シェーンコップ×ヤン、6/1
* みの字のコプヤンさんには「たったひとつ欲しいものがあるの」で始まり、「帰り道は忘れた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば10ツイート(1400字)以内でお願いします。

川渡り

 たったひとつ欲しいものがあるの、そんな風に、ベッドでねだられたことが何度かある。へえと微笑んでそのままそう言った唇を塞ぎ、ごまかしてしまうのが常だった。
 まったく同じ台詞を、まさか自分が言うことになるとはと、シェーンコップは苦笑する。
 死んでも怪我の痛みは消えないものなのか。力の入らない足を引きずるように歩きながら、全力で駆けてゆくつもりだったのにと、さらに苦笑を刷く。
 背中に深く大きく開いた傷から、まだ止まらず流れる血が、自分の後ろ姿を血まみれにしているのをシェーンコップ自身は見ることができず、けれど残す足跡が真っ赤なのを、何度かちらりと見て確かめた。
 ああ、死んだのも無理はない。こんな出血では。
 その赤い足跡が、もっと濃くたっぷりとした血だまりを思い出させる。人ひとり溺れ死ねそうな、もう表面の固まり掛けていた、土砂降りの後の水たまりのようだった血だまり。
 シェーンコップの両腕を大きく開いた広さには足らないその血だまりが、けれどシェーンコップには踏み入れば即座に全身の沈む、深い海のように見えた。
 その血だまりで、溺れるようにして死んだヤン。それはヤンの流した血だった。他の誰の血も混じらない、ただヤンだけの血。
 薄暗い、埃っぽい細い通路の隅にできたその血の海を、シェーンコップは飲み干してしまいたいと思った。そこへ犬のように這いつくばり、顔を伏せ、鉄錆の匂いにむせながら、痕跡ひとつ残さず、ヤンの血をすすって飲んで、それを消し去ってしまいたいと思った。
 ヤンが死んだのだと言うあかし。それを消せば、ヤンが死んだことも、なかったのことになるのだと、頭の片隅でぼんやり信じていた。
 傷が痛み、長い時間振り回しつづけた腕の筋肉も、きしんで悲鳴を上げている。後どれだけゆけば、そこへ着けるのだろう。
 ヤンが、そこで自分を待っていてくれているとも分からないのに、足を引きずって歩きながら、シェーンコップはかすかに微笑んでいる。
 シェーンコップの、たったひとつ欲しいもの、今それを求めて、シェーンコップは前に進み続けている。
 いや、こちらは前なのか、後なのか、上なのか下なのか、方角など定かではなく、ただ足の進む方へただ進んでいるだけだ。
 まるで手繰り寄せられるように、シェーンコップはそれが正しい方だと知る術もなく、力の入らない足を踏み出し続けている。
 シェーンコップは確信していた。ゆく方へヤンがいて、自分を待っていてくれるのだと。
 やあ、もう来たのかい。早過ぎるじゃないかシェーンコップ。
 困ったように、あの微笑んでいるとも読み切れない、かすかな表情を浮かべて、あちこち跳ねた黒髪をくしゃくしゃかき回しながら、戸惑いながら見せるべきなのは、淋しさなのか悲しみなのか、あるいは喜びなのか、迷ってどれも選べないと言った風の、元上官の姿を、シェーンコップまるで今そこにいるように思い浮かべることができた。
 その脚の傷は、まだ痛むのですか閣下。
 疼く自分の背中の傷の痛みに、シェーンコップはヤンのことを想う。血は止まったのか。傷は塞がったのか。死んだ時の姿のままで、今も貴方は痛む傷を見下ろしているのですか、ヤン提督。
 貴方の、血まみれの足跡は見当たらないのですが、私が見逃してしまったのでしょうか。それでも貴方の匂いは分かる。まるで犬のように、貴方の残した匂いを追って、私は貴方の元へゆくのです。
 犬のように、力強く駆けてゆくことはできなかったけれど。
 いよいよ流れる血がもうなく、シェーンコップの足跡は少しずつ薄れ始めていた。同時に、背中の傷の疼きも薄まったような気がして、それは気のせいなのかどうか、シェーンコップは相変わらず、みっともなく全身を引きずるようにして歩き続けている。
 力の入らない体で、シェーンコップはけれど、ヤンのことを考え続けている。
 あの傷があのままなら、まず手当てをしなければ。歩きにくいとぼやくヤンに手を貸して、一緒に歩けばどこにでも行けるだろう。ヤンに自分の腕を取らせ、そうして肩を並べて歩く。ヤンに合わせてゆっくりと。そうするふたりの背後に、血の足跡は残らない。
 何もない自分たちの後ろを振り返って、シェーンコップは考えるのだ。自分たちの戦争は終わったのだと。もう、戦うことを考える必要はなくなってしまったのだと。
 そうして、私たちは生きて行けるのです。
 死んでしまっていますがね、とシェーンコップはうっそり嗤った。
 死人同士でもいい、地獄の底でもいい、貴方とともにいられるのなら。
 いつの間にか、痛みと疲れに丸まっていたシェーンコップの背がやや伸びて、ヤンの死んだ通路のように薄暗かった辺りへ、少しずつ光が満ち始めている。
 もう来てしまったのかい、シェーンコップ。
 ヤンの声が聞こえたような気がした。
 自分に向かって、戸惑いながら伸ばされる手。おいでと、迷子だった飼い犬を手招く、飼い主のその手。
 シェーンコップは弾かれたように、駆け出した。全身で跳ねるように、その手へ向かって走り出した。
 動かす体から流れる血はなく、そして一瞬で、シェーンコップの中から、あらゆる憂いと煩いが消える。
 同時に、帰り道は忘れたシェーンコップは、忘れたと言う感覚もなく、久しぶりに浮かべる顔いっぱいの笑みで、ただ駆けてゆく。振り向く後ろは、もうなかった。

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