炬燵たちの挽歌 (そうめん番外編)
● OVA ●桜がほころび始めたと、ニュースが伝えて来る。いい季節になったね、と人たちが微笑み合う。春は出会いの季節だ。そして同時に、別れの季節でもある。
ヤンとシェーンコップは、沈痛な面持ちで、無言でうつむいていた。何か言えば感情的にしかなれず、どちらの言い分が──より──正しいと、ここでは判断してくれる第三者はおらず、いたところでふたりが介入させるはずもなく、これはあくまで自分たちだけの問題なのだと、ヤンは未練がましく炬燵布団に顔の下半分を埋めて、それで尖らせた唇を隠した。
「嫌だよ、君が何と言おうと、わたしは嫌だ。まだ答えを出すのは早過ぎる。たった──たった3ヶ月じゃないか。」
ヤンの向かいに、炬燵には入らずに正座したシェーンコップは、揃えた膝の上で、ヤンには見せずにぎゅっと拳を握りしめた。
そうか、まだ3ヶ月か。あの日から、まだ3ヶ月しか経たないのか。あまりに安逸で暢気で、ぬくぬくと魂の溶けたような時間だった。
伸ばせばすぐに互いに触れる距離で、指先が触れ合い、膝が触れ合い、爪先が触れ合い、まさに極楽だと思ったのは、ヤンだけではなかったし、それに溺れたのはシェーンコップも一緒だった。
話し合いに話し合いを重ねて、ついに決心をして、ふたりで同じ答えを出した。そうしようと、微笑みながら力強くうなずき合って、けれど今、ふたりの道は分かたれようとしている。右へ進むか左へ進むか、先はひとつしか選べない。どちらもと言うわけには行かないのだ。
ヤンの言い分が通るのか、シェーンコップが言い分を通すのか、ふたりはできるだけ穏やかに話し合いをしようとして、けれど、最初にこうだと決めた時の高揚感はすでに消え失せ、今は上目に絡まる視線に、拗ねた色と失望の色と、そして喪失への恐れの色が隠しようもなくあふれて、シェーンコップは、ああ俺はまた失ってしまうのかと、長いまつ毛の目元へ、知らず暗い翳を落としている。
ヤンもまた、同じように、失うのは自分だと考えていて、失いたくないと、考えるのはそればかりだ。
たった3ヶ月、そんなの十分だなんて言えないじゃないか。せめてもうふた月、いやひと月でもいい、考え直そう。そうしたらきっと、わたしももう少しましな物の考え方ができるようになる──。
シェーンコップは、今でなければと思う。今決意して実行しなければ、このままずるずると、ただ溺れて飲み込まれて、そこから這い上がれなくなると、それは予感ではなく現実だった。
このままではだめだ、堕落してしまう。いや、すでにしている。だからこそ、ここから離れて、自分たちで何とかしなければ──。
ふたりでいればあたたかい、それだけが理由だったのか。それだけでふたりは、こうして一緒にいることを選んだのか。だから春が来て、外の風にぬくもりを感じ始めて、だからもう、君はいらない、貴方はいらないと、そんな話になってしまうのか。
違うよと、ヤンは、今まで生きて来て、これほど真剣な声など出したことはなさそうに、悲しげに首を振る。違う、そうじゃない。寒いだけが理由じゃなかった。こうして近々と顔と体を寄せて、夜の長さを分け合って、こんなぬくもりもあるのだと、初めて知ったから、だからそれを失いたくないだけだった。失うなら、せめてもう少し、もう少し最後を引き伸ばしてあがきたい。たった3ヶ月でお別れなんて、まるで詐欺じゃないか。あの時の、わたしたちの決心は何だったんだ。
ですが、とシェーンコップが顔を上げる。ここままでいるわけには行かないと、貴方だって分かってるんでしょう。ふたりだけのぬくもりに溺れて、他の何もかもを忘れて、それは堕落だ。貴方となら、どこまで堕落したっていい。だが現実には、貴方には貴方の人生があり、私には私の人生がある。それをすべて無視するのは不可能だ。今ならまだ戻れます。今ならまだ遅くはない。手遅れになる前に、私たちは決心して、行動すべきだ。
正論なんか聞きたくないね。ヤンはうっかり吐き捨てるように言って、持ち上げた炬燵布団の中に、顔からもぐり込んでしまった。
そうだ、こんな心地好いぬくもりがあるだろうか。冬の炬燵の中は、ただただ天国だ。しかもこの炬燵はこの冬に買ったばかり、天板の下のヒーターは極薄で、ヤンが体を丸めてすっぽり収まることもできる。
そうして、布団をめくって確かめなくても、中でヤンがくるりと手足を縮めてそこに籠城したのを知っているシェーンコップは、ただ待った。待つしか手はなく、そして、ただ待てば良かった。
5分。10分。そろりと、布団の端が持ち上がる。ヤンの爪先と手の先が出て来る。中の熱さに負けて、ヤンが外の空気を味わおうとしている。もう1、2分で飛び出して来るなとシェーンコップが予想した通り、顔を真赤にしたヤンが、ぱさりと布団を剥いで中から飛び出して来た。
ぜえぜえ喘ぐその背に、
「もう、中に籠城できる季節ではありませんよ。」
「でも──」
「デモもクーデターもありません。炬燵は片付けます。片付けない限り、春の大掃除もできませんのでね。」
「横暴だ。」
「横暴と言うのは、ベランダに靴下もなしで放り出して、中から鍵を掛けて、締め出した間に炬燵を片付けてしまうことを言うんです。そんなことを、貴方は私にさせたいんですか。」
ヤンが、言葉に詰まって唇を結んだ。
強引に事を運びたいわけではない。あくまで、ヤンには穏やかに納得してもらいたかった。そうだね、冬中炬燵にこもりっ切りだったから、そろそろ外に出ないとと、ヤン自身に理解させなければ意味がない。
ヤンの炬燵の定位置の周りには、本の山が築かれ、シェーンコップが拾っても拾ってもゴミが辺りに散らばり、ヤンがそこから出ないから、ろくに掃除機も掛けられずにいる。
朝から晩まで炬燵から離れず、読みたい本のリストをシェーンコップに手渡して、取って来てくれと言うのはともかくも、とうとう、わたしの代わりにトイレに行って来てくれないかと言い出した時は、さすがのシェーンコップもヤンの正気を疑い、これは気温の上昇を見てさっさと炬燵を片付けなければと思った。
そして、ついに桜が咲き始めたとニュースが伝えて来る。このタイミング以外、一体いつ炬燵を片付けると言うのか。ヤンがどう思おうと、これはヤンのためだった。
そうだ、シェーンコップだって、この中で永遠にぬくぬくしていたかった。ヤンの傍らで、ついそうなったと言う振りでヤンに触れ、ヤンを抱き寄せ、ここから離れたがらないヤンのためにあらゆる世話を焼いて、そうやって、もう自分なしではいられなくなるこたつむりのヤンに、会心の笑みを内心で漏らしていなかったと言えば嘘になる。
この炬燵で、鍋をした。あたたかいにゅうめんも食べた。あったかいと冷たいものでも平気だねと言うから、冬の最中(さなか)にそうめんすら茹でた。何もかも、ヤンのためだった。
だからこそ、今もヤンのために、炬燵撤去を決行しなければならなかった。ついここで寝てしまうヤンが、ベッドに来てくれずに淋しいと言うのが本音などでは決してない。それは違う。
「ああ、そう言えば、坊やから本が届いてましたよ。」
わざとらしく、シェーンコップは自分の後ろから小さな包みを取り上げて、見せびらかすように頭上に上げた。
「これで3冊目と思いますが、どれにもまだ返事を書いていませんね。」
ぎりっと、ヤンが奥歯を噛んだのが見えた。
「私が代筆しても構いませんが、貴方の字でない手紙を読んだら、坊やはどう思いますかね。もう貴方に会いに来てはくれないかもしれませんよ。」
ぐう、とヤンの喉が鳴った。
大学の春休みに、顔を見せに来るかもしれない、ヤンの養子のユリアンのためにも、春の大掃除が必要なのだ。かつてヤンの世話をしていた青年に、この人の世話は今は俺が完璧にしているから心配無用と、示さなければならないのだから。
炬燵にこもって、辺りをゴミためにしているところなど、絶対に見られては困る。
さあ、とシェーンコップは本を振った。ヤンはついに観念したように、それでも未練がましく、体は炬燵に残したまま、腕だけこちらに伸ばして来る。届くはずがない。じりじりと、シェーンコップはさらに後ろに下がり、
「貴方と言う人は、愛息よりも、炬燵の方が大事なのですか。」
そうきっぱりと言われて、ヤンはさすがに羞恥に顔の片側を歪め、ずるずる、冬眠明けのヘビみたいに炬燵から這い出す。
「貴方を、誇りに思いますよ。」
せいぜい大仰に、まるで裸に剥かれたみたいによろよろ倒れ掛かって来るヤンを抱き止めて、シェーンコップはその手に本の包みを渡してやった。
「・・・約束してくれ、次の冬は、もっと早く炬燵を出すって・・・秋の半ばくらいには、もう炬燵を出すって、約束してくれ。」
こんな声で懇願されて、否と言えるはずもない。お約束しますと、シェーンコップは重々しくうなずいておいた。
「ユリアンに、手紙を書いて来るよ・・・。」
本の包みを手に、ヤンは本をまとめて置いてある部屋へ向かう。ちょっとした書き物をするために、小さな折り畳みの卓袱台のあるその部屋は、人気がなくきっと少し寒い。そこで背を丸めて、大事な息子のユリアンに本の礼をしたためながら、ヤンは炬燵をもう恋しがりながら、けれどかじかまないペンを持つ指先に、春の気配も感じることだろう。
ヤンの、ちょっと悄然とした背を見送って、シェーンコップはやっと正座から立ち上がり、炬燵布団に手を掛けた。
冬の間ご苦労だったと、ヤンを抱きしめ、ひたすらあたため続けた炬燵へ、労いの言葉を投げ、けれど同時に、俺のあの人をずっと独り占めしやがってと、言わない言葉は、冬の間にすっかり汚れてしまった──特に、ヤンのいたところ──布団に吸い込まれてゆく。
シェーンコップは、こたつ板を持ち上げ、勢いをつけてそこから外した。続けて布団を引き剥がして丸めてそこらへ放り、途端に妙に広くなった部屋を懐かしく眺めて、これで今夜からヤンはさっさとベッドに来てくれると、思わず感涙にむせびそうになった。
脚を上に引っ繰り返された炬燵は、何やら仕留められた狩りの獲物の風情で、その脚をくるくる回して外しながら、掃除機を掛ける前に、ヤンに紅茶を淹れることに決める。
外で、恋の季節の猫たちが、騒がしく鳴いている。
紅茶に入れるブランデーを少し増やすかと、その声を聞きながら思って、どうやら今日の夕食は少し遅くなりそうだと言う予感に、シェーンコップの口元がわずかにほくそ笑み──ヤンにはまだ見せたことがない──の形に上がった。
● DNT ●
ヤンの団地の部屋にだって、こたつはある。ただそれはもうずっと押入れの奥に押し込まれて、部屋に出されたことがないだけだ。
「つい面倒でね。あったかくなったら片付けなきゃだし。こたつが出てるとつい掃除も面倒になるんだろう。」
ぼそぼそ、こたつ布団に頬ずりしながら、ヤンが言い訳めいて言う。
シェーンコップはそのヤンの前に紅茶を置いて、ヤンとこたつの角を囲むようにして坐る自分の位置にはコーヒーを置き、そろそろ夕食の時間だから、今はおやつはなしだ。
このこたつは、シェーンコップがこの祖父母の家に住み始めて最初の冬に、夜勉強するのに寒いだろうと、買い与えられた、シェーンコップ専用のものだそうだ。
ひとり用のこたつの天板は、ノートと本を1冊ずつ広げればいっぱいになる程度の大きさで、ふたりが一緒に中に足を差し入れるなら、どちらかが遠慮しなければならない狭さだ。それをちょっと気にして、シェーンコップはヤンがこたつに入る時はいつもヤンの両足を優先する。
悪いなあと言いながら、ヤンはすっかりこたつの虜だ。
古いものだから、天板の電熱部分も、ちょっと膝を立てればすぐぶつかるくらいに出っ張っている。
「わたしのところのこたつもそうだよ。でもウチのは一応父さんとふたり用で、これよりは大きいなあ。」
こたつ板の、あちこち傷だらけだけれどきれいに拭かれて埃の見えない表面を撫でるヤンの手を、シェーンコップがさり気なく追い掛けてそっと握る。
そろそろ春の声は聞こえても、まだそうやって外に出している手は、指先が冷たい。そうして取ったヤンの手を、シェーンコップはこたつの中へ引き込んだ。
出逢って最初のこの冬、ふたりはまだ一緒には暮らしておらず、週の半分ずつくらいを互いの自宅に行き来して、けれどシェーンコップがこたつを出して以来、ヤンはほとんど団地に帰らなくなってしまった。
キッチンと一緒の広い居間は、もちろん冬はエアコンであたたかいし、大きなソファにふたりで一緒にいれば、寒いということもないのだけれど、何となく狭い──窮屈ではない──シェーンコップのひとり部屋に、こたつに入ってこもるのが心地良く、そうして自分たちの息でぬくまってゆく室温の加減が、ヤンには何だか懐かしいのだった。
おまけにシェーンコップは、これも中学と高校の頃のものだと言う、ずっしりと綿の重いはんてんを出して来て、ヤンの寒い背中を覆ってくれる。
こんな至れり尽くせりで、こたつから出たいと思う奴がいたら大嘘つきだと、ヤンはまたこたつ布団に頬すりしながら思う。
シェーンコップの住む家で、シェーンコップの部屋に行き、シェーンコップのこたつに入って、シェーンコップのはんてんを羽織っている。ヤンはもう、自分がヤン・ウェンリーと言う、シェーンコップから独立した人間だと言うことを忘れそうになっていた。
こたつって、魔物だなあ。
足から体中に伝わって来るぬくもりに、脳までとろけさせてヤンは思う。
シェーンコップの、丁寧に淹れてくれた熱い紅茶をすすり、そろそろこのこたつともお別れの時期かと思うと、春の気配がちょっと恨めしい気もした。
ここから一生出たくない。シェーンコップと一緒に、ずっとこうしていたい。
まだ、団地から引っ越す決心がつかないんだと、秋から言い続けて、けれどこたつひとつで、引っ越しはまだ決行せずに、ヤン自身はもうここに住んでいるも同然だ。自分の現金さに呆れながら、それでも自分の荷物をすべて引っ繰り返し、あれだこれだと選別して荷造りして、あの部屋を引き払って、完全にここの住民になる、と言う気持ちへはまだ至ってはいなかった。
時々ヤンは、シェーンコップが、私ではなくこたつの方がいいんですねと言い出しはしないかと心配して、そして現実にそう言われたら、思わずうんとうなずいてしまいそうな自分がいて、そんなことはないよ、わたしが大事なのは君だよと、はっきり言う場面を、何度も何度も頭の中で、訓練のように繰り返している。
本とこたつとどちらを選ぶかと問われれば、躊躇なく本と言うと思うのに、こたつとシェーンコップが並ぶと、ちょっと心の揺れるヤンだった。
そうして今は、ここでその両方を手に入れて、よく冷えたそうめんさえ美味く食べられるこたつのぬくもりに、もう少し溺れていたいと思っても、外にはもう桜の開花の声が飛び交い始めている。
「今日はここで食べますか。」
「え、でも──」
「カレーにしようかと思っているので。」
ここでは狭過ぎないかとヤンが思ったのを、シェーンコップが先読みする。カレーなら、大皿ふたつに水のグラス、それならここでも何とかなる。そうか、夕飯のためにここから抜け出て、居間に行かなくていいんだと、ヤンは隠してほっとする。
シェーンコップが大きな食卓を片付けて、ヤンとふたりだけで食事ができるように置いた小さなテーブルも、こたつに比べるとまるで砂漠だ。傍らに置かれた金魚の水槽はオアシスだけれど、眺めて体があたたまるわけではなかった。
ああ、わたしはひどい人間だなあ。金魚のカリンとユリアンに心の片隅で謝りながら、ヤンは一向にこたつから手も足も出す様子はない。
シェーンコップは、そんなヤンの前に、自分のタブレットを差し出して来た。
「こういう、椅子に坐って入る、背の高いテーブルのこたつもあるそうですよ。」
何やら見せて来る写真は、その説明の通り、いわゆるダイニングテーブルとこたつが合体した、ハイタイプこたつとかダイニングこたつとか名付けられたものだった。
へえ、とヤンは片手だけもそもそ出して、そのタブレットを受け取る。
「・・・でもこれ、寝っ転がれないなあ・・・。」
ヤンが素直につぶやいたのに、シェーンコップが声を立てて笑った。
タブレットを覗くヤンに額を寄せて来て、一緒に画面を眺めて、指先でそこをなぞって写真を変える。
「椅子も一緒に揃えるといい値段だなあ。買うとなったら、ちょっと決めるのに勇気のいる代物だね、これ。」
そこで一度言葉を切って、ヤンは上目遣いにシェーンコップを見た。
「君、欲しいの、これ。」
ふたりのあぐらの膝が、こつんとこたつの中で触れ合った。
「あなたが、あったかい方がいいかと思ったんですが・・・。」
わたしは別に、とヤンが言い掛けて、歯切れ悪く語尾をごまかした。タブレットをシェーンコップへ戻し、またこたつ布団に額から顔を埋めるようにして、
「わたしは、別にいいよ。君がいれば、十分あったかいよ。」
嘘ではない。今触れ合う膝からぬくもりが伝わって、それだけではなく、こたつはヤンのために熱量最大だ。おまけにはんてんも借りて羽織って、さらに熱い紅茶まである。これからカレーが出て来るそうだ。ヤンはここから身動きひとつせずに。
これで寒いと文句を言ったら罰が当たると、さすがのヤンも思った。
シェーンコップが、にやりとヤンに向かって唇の端を持ち上げ、それでもまだ新しいこたつの写真から目を離さない。
「このタイプでなくてもいいですが、でももう少し大きいのが欲しいとは思ってますよ。」
そう言ってシェーンコップが見せるのは、天板が長方形の、長い辺にはふたり並んで坐れそうなサイズのこたつだった。
ヤンは即座に、そこに肩を並べて入っている自分たちを思い浮かべて、正確にシェーンコップの意図を悟った。
「・・・ウチにあるのがこの大きさだよ。大き過ぎて出さなくなったけど。」
「もう使わないのですか。」
「うん、ウチの団地じゃ出さないよ。部屋が狭くなるし・・・。」
このサイズにひとりで入るのは少し虚しいと、本音は言わない。
不意にシェーンコップの顔が輝いた。きれいに整った顔立ちがそんな風に明るい表情を浮かべると、ほんとうにまぶしくて、ヤンは思わず目を伏せる。
「それならここに持って来てはどうですか。そうしたら食卓代わりにもできますよ。」
言いながら、何やらタブレットの画面をいじっている。
「もちろん、あなたが嫌でなければですが。」
「・・・嫌じゃないけど・・・何しろ古いこたつだから、まだ電源が入るかどうかも怪しいよ。」
「大丈夫ですよ、今はこういうものもありますから。」
太陽みたいな笑顔で、シェーンコップが再びタブレットを、ヤンの前に差し出して来た。
今度は一体何だと思ったら、電熱の部分だけがずらりと並んでいる。値段と送料の数字があるところを見ると、どうやら通販のサイトのようだ。
こんなパーツだけ買えるのか。ヤンは驚いて、またにやりと会心の笑みを浮かべるシェーンコップを見た。
この男には勝てない。絶対に勝てない。ヤンは思った。それでも無駄と分かっていて、もう一度悪あがきをした。
「いやでも、こういうのって交換するのは大変なんだろう。わたしたちは素人だし──」
「大丈夫です、交換作業の動画もあります。」
「動画?」
またタブレットを操作して、次にはこたつの電熱部分を、説明しながら取り替えている男の映像を流して見せた。
ヤンはゆっくりと降参の瞬きをし、こたつ板の上に顔を伏せて表情を隠す。
「・・・あなたももう観念して、こたつと一緒に、ここに来てしまったらどうですか。」
結局、言いたかったのはそれだと言う風に、シェーンコップが穏やかに言う。こたつの中で、そっと握られた手を、ヤンもそっと握り返した。
ヤンはこたつの布団にわざと声を吸い取らせて、もごもご返事をした。
「・・・春だし、いい区切りかもなあ・・・。」
ヤンの髪に、ごく軽く重みが掛かる。シェーンコップが、唇でそこに触れたのだと分かる。ヤンのために、カレーを少し甘くするこの男は、こたつの電熱器の交換くらい、さっさと片付けてしまうだろう。
ふたりでなら、季節の変わり目のこたつの出し入れもそのたびの掃除も、きっとそれほど面倒でもない気もした。
でも、とまだ往生際悪く、ヤンは首をねじって片方だけ顔を上げた。
「わたしのこたつが来たら、この君のこたつはどうするんだい。片付けてずっとしまっておくのかい。」
「市役所の不用品コーナーにでも出せば、多分引き取り手が見つかりますよ。」
「・・・君は、わたしの言うことに全部答えを用意してるんだなあ。」
ふふっと、シェーンコップが勝者の笑みを浮かべた。四角いリングの中で、試合の後にレフリーに高々と腕を上げられる時も、きっと同じ表情をしたのだろう。ヤンは素直にそれに見惚れた。
「何だか、また君に上手く言いくるめられたような気がするよ。」
「いやですか。」
いやじゃない、と少し間を置いて言ったヤンの頬が、こたつの中みたいに真っ赤だった。
● YJ ●
「来週辺り、これを片付けちまいましょう。」
向かいで味噌汁を軽くかき回しながら、シェーンコップが言った。
「うん、そうだね。もうあったかいし。」
もぐもぐ、口の中で米の飯を噛みながらヤンが言う。行儀が悪いと、シェーンコップが片方の眉をちらりと上げて見せた。
片付けると言うのは、今ふたりが入っているコタツのことだ。
ごく普通の、どこの家庭でも買おうかと思えばこのサイズだろうと言う、どこででも見掛ける平凡なコタツのこちらとあちらに向かい合わせに坐って、味噌汁と飯茶碗、酢の物の小鉢がそれぞれの前に、そしてふたりの間には、甘辛く味付けされた牛肉が、しらたきや白菜と一緒に山盛りになっている。
ヤンが大量の本とともに引っ越して来て、互いに長いひとり暮らしで、家具はすでにひと通り揃っていたから、新たに買ったものは何もなく、冬が近づいてから、ふとヤンが言った。
ここ、コタツある?
ないですね。あんたの荷物にもありませんでしたね。
きこきこ首が鳴る扇風機はあったけれど、コタツはなかった。
シェーンコップも、祖父母のいた頃からコタツには馴染みがなかった。椅子の生活が普通だった彼らは、座布団も滅多と使わず、けれどシェーンコップは、その丈高い体をソファや椅子に押し込めるのが実は苦手で、祖父母がいなくなった後は、椅子やテーブルは片付けて、ひとり卓袱台を使っていた。
コタツのある暮らしをしたことがなかったから、コタツを新たに導入すると言う考えも浮かばず、ヤンと一緒の冬が来て、ヤンがコタツはと言い出すまで、シェーンコップはいつもと同じに、この冬もエアコンと小さなストーブで過ごすつもりでいた。ヤンもそれで構わないだろうと思っていた。
買う? あんたが欲しいなら買ってもいいですよ。じゃあ買いに行こう。
事前に調べもせず、深く考えることもせず、最初に思いついた店に入り、いちばん安いのから3つくらい上のにさっさと決めて、それから、同じ店で布団も揃え、ふたりでえっちらおっちら車に運び、えっちらおっちら下ろして家の中に運び込み、中身を出して組み立てて、そうして、コタツの魔力にふたりで揃ってあっと言う間に堕ちた。
ふたりはもう、コタツのない冬など想像もできず、今まで人生を、一体どうやってコタツなしで過ごして来たのか、思い出せない有様だった。
背中がつい寒くなるから、揃いのはんてんを買い、コタツで鍋をするために小さなガスコンロを買い、そのために土鍋を新調し、けれど何より予想もしなかったのが猫たちだ。薄茶のカリンとシャムもどきのユリアンは、コタツの中から出て来なくなった。コタツに入ると根の生えるヤンよりも長い時間を、コタツの中で過ごしている。
そして三毛の雄猫の元帥──と、ヤンが名付けた──も、若い猫たち──と人間ふたり──がそこで悠々とぬくぬくライフをエンジョイしているのにつられてか、最初はこの新参の異物を威嚇して近寄りもしなかったのに、うっかり布団の中に顔を差し込んでしまったのを最後に、ここで余生を送るとばかりの勢いで、コタツを大親友にしている。
人間ふたりだけのつもりで選んだコタツは、さらに猫3匹を飲み込めるほど雄大ではなかった。
コタツの中で壮絶ななわばり争いが繰り広げられ、人間にもちろん勝ち目などなく、シェーンコップは早々に諦めてちょこんとあぐらの膝を差し入れるだけで満足することにし、ヤンの方は、話し合いの余地があるはずだと信じて、日夜コタツ布団をめくっては、ちょっとどいてよと、中でのびのびと体を伸ばす猫たちとの交渉に余念がない日々だった。
ある日シェーンコップが、ある工事の件で市役所へ足を運び、そこで発行されている新聞と言うのか市民報と言うのか、その紙面に、不用品譲りますのコーナーがあるのを見つけ、
「猫用に、もう1台置きますか。」
「・・・非常に現実的な解決策だね。」
そうして、ふたりと3匹の猫宅に、コタツがもう1台やって来た。
人間用のコタツより、ひと回り小さいコタツは猫たちにちょうどよく、猫たちは素直に元のコタツを人間たちに明け渡し、自分たちに与えられたコタツの方にゆっくりと移動して行った。人間の手に──あるいは足に──、再びコタツが戻って来た。
肉としらたきを一緒に箸の先に掴んで、
「そっちの、猫のコタツはまだ片付けないんだろう。」
ヤンが煮汁の滴るそれを米の上に乗せながら訊く。
「片付けない方がいいでしょうな。下手に布団をどけようとしたら凄まじく抵抗しますよあれは。」
「だろうね。」
コタツの中で、日々足を引っかかれ、爪先に噛みつかれ続けたヤンは、ちょっと視線を泳がせながらうなずく。
「このコタツ、ちょっと失敗だったなあって思ってるんだ。」
箸の先を口元へ寄せたまま、ヤンが珍しく暗い声でぼやいた。
「失敗って、何がですか。」
口の中の米をきちんと全部飲み込んで、シェーンコップは訊いた。
「ふたりで入ってこんなに窮屈だと思わなかったんだ。」
店で展示されているコタツには、試そうと思えば実際に中に入ってみることもできた。けれどふたりはそうせずに、写真や映画で見たことのあるコタツを思い浮かべて、これで大丈夫だろうとその場で決めてしまった。
ヤンの言う通り、ヤンひとりなら問題はないだろうけれど、シェーンコップにはひとりだけでも少し小さい気がする。けれどさっさと猫たちに占領されてしまって以来、中で足を伸ばすことなどもう考えもしないシェーンコップは、ヤンが足を伸ばせればそれでいいと、気にもしていなかった。
「床に直に坐るのだけじゃなくて、今時は椅子に坐るタイプのもあるんだろう。」
「へえ、そうですか。」
その手のことには疎いシェーンコップは、相槌だけ打って、また飯を口の中に放り込む。肉が少し甘かったか。次回はみりんを控えようと、頭の隅で考えている。
コタツを片付ける前に、もう1回鍋をしよう。ヤンが好きな魚の水炊きにするか。白身の魚は今は何があるか──。
猫たちが、自分たち用のコタツの布団から頭だけ出し、人間たち以上にぬくもりを謳歌している。
ずずっと味噌汁をすすりながら、ヤンは椀の縁越しに、頭と頭を寄せ合っているカリンとユリアンをじっと見ていた。
夕飯が終わり、ふたりで何とかコタツから抜け出し、皿を洗う。ヤンもシェーンコップも、ちらちらコタツと同化中の猫たちを見て、一緒に小さくため息を吐く。
ヤンを先にコタツに戻して、シェーンコップは紅茶とコーヒーを淹れた。
湯気の立つカップを手にコタツに戻ると、ヤンが何やらシェーンコップに手招きをする。何かと目顔で訊くと、カップを早くここに置けと目顔で返して来る。言われた通りにすると、ヤンはすくっと立ち上がってシェーンコップの方へやって来た。
「入って、早く。」
コタツ布団を持ち上げて、そこに足を入れろとシェーンコップをまた手招く。コタツに足を差し入れたシェーンコップの腰をまたいで、ヤンが首にかじりついて来た。
「言ったろう、狭いって。」
「そりゃそうでしょう。こんな坐り方するためのもんじゃありませんよ。」
ひとりが坐った上にさらにひとりが膝に乗るような余裕は、コタツでなくたってない。そう思いながらも、ヤンを無下にはせずに、シェーンコップは遠慮なく腰の辺りへ掌を添えた。
長々と、コタツの中で伸ばす脚の居心地が珍しくて、シェーンコップはヤンに気づかれないように、爪先をそこでうきうき振ってみる。すでに向こうの布団の端に、爪先が触れている。ヤンの言う通りだ、このコタツは、シェーンコップには少し小さ過ぎて狭過ぎる。
けれど、とヤンに触れた指先にそっと力をこめながら、シェーンコップは続けて思った。
狭さのせいで、こんなに近くヤンが自分の傍にいる。目の前で、ヤンの前髪がふらふら揺れている。悪くはない。
コタツを片付けてしまおうと言ったのは自分だ。そしてシェーンコップは、それを今ほんの少し後悔している。
猫たちが、あの中でくっついて出て来ない理由(わけ)がよく分かる。自分だってもうちょっと規格内のサイズなら、ヤンと一緒にコタツの中にもぐり込みたいと、シェーンコップは思った。
コタツでは無理でも、布団の中なら、と思いながら、自分のあごひげを撫でて来るヤンの唇の端に、偶然を装って触れた。
「紅茶、冷めちまいますよ。」
うん、と曖昧にヤンがうなずく。
「風呂、沸かしましょうか。」
また、うん、とヤンが浅く首を折った。
「今日はさっさと寝ちまいますか。」
今度は、うなずく代わりに唇がやって来た。
大きな、ふたりがゆったり入れるコタツもいいけれど、このふたりには少しばかり窮屈なコタツも、決して悪くはない。胸と肩が触れ合い、まだ紅茶もコーヒーも手は付けられず、唇はさっさと先走っている。
向こうのコタツの猫たちを見習ったみたいに、ゆっくりとシェーンコップを押し倒して、その上にぴたりと体を重ねるヤンは、毛づくろいまで見習って、シェーンコップの逆立てた髪の中に容赦なく両手の指を全部差し込んだ。
猫たちの寝息に、人間たちの立てる、湿った小さな音が重なる。
シェーンコップの爪先が、さっきヤンの坐っていた場所から飛び出して、何か文字でも書くみたいに、ずっと揺れ続けていた。