DNTシェーンコップ×ヤン

Raw Deal 2

 上へ、ヤンが提出する報告書のために、シェーンコップに作戦実行時の詳細を教えてくれと頼んでいた書類は、驚くほど分かりやすくまとめられて、ハイネセンへ戻るより早くヤンの手元へ届けられた。
 ヤンが説明を求める箇所など見当たらず、何もかも過不足なく描写され、これで帝国語も母国語として使えるのだからなと、ヤンは書類の最後、シェーンコップの署名へたどり着いて、自分の文才のなさを恥じるようにすでにくしゃくしゃの髪を指先で更に混ぜる。
 これはこのまま提出してしまうかと思って、けれどひとつだけ、いやふたつ、そのまま流せば済むのになぜかシェーンコップに直接問いたいことがあって、ヤンはシェーンコップを自分の、仮の執務室へ呼び出す。
 礼儀正しくやって来た彼は、ドアでまず立ち止まり、入室のために敬礼して見せ、わざとかどうか、緩めたネクタイの襟元はいつも通りだった。ヤンはそれに、安堵混じりの苦笑をこぼした。
 「報告書は問題なかったよ。わたしが書くよりよっぽどいい。このまま上に出したいくらいだ。」
 それはそれはと、上官の世辞──ヤンは本気のつもりだった──を片頬だけの薄笑いで受け流して、で、とかかとの間を少し開いて、シェーンコップはわずかに姿勢を崩す。
 「質問はふたつ。ひとつは君の署名だが、君はいつも帝国式の綴りを使うのかい。」
 シェーンコップの、形良く上がった眉が、わずかにさらに吊り上がり、何だ気づいたのかと言う表情をその端に刷いて、薄笑いは一瞬で消え去ってしまった。
 同盟軍内では、帝国語のままの綴りは大抵嫌われ、ことにローゼンリッターのような、最初から裏切り者扱いの隊員たちがそんなことをするのは、そのまま真っ直ぐ同盟への反抗的態度と受け取られると言うのに、あえてそうするのは、踏みつけにされている亡命者の抵抗のようなものかとヤンは理解して、問い詰めるのではなく、ただ穏やかに質問したつもりだった。
 はい、とやや固い表情でシェーンコップはうなずいて、それきり特に説明も続かないし、ヤンへも質問の目的を問いもしない。
 帝国語の使用を敵視するくせに、亡命者たちやその子孫がでは同盟式に改名しようとするのはまた気に入らず、同盟人の振りをする元帝国人と言う新たなレッテルを用意して、どちらにせよ常に斜めの視線に晒される彼らの立場に変わりはない。
 そんな同盟軍と同盟政府の態度に、姓の先に来る自分の名前の表記にいまだこだわるヤンも思うところはないでもなく、ささやかな反骨精神と言うヤツかなと、その結果は決してささやかではないはずの、亡命者であるシェーンコップへ上目の視線を投げて、ヤンはふっと柔らかく微笑んで見せた。
 包み込むようなヤンの微笑に、シェーンコップは虚を突かれたようにちょっと肩を後ろへ引き、不審の形に眉がまた上がる。
 構わずヤンは次の質問をした。
 「もうひとつ、報告書の中に、君たち側の損害として、万年筆が1本と書いてあったが、損害額が評定不可と言うのは──?」
 シェーンコップは背中の後ろに両手をやり、ちょっと胸を反らすようにした。今も胸ポケットに入れているその万年筆が、やや伸びた上着に押されて、シェーンコップの胸へ丸みを帯びた形を伝えて来る。
 「古いものですので、いくらかと訊かれても困る、と言うことです。」
 私物の損害をわざわざ報告書に含んだのは、明らかにシェーンコップの──ヤン個人に対してではない──嫌味だ。どうせ読み流されるだけに決まっているし、そんなもの知ったことかと言うのが軍の態度と分かり切っていて、だからこそあえてそこへ加えたのを、まさかヤンがわざわざ取り上げて質問して来るとは予想もせず、シェーンコップは背筋を無理に伸ばし、見た目とは裏腹にほんとうに油断のならない人だと、そうこぼしたいのを喉の奥で飲み下す。
 「だが、帝国側のボディチェックを通ったと言うことは、同盟製のものではないんだろう。帝国から持って来たものなら大切なものじゃないのかな。」
 あの万年筆のことは、ただ万年筆と書いただけで、どういう素性のものか説明はしなかった。報告書を読み込めば、その程度は思い浮かぶことだろうけれど、作戦実行部隊の隊長とは言え、大佐ごときの報告書を、艦隊司令官であるヤンがそこまできっちりと読んでいることに、シェーンコップは内心で驚いていた。
 あれはただの万年筆だ。あれに価値を見出すのは、もうこの世ではシェーンコップだけだった。いくらかと問われても、それは金銭に表せるものではない。
 5秒前まで、説明する気など毛頭なかったのに、シェーンコップは自分を見つめるヤンの瞳に、その万年筆を手渡してくれた時の祖父の、自分をワルターと最後に呼んだ優しい声を思い出して、この年若い司令官が陥落させたのが、イゼルローン要塞だけではなかったことを今思い知っている。
 シェーンコップはあごの辺りが、らしくもなく強張っているのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
 「祖父の形見です。ペン先が壊れてしまって、もう字を書くのには使えませんが、見た目には問題ありませんので──」
 「じゃあ、とても大事なものじゃないか。」
 珍しくヤンが、遮るように声を高くした。
 デスクの大きさのせいでさらに薄く見える体を、シェーンコップの方へ乗り出して来て、
 「修理はできないのかい。」
 「できるかと思いますが、帝国製の部品は手に入らないでしょう。」
 ああ、そうか、とヤンの眉が下がる。
 作戦中に敵を虐殺する羽目になり、それを心底厭う同じ気持ちで、ヤンが、シェーンコップの、壊れてしまった万年筆のことを気に掛けている。
 底抜けのお人好しだなと、シェーンコップは呆れた。
 たかが万年筆じゃないか。しかも、この作戦で初めて一緒になった、どこの馬の骨とも分からない、軍の持て余し者で跳ねっ返りの亡命者の、もしかするとじきに元部下である赤の他人になる、一(いち)大佐の私物の。
 そうだ、確かにシェーンコップは、この作戦のために命を投げ出す覚悟だった。そう簡単に死んでたまるかと思いながら、作戦成功のために死ぬならそれでもいいとも思った。この男の立案した作戦のために、ローゼンリッターが必要だし、ローゼンリッターを信じると言い切ったこの男のために、シェーンコップは確かに死ぬ覚悟だった。
 生き延びるためなら、同盟など二束三文で売り飛ばしてやると、そううそぶくのは決して虚勢でも誇張でもなかったのに、この男のためには、そうしたくないとシェーンコップは思った。自分を信じると言った男のために、それなら自分も信じてみようと、そうして筋を通そうと、思ったのは、この宇宙と同じ色の瞳の、奇妙な静けさのせいだったのかもしれない。
 もう死ぬまでの日を数えた方が早かった祖父が、孫である自分を見つめたのと同じ優しさの色のを浮かべた、この男の瞳。こんな風に見つめられたことは、長い間なかった。
 君を信じる、君を死なせたくない、その瞳は雄弁に語り、さっさとくたばれとばかりに、稚拙で理不尽な作戦にばかり参加させられていた自分たちを、できるだけ死なせないために、この男は作戦を立て、最後の最後まで、より安全な方法はないかと知略の詰まったその頭を絞っていた。
 まったく、貴方と言う人は──。
 シェーンコップは軽くうつむき、自分の爪先に向かって苦笑を落とす。
 「帝国軍人の振りをするのに帝国製のものが必要かと、持って行ったまでです。おかげで作戦は成功、我々も全員無事、祖父もさぞかし喜んでいることでしょう。」
 シェーンコップが、ほんとうに何でもないように言うのに、ヤンはまだ納得し切れないように、浮かない表情を消さない。
 シェーンコップは一応はずっと伸ばしていた背筋を不意にゆるめ、腰に手を当てて、空いた方の手を大きな動きで顔の前に上げて見せた。
 「ではこうしましょう、閣下。」
 どちらが部下か上官が分からない声音と動作で、シェーンコップがいかにも仰々しく言う。
 「私がやった、例の更衣室での無礼をお許しいただく、それでいかがですか。我が隊員が働いた、グリーンヒル中尉どのへの無礼もそれでご勘弁いただけたら、二度と祖父の形見の件は持ち出さないとお約束します。」
 いつもの不遜の態度を取り戻して、シェーンコップはいかにも譲歩してやっているのはこちらだと言う風に、やや高圧的に提案した。
 作戦中の私物の損害──たかが万年筆1本──と、下手をすれば上官侮辱罪で軍法会議ものと、同じに並べる非常識はもちろん承知の上だ。シェーンコップから受けた侮辱と比較して、ヤンがこれで怒れば、お互い気が楽になる。シェーンコップがわざと祖父の形見と言ったのを、そう期待した通りにヤンは聞き取って、眉の間を少し昏くした。
 ロッカーの中の闇と、軍服のこすれ合う音を思い出し、シェーンコップも束の間、わずかに眉を寄せた。害するための接近でもなく、親愛のためのあの近さでもなかった。上官面でこちらを小突き回すなら、それ相応の覚悟で来いと、そう思い知らせておきたい気持ち半分、自分たちをできるだけ死なせたくないと言った、ヤンの真意を探る目的が半分、そしてあの時すでにヤンを信じ始めていた自分に対する、ブレーキのためのような、落ち着かない気分が、ごくごく微量ではあったけれど確かに存在していた。
 あの気持ちが、祖父の万年筆を武器として使うことを思いつかせたのだと、シェーンコップはたった今悟って、ああそうかと、突然腑に落ちた音を、胸の奥で聞いていた。
 ヤンはため息をひとつ小さくこぼし、そうしよう、とつぶやく。
 「大切な形見に値段はつけられない、君の言う通りだ。損害額云々は、わたしが提出する報告書からは削っておくよ。だがわたしは忘れない。わざわざありがとう、ご苦労だったシェーンコップ大佐。」
 取引の不公平さに気づきもしなかったように、ヤンはまるでシェーンコップの申し出に感謝でもしているように再び微笑みを浮かべ、シェーンコップは一瞬、ヤンが忘れないと言ったのが、祖父の万年筆のことではなく、自分の振る舞いのことかと思った。
 もういいよと、ヤンが手を振る仕草が、よく見慣れた自分を追い払うそれではなく、親しい人と人がそうして軽い別れの挨拶に使う動きと分かると、シェーンコップはふた拍、混乱した気分に陥り、なぜかすぐには立ち去りがたい気持ちに襲われて、あのロッカーの中で無理矢理に作り出した手荒な近さを、また手元に引き寄せたいと思った。
 この、ヤンとの間にある大きな机を飛び越えて、乱暴に腕を取って椅子から引き上げたらどんな顔をするだろう。そうすることは身体的には可能だ。けれどそんな荒々しい行為も、この宇宙そのもののように深く黒く静かな瞳を、揺らすことはできないだろうと、シェーンコップは思う。
 自分の使えるすべての手段は、この男の心には一向に響かない。それでも、自分が死なず、誰も傷つかずに作戦が成功したことを素直に喜んだ時の、ヤンの、淡くではあっても確かにあったその色を、シェーンコップは憶えている。忘れることはないだろう。ヤンが、シェーンコップの祖父の形見のことを忘れないと言ったのと同じように。
 では、とシェーンコップも、ヤンの微笑をわずかに写して微笑み、退室のための敬礼をした。
 その、祖父がかつて浮かべたそれと良く似た微笑みを、シェーンコップ自身は見ることが叶わず、今それを見ているヤンは、シェーンコップが彼の祖父とどれだけ似ているかを知るはずもない。
 上げた腕のせいで軽く持ち上がった上着の、胸ポケットの中で、祖父の万年筆が動き、シェーンコップの胸を押して来る。
 おじいさまと、帝国語で最後に祖父を呼んだ自分の声を、シェーンコップは耳の奥に聞いている。

戻る