、ユリアンを引き取る以前──6年ほど前──にはずっとひとりで暮らしてたんだぞと胸を叩いて言ったくせにこの体たらくだ。
 丸い卓袱台のある居間は、台所よりは随分ましだ。床が見えるし、歩くのにも特に不便はない。卓袱台には読み掛けの本や新聞や、朝飲んだ紅茶のマグがまだ置いたままになっているけれど、あれは昼食の後に片付けるつもりなのだから、別にいい。
 ヤンの寝室はほぼベッドで占められ、床にはパジャマが散らばっている。拾って、せめてベッド──起き出した時のまま──の上に放っておこうと、ヤンはまだもらった箱を撫でながら考えている。
 気がついた時には、そうめんはすっかり茹で過ぎで、湯の中でくたくたと泳ぎ続けていた。
 ヤンは慌ててそうめんをざるに上げ、水道の水を流して冷やし始めた。
 食べられはする。美味くはないけれど。何か考え始めると、料理のことなどどうでもよくなるヤンにとって、家事をすべて引き受けてくれていた養子のユリアンは、天からの救済者だった。
 わたしとこうしてずっといて、おまえにわたしの世話を、頭の先から爪の先までしてもらうわけには行かない。
 ひとりでやれと言われれば何とかするけれど、とても満足の行くレベルにはできないヤンは、ユリアンにすっかり甘やかされている自分を戒めるために、ユリアンを少し遠方の大学へやり、再びのひとり暮らしを始めてはみたものの、そうめんすらまともに茹でられず、はあ、とため息をつきながら、ぬるくなったそうめんをガラスの器に盛り、揃いのグラスにつゆを出して、箸と一緒に持って、居間の卓袱台へ運んだ。
 カーテンを寄せたままの窓は全開で、部屋に入って来るなまあたたかい空気を、扇風機が、家主と同じくらい面倒くさそうに、ゆるゆるかき回している。
 ヤンは出しっ放しの座布団へ坐り、茹で過ぎたそうめんを箸にすくい取り、つゆにひたしてつるつるすする。見た目ののったりとした、艶のない様子のまま、舌にものったりと絡むめんは、夏の暑さに溶け掛けたヤンの脳みそのように、液体とも固体ともつかない謎の物体と化して、ヤンの舌と喉を通り過ぎてゆく。
 輪郭のぼやけためんと似合いに、つゆも味がぼやけて、ああ、人間は汗をかいたら軟体生物と化すんだったかなと、ヤンは呆けた脳の奥で、そうめんをぽやぽや噛みながら考えている。
 それに比べて、あの男の、まるで切り取られたようなくっきりとした、見事に冴えた輪郭をまた思い出して、わたしやこのそうめんと大違いだなと、つるつるとそうめんをすすり上げて思う。
 つゆかそうめんに、氷でも出せば良かったのだ。あの男みたいに、きりっと冷たくて角のぴしりと立った、見事な氷。けれど今になって思いついても、その氷も冷凍庫の中にはない。使い切っては次を作るのを忘れてしまうのだ。
 ユリアン、と、ヤンは空いた方の手で、卓袱台の向こう側に置かれた本へそっと触れた。
 お好きかと思って、とユリアンが送って来てくれた本だ。ある、戦争続きの小国の歴史についての本で、古本屋で見つけたからと言って、わざわざ宅配便で送ってくれたのだけれど、この本が最寄りの営業所で他の荷物に紛れてしまったのかどうか、何しろ小さい包みだったから所内のどこかで行方不明になってしまって届かず、ヤンは営業所へ一応苦情の連絡を入れた。
 すぐに買い直せる本ではないし、困ったな、ユリアンになんて言おうと思いながら、文句と言うのが苦手なヤンは、つっかえつっかえ、大切なものだからもう一度念入りに探してはくれないかと、営業所へ丁寧に頼んでみた。
 数日後、見つかったと本が無事に届き、そして今日、営業所の責任者と言うあの男が、詫びと言って何やら包みを持って、頭を下げにやって来たのだ。
 この程度のことでご苦労なことだと、責任者の仕事と言うのはこういうことも含まれるのかと、ヤンは本から手を離し、そうめんの最後のふたすくいを、美味しくないなあと、唇を尖らせながらつゆにひたす。
 何もかもぼやけてはっきりとしない、窓からの風景も、夏の熱気に茹で上げられてか、ああ、わたしの人生みたいだなあと、ヤンは、つゆの匂いのするため息を吐いた。
 父親が死んだ時に残した保険金と遺産を株に変えて、配当金で死なない程度に生きては行ける、他人から見れば結構な生き方と思うかもしれない。ヤンもそう思わないでもない。それでも、生きていることは、暇つぶしになると途端に退屈になってしまうものなのだと、久し振りのひとり暮らしの不如意さに、誰かが淹れてくれた紅茶が飲みたいと思った。
 金は政府が出すから、孤児に家庭を与えてやれと言う政策で、くじ引きまがいでヤンの元へやって来たユリアンは、ほんとうに親身にヤンの面倒を見てくれた。おかげでもう、ヤンは自分でそうめんすらまともに茹でられなくなっている。
 このままではいけない。わたしは堕落してしまう。
 食べ終わった食器をそのまま、ヤンはごろりとたたみの上に寝転がり、青い空を見るともなしに見つめて、ゆるく渡る風に流れてゆくちぎれ雲に、自分の許を離れてしまった──放したのはヤンだ──ユリアンを思い浮かべて、空の鮮やかさに似合わない感傷的な気分を味わっている。
 感傷的になった理由の大半は、茹で過ぎたそうめんだけれど、多分、どうやっても美味くできないつゆの味のせいもあるのだろう。
 料理学校にでも通うかなあ。
 ユリアンの保護者の任を解かれてしまうと、すっかり暇になってしまった。人間暇になるとろくなことを考えないものだ。いい加減なことをつらつら考えて、皿洗いから逃避し続けるわけにも行かずに、ヤンはやっと体を起こすと、やれやれと食器を手に台所へ戻る。
 油物がないのを良いことに、水で流すだけのような適当な洗い方で済ませて、ヤンは濡れた手を拭きながら、テーブルに放り出しておいた、例の男の持って来た包みへ再び目をやり、今日も昨日も明日も区別のないようなのっぺりの日常に、突然眩しい光でも差したようだった男の美々しさを思い出して、まだ乾かない手をそれへ伸ばした。
 手にずっしりと重いその箱の外側を、べりべりと、ユリアンが見たら悲鳴を上げそうな雑さで剥ぎ取り、破った包装紙はもちろんテーブルに投げておく。
 お、とヤンは思わず声を出した。箱の中身はそうめんだった。軽い失望の後に、けれどそのそうめんがいかにも上等の、ヤンが買い物にゆく範囲では絶対にお目に掛かれないような高級品であることに気づくと、興味の形に唇が丸まる。
 へえ。いかにもあの男が携えて来るにはふさわしそうな、控え目な仰々しさを、さっきのそうめんの不味さの反動かどうか、ひどく好ましく思って、明日の昼はこれを茹でようかと、口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。
 どうせ茹で過ぎで美味くはならず、つゆの味も変わりはしない出来に、色の濃い眉が寄るだけの明日の昼食に間違いはなかったけれど、それでもヤンの気分は、今は夏の空のように少しだけ明るく透き通った。

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