シェーンコップ×ヤン
* みの字のコプヤンさんには「笑ってください」で始まり、「風が僕の背中を押した」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば2ツイート(280字)以内でお願いします。

吹かない風

 「笑って下さい。」
 突然シェーンコップが言って、くつくつ喉の奥で先に笑い声を立て始める。
 ヤンは口元へ運び掛けていた酒のグラスを途中で止めて、やっぱり酔ってるなと、そう言ったシェーンコップの方をちらりと見た。
 飲み方はいつもの通りだった。けれど少し疲れているようだと思ったその通り、酔いの回り方の少し早いようで、ヤンはそろそろ今夜は終わりにしようと、声を掛けようかと思っていたタイミングだった。
 だらしなくソファに手足を投げ出し、上着は飲み始めた最初に脱いでしまい、スカーフもどこかへ消えている。ネクタイだけはまだそれなりにきっちりと締めたまま、けれどそこから上がった酔いの色が、ネクタイのせいで余計に目立って、ヤンは飲みながら、その辺りへ目を凝らしていた。
 声は、酒で少し割れていても、しゃべり方はきちんと明瞭だ。さて、この会話を明日本人は覚えているものかどうか、ヤンは内心訝しんで、黙ってシェーンコップが話すのを聞いている。
 「帝国にいた頃に、ずっと一緒にいた、ぬいぐるみのくまがいましてね。」
 突然何かと思えば、まだ笑いを含んだまま、ぬいぐるみと来た。ヤンは目を丸くし、この男の声で聞く、ぬいぐるみのくま、と言う言い方の可愛らしさに、喉の奥に突然酒の苦さが蘇って来るような気がした。
 「くま?」
 「ええ、子どもがよく抱えている、何の変哲もない、ごく普通のぬいぐるみのくまです。」
 ヤンが驚いているのに気づいているのか、シェーンコップは可笑しそうに、またぬいぐるみのくまと繰り返した。
 グラスを持った方の手を軽く振り、すぐそこにそのぬいぐるみのくまとやらがいるみたいに、ヤンの方へ指差して見せさえする。
 「茶色で、首に赤いリボンを巻いて、私が生まれた時に誰かからの贈り物でもらったそうですが、誰からかは覚えていません。私はそのくまを気に入っていたようで、帝国にいた頃の写真には必ず一緒に写っていました。」
 「へえ、その写真、まだ持ってるのかい。見てみたいな。」
 ヤンがそう訊いたのは、単なる会話の続きだった。けれどシェーンコップは、笑みの色を一瞬複雑にして、
 「同盟に来る時に、全部置いて来ましたよ。」
 できるだけさり気ない風に言っても、ヤンの耳にはきちんとすべてが届き、ヤンは隠せずしまったと言う表情を浮かべて、それをまたちょっと可笑しそうに、シェーンコップが軽く笑い声を立てた。
 それから、すっとヤンから視線を外し、どこを見ているとも知れない目つきで、笑みを浮かべた唇のまま、
 「そのくまもです。持って行けるのは最低限の着替えだけと言われた荷物には入りませんでね。」
 祖国を去ると言うのは、そういうことだ。何もかもを捨ててゆく。置き去りにしてゆく。そこで過ごした時間のすべてを、忘れ去るように、手からすべてを落としてゆく。
 ぬいぐるみを持っていた、ではなく、くまがいた、とシェーンコップがそんな言い方をしたことにも気づいていて、酔いのせいなのかどうか、珍しく心の柔らかい部分を見せるシェーンコップの、心の中にまだいるに違いない彼の子どもの姿へ目を凝らすように、ヤンは、痛ましげにも見える風に、かすかに目を細めた。
 「こちらへ来た時、色んな物を恋しいと思いましたが、夜寝る時にはいつも、そのくまを連れて来れなかったことを後悔しましてね・・・もちろん、6歳の子どもに、その時言い分を通す力なんぞありませんでしたが、それでもかばんの底にこっそり入れて来ればよかったとか、着替えなんか諦めればよかったとか、今さらどうしようもないことをひと晩中飽きもせずに考えて・・・考えて・・・。」
 そこでやっと、まだ酒を手にしていることに気づいたように、シェーンコップは視線をさまよわせたまま、琥珀色の液体をひと口すすった。
 ヤンはもう、酒のグラスはそこに置き、シェーンコップの昔語りだけを聞いている。声の調子が低まり、通りの良さは昼間と同じに、けれど響きの落ちたそれは、ヤンの耳にだけそっと届く。それを、ヤンはひと言も聞き漏らすまいと、じっと聞いている。
 「もっとも、厳しい荷物検査で、帝国の物は子どもの着替えさえ持ち込ませるのを渋る風でしたから、あのぬいぐるみもどうせそこで取り上げられていたかもしれません。そうなっていたら私は、きっと同盟政府をひどく憎んだでしょうね。」
 そうだったらきっと、軍隊になど入らなかった、と続かなかったシェーンコップの言葉を、ヤンは聞き取っている。
 軍人にならない方が、君にとっては良かったのかな、どうだろうな、シェーンコップ。ヤンも、言葉にはしなかった。
 置き去りにするしかなかった、くまのぬいぐるみ。6歳の子どもの幼馴染みだった、くまのぬいぐるみ。ワルター・フォン・シェーンコップと言う、恐ろしく有能な軍人を同盟側に生み出してしまった、くまのぬいぐるみ。
 歴史と言うのは、ほんの些細なことで変わってしまうものだ。イゼルローン要塞を同盟が落とせたのは、帝国製のくまのぬいぐるみのおかげだと、報告書のどこかにでも書き残しておこうかと、案外冗談でもなくヤンは考え、少なくともヤン自身はそのことを覚えておく気でいる。
 「ボタンの、真っ黒な目で──」
 明らかに今は酔いの回った声で、シェーンコップはくまの話を続けていた。
 ヤンは、手でくまの形と大きさを示して見せるシェーンコップの手から、そっと酒のグラスを取り上げ、話し続けるシェーンコップの頭をそっと自分の胸元へ抱き寄せ、柔らかい──きっと、そのぬいぐるみのくまみたいに──髪を撫でる。
 「貴方と同じ、黒い目だったんです。」
 それが言いたかったのだと言うように、ヤンにしがみつきながらシェーンコップがぼそりと言った。
 同盟に来て、シェーンコップの得たもの。失わなければ得られなかった、大切なもの。喪失の痛みと辛さを、消しはしない、けれどやわらげてはくれるもの。
 黒い瞳。宇宙の闇色の瞳。帝国を去り、同盟領へ向かう6歳の子どもが、ずっと見つめ続けていた、宇宙の色。決して希望ではなかったそれが、今は生きる糧になり、そしてそのためにこそ、シェーンコップは今生きたいと希(ねが)っている。
 貴方のために。ヤンはその声を確かに聞き、まだ6歳にならないシェーンコップが、夜の暗さと長さに耐えるためにそのくまを抱きしめたと同じように、今シェーンコップを抱きしめている。
 子どものシェーンコップが、つぶやいている。感情の色のない、喜びとも悲しみとも淋しさとも見極められない声音で。
 ──同盟の風が、ぼくの背中を押した。
 どういう意味なのかと、ヤンは聞き返さなかった。その風に押されて、自分の腕の中に飛び込んで来たこの男を、どこにもやる気はなかったから。
 夜の長さを分け合えるふたりは、もうその昏さに脅かされることはなく、だからシェーンコップにはもうくまのぬいぐるみは必要はない。それでも今も残る、恋しいと言うその気持ちごと、ヤンはシェーンコップを抱きしめていた。
 宇宙には風はない。吹かないその風の音に、ふたりは一緒に耳を澄ませている。

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