シェーンコップ×ヤン、キャゼルヌとユリアン

ある朝の風景

 交代制の勤務で、必ず誰かがいる体制とは言っても、朝はいつも慌ただしい時間だ。
 フィッシャーに確認したいことがあって珍しく司令室へ顔を出すと、所在なさげにユリアンが司令官卓の傍にいる。ギャゼルヌはコーヒーのマグと抱えた書類で塞がった両手のまま、そのまだ少年めいた背に近づいた。
 「何だ、お前の保護者はまた寝坊で遅刻か。」
 「あ、キャゼルヌ少将、おはようございます。」
 振り向いたユリアンは定規でも入ったように背筋を伸ばし、急に表情を改めて敬礼する。その場にいる他の参謀たちも、ユリアンの声でキャゼルヌの来訪に気づいて、ばらばらと挨拶の仕草を投げて来た。
 見慣れた顔ばかりなのに気を許して、キャゼルヌはそのすべてに、ただ書類を持ったまま軽く手を振って応えておいて、司令官卓の上に自分のコーヒーを置くと、何のためらいもなく司令官席へ腰を下ろす。
 要塞内で、ヤンを唯一呼び捨てにできる後方最高責任者のこの男にとっては、これはごく自然な振る舞いで、ヤンの行儀の悪い足使い同様、今では慣れ切った誰も気にする風もない。
 ユリアンが、ちょっと口ごもりながらキャゼルヌに言う。
 「寝坊ではないんです。昨夜ちょっと羽目を外し過ぎて帰宅が遅れたって、今朝着替えに戻られたんですが、その後まだ──。」
 「何だ愛息子を放って飲み過ぎて、無許可の外泊か?」
 「いえ、遅くなるよって連絡は下さいました。それに、別にお酒の匂いもしませんでしたから、飲み過ぎたと言うわけではないと思います。」 
 ふたりの会話に、他称風紀委員のムライが耳をそばだてているのを気にしてか、ユリアンがそう言うのを、キャゼルヌはやれやれと聞いて、まったくあいつはと、口の中で小さくぼやく。
 そのキャゼルヌへ向かって、ユリアンが内緒話をするように体を傾けて来て、小声でそっと訊いた。
 「あの、少将──お酒の匂いって、香水でごまかせるんですか・・・?」
 キャゼルヌはユリアンに合わせて、周囲をはばかって声の音量を落とす。
 「香水? あいつの飲み方じゃ無理だろう。あいつはうわばみだからな。酒となると底なしの鯨だ。第一あいつがそんなものつけてたら、不自然極まりないな。誰だってすぐ気づくだろう。」
 ですよね、とユリアンが、まだそうするには幼い顔立ちで、いかにも心配げにきれいな眉を寄せた。言ってしまうと黙って抱え込んでいるのに耐えられなくなったのか、そのままユリアンの言葉が続く。
 「提督、最近、時々いい匂いがするんです。コロンなんかお持ちじゃないのに。シャンプーだって僕と同じものだし・・・もしかして、僕があんまりお酒のことをうるさく言うから、隠れてそんなことをって思ったんですけど・・・。」
 小声で言うのがほんとうに不安そうで、こんないい子にこんな顔させやがってと、ヤンに対しては年上の、兄と言うよりはもう父親の気持ちに近いキャゼルヌは、どうも真剣に悩んでいるらしいユリアンの話をゆっくり聞いてやらなければと、手にしている書類と、朝一番にここに来た目的のことをすっかり脇に置いて、ユリアンをカフェにでも連れて行くかと腰を上げ掛けた。
 そこに、当の噂の本人が、寝癖のままかと思う相変わらずまとまりの悪い髪に、上着すらまだ着ずに、ネクタイをもたもた締めながらやって来た。ヤンの上着は、隣りを一緒に来るシェーンコップの手にあり、まだ巻いていないスカーフも一緒に、彼が持っている。
 キャゼルヌには敬礼した参謀たちは、まだ身支度中の司令官の登場を見て見ぬ振りし、いかにも自分のことに忙しいと手元へ再び視線を落として、ヤンの登場を折り目正しく無視する空気が流れた。
 皆が黙っているところでヤンへ声を掛けるのをためらってか、ユリアンも無言でヤンがこちらへ向かって来るのを見ている。
 シェーンコップはヤンの肩を引いて足を止めさせると、ヤンの手をほとんどそこから払うようにして、自分がヤンのネクタイを最初から締め直し始めた。ヤンはそうされながら、面倒くさそうに髪へ指を通し、一応や手櫛でましにしようと努力の様子は見せる。
 そこのふたり、そんなことは部屋でやって済ませてから出て来いと、その場でそれを目にした全員が思った。思わなかったのは多分ユリアンだけだった。
 シェーンコップは慣れた手つきでヤンのネクタイを結び始めたけれど、他人のをそうするのには慣れていない──ほんの少し、安堵したような空気がその場に流れた──のか、結び掛けたのを再びほどき、わざわざ膝を折ってヤンと背の高さを合わせて、首元へさらに顔を近づける。
 「少将──。」
 それは、今度はそこへいるシェーンコップへの呼び掛けで、ユリアンは小走りにふたりへ駆け寄ると、
 「僕がやります。」
 きっぱりとふたりの間へ割り込んで、シェーンコップの手からヤンのネクタイを取り上げた。シェーンコップは素直にユリアンに場所を譲って、けれどちょっと意地の悪い監視の視線をユリアンの手元へ当てるのは、この男には珍しく大人げない態度だった。
 さすがにユリアンは、ヤンのネクタイを結んでやるのに慣れていて、ヤンが自分で結ぶよりも2倍早く、そして4倍きれいに結び終わって、シャツの前に馴染ませることさえしてから、次は当然のようにシェーンコップへ手を差し出し、次に巻くスカーフを受け取ろうとする。
 「いいよいいよ、それは自分でやるよ。」
 ヤンが、まだ少しぼんやりした声で言うと、
 「ここには鏡はありませんよ、ヤン提督。」
 「鏡がなくたって、スカーフくらい巻けるさ。」
 息子に言い返されて、さすがに養い親の権威を取り戻したいのか、シェーンコップの差し出すスカーフを取り上げて、ヤンは、これ以上ないほど完璧に整えられたネクタイを、くしゃくしゃのそれで覆って台無しにする。こんなことをヤンにされてむっとしないのは、恐らくこの銀河でユリアンだけだ。
 流れ作業のように、次にシェーンコップがヤンの背中へ向かって上着を広げる。ふたり掛かりで司令官の朝の身支度を終了させて、ヤンはありがとうと、ふたりともへ言う。
 やれやれ終わったかと、皆が朝の勤務の空気へ再び溶け込もうとした時、どんな時も空気を読まないシェーンコップがヤンの頭へわざわざ両手をやり、ヤンが極めて適当に、直したつもりの髪を、改めて整え始めた。
 ヤンの手に掛かるよりはましだ。確かにそうだ。けれどそれは、今この場ですべき振る舞いなのかと、ムライでなくても誰もが思った。キャゼルヌも含めて。
 「髪はちゃんと乾かさないと風邪を引きますよ閣下。」
 「いちいちうるさいな、貴官は。」
 シェーンコップから、最後にベレー帽を、奪うように取って、けれどまだ頭には乗せずにヤンはちょっとシェーンコップを睨み、それから、自分の方が子どものように、ユリアンへ向かって肩を縮めて見せる。
 さて、とヤンは不意に背中を伸ばし、やっと司令官の顔つきになると、ユリアンへ向かって紅茶をと頼むために口を開こうとした。
 それより一瞬早く、シェーンコップがユリアンの肩を引き寄せて、むやみに大きな声で言う。
 「坊や、これから一緒にローゼンリッターの訓練に行くか。」
 「え、僕が行ってもいいんですか。」
 ユリアンの瞳が輝き、ついさっきまでヤンの保護者はどっちだと言う風だったのに、すっかり少年の貌(かお)に戻って、もうユリアンの目には、自分の肩に乗り掛かるローゼンリッター元連隊長の顔しか映っていない。
 「訓練はいいが、あんまり無茶はしないでくれよ少将。」
 「司令官閣下の大事なご子息ですからな、丁寧にご指導差し上げますよ、ご心配なく。」
 シェーンコップは見慣れた人の悪い笑みで答え、家の外でだらしない姿を見せた照れ隠しか、ヤンはシェーンコップの申し入れを明らかに喜んでいるユリアンに、だめだと言うことができず、頭をかきながらふたりの傍を離れた。
 「おはようございます先輩。」
 自分の坐るべき席にいるキャゼルヌへ、気を悪くした風もなく、ヤンが気の入らない敬礼をわざわざして見せる。
 「また飲み過ぎて家に帰らなかったのかお前は。」
 「ええ、まあ・・・。」
 歯切れ悪くヤンは答え、ちらりと見る後ろで、ユリアンとシェーンコップがまだそこで何やら楽しそうに話をしていた。
 「あっちの方が、親子みたいですね・・・。」
 頭をかきながら、ぼそりと言う。キャゼルヌはかすかに眉を上げ、椅子の背越しに、ヤンの見ているふたりを見る。ヤンの言う通り、ヤンとユリアンが親子だと言う不自然さは、ユリアンとシェーンコップのふたりならやや軽減され、あのふたりなら母親似の息子にずいぶんと若い父親で、通らないこともないだろう。
 それはもちろん外見だけの話で、実際にユリアンは、ヤンを父親として唯一絶対の存在と捉えている。それは誰の目にも明らかだった。
 若い見掛けのヤンでは、ユリアンの父親を名乗ってそれを周囲に信じさせるのに、時々骨の折れることがある。書類の上では養子なのだとしても、ヤンはもうユリアンを、実の子のように感じていて、それにしては父親として頼りなさ過ぎると、言わずに反省してはいるのだった。
 「心配するな、ユリアンが親と思うのはお前さんだけだ。もうちょっと歳を取れば、りっぱにユリアンの父親に見えるようになるさ。」
 「だといいんですが。」
 長い付き合いの、ユリアンとの繋がりの発端のキャゼルヌにそう言われれば、ヤンも少しは安心して、満更でもない笑みを取り戻すとやっとベレー帽を頭にきちんと乗せて、完全に仕事の気分へ切り替える。
 それを見て、キャゼルヌはヤンに言うつもりだった小言を今はひとまず飲み込んで、それはまた別の機会にと、場所を譲るためにやっと椅子から立ち上がった。
 「お前さんと付き合って、おれは老けるのが早くてかなわん。オルタンスに心配されてるんだぞ。」
 ちくりと釘を刺すつもりでそう言って、入れ替わりに椅子に坐るヤンの肩に、キャゼルヌは手を置いた。ヤンがいつもの、邪気のない笑顔で自分を見上げて来るのに笑みを返して、その時、首筋に、ひやりと冷たい刃物の感触を覚えた。
 何だと思わず首筋へ手をやりながら視線を移すと、すいとシェーンコップが自分から顔の向きを変えるところだった。
 ユリアンの肩を抱いて、大きな背中が去ってゆく。
 あの男に睨みつけられたのだと悟って、キャゼルヌは似合わない仕草で、ちょっと肩を震わせる。
 「どうかしましたか、先輩?」
 「いや、何でもない。ヤン、お前、今夜はちゃんと真っ直ぐ家に帰れよ。」
 「はい、そうします。」
 ヤンが素直に答えた。
 とりあえず、ユリアンはこれで大丈夫だろうと思いながら、キャゼルヌはかすかに自分の身に不安を感じて、けれど警護を頼むとすればローゼンリッターになると言う矛盾──恐怖──に、さらに髪の白くなるような心持ちになる。
 やれやれ。一気に10も老けたような気分を味わって、その時ユリアンが、抱き寄せられて近づいたシェーンコップの首筋から、近頃ヤンが使っていると思ったコロンと似たような香りがするのに、不確かながらどこかで何かが結びついて、静かに突然に大人の階段を1段登ったのを、キャゼルヌがまだ知らずにいるのは、ユリアンよりもずっと幼い娘たちの父親である彼にとっては幸いだったろうか。それは恐らく、ヤンにとっても。
 シェーンコップとユリアンが消え、キャゼルヌが去り、紅茶をくれないかと言うヤンの声が、この場の誰の気も知らずに、ただ長閑に司令室へ響いた、そんな朝の風景だった。

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