Raw Deal 3
ユリアンは学校へ行き、ヤンはゆっくりとひとりで朝食を済ませて自分で紅茶を淹れ、パジャマを着替えもせずに、読み掛けの本を手にソファに寝そべった。久しぶりの休みの日、昼食のことなどはなから考えずに、このままユリアンが帰って来るまで、ずっとだらだらしているつもりだった。
せめて着替えて下さいとか、ちゃんと食事は摂らないととか、いちいちユリアンが気にしてくれるのに感謝はしていても、たまにはこんな自堕落に抗いがたいヤンだった。
結局、出した辞表は受理されたと言う連絡もなく、予想通り、受け取ったシトレがそのままくずかごに放り込んだに決まっている。
まあ、仕方ないさ。
それでも少しだけ諦め切れず、どこかで奇跡が起こって、おめでとうございます、来月から──明日からだっていい──自由の身ですよ、夢の年金生活ですよと、誰かがメッセージでも届けに来てはくれないかと、活字の間の余白へぼんやり視線を当てて、埒もないことを考えている。
ゆったりと指に触れるページの感触に、自分以外気配のない家の中の静けさを重ねて、ヤンは体を伸ばしたソファの上で、また眠りに引き込まれそうになっていた。
そうして、せっかくの静謐を切り裂く、無粋なドアのベルの音。
まだ昼には少しある時刻に、訪問者の心当たりなどなく、ヤンは無視するかと、一瞬肩に首を埋め込み掛ける。けれどヤンの気持ちを見抜くように、ベルは鳴り続け、もしかしてさっき夢想した辞表受理のメッセンジャーかもと、ヤンはさらに夢見るように考えて、渋々ソファから体を起こした。
戻って来る時には、ついでに新しい紅茶を淹れるかと、頭の隅で考えて、
「どちらさま?」
無愛想な声でドアスコープを覗くと、わざとらしく敬礼姿を見せるシェーンコップがそこに見えた。ワルター・フォン・シェーンコップ大佐であります、と慇懃に言う声が聞こえたような気がした。
ヤンは慌ててドアを開け、間違いなくそこにいるのがシェーンコップと認めると、まだ敬礼のままの彼へ情けない敬礼を返し、そうしてから、自分がベッドから出たままの姿であることを、顔を赤くして恥じた。
「お休み中に失礼いたします。」
ヤンがへろへろと手を下ろした後に、ゆっくりと優雅に腕を元の位置に戻して、いつ見ても全身鋼のような、いかにも硬そうに真っ直ぐに伸びた体を、今も、ちょっと胸を反らすようにして、こうして住宅街を背景に眺めれば、異彩としか言いようのないシェーンコップの立ち姿だった。
ネクタイはいつも通り少しゆるんでいる。彼の上に見るそれは、だらしないと言うよりも、すべて計算し尽くした行いに見えて、自分とは大違いだとヤンは思った。
「こんな格好でごめんよ。何か急用かな、こんなところまで来るなんて。」
一応は礼儀正しくと、シェーンコップを中に招き入れてから、さっきまで寝そべっていたソファの片端へ促したけれど、シェーンコップはそれを辞退して、部屋の中をじろじろ見回すと言うこともせず、早速用件に入る。
「本日、昇進の辞令がありました。准将だそうです。」
へえ、とヤンは思わず口元をほころばせた。
「イゼルローン攻略の成功を考えたら当然だが──良かったね、シェーンコップ、准将。」
「ありがとうございます。」
ヤンに新しい階級で呼ばれて、シェーンコップは少し照れたように眉尻を下げた。
ソファの傍で立ったまま、互いに数秒見つめ合う。ふたりともかすかに微笑んで、明るい家の中では、シェーンコップの大きな体を包む軍服の濃い青がやや重たげに見えても、昇進を素直に喜んでいるらしいせいかどうか、肩の辺りから発する空気はあくまで軽い。ヤンもその空気を伝染(うつ)されていっそう笑みを深くした。
「君が、確か3人目だったかな、将官に昇進したローゼンリッターの連隊長は。」
そんな数字を知っていたのかと、シェーンコップが怪訝そうにヤンを見る。
「ええ、将官になった連隊長2名はそのまま無事に退役しました。どうやら私も、閣下同様、年金生活を夢見ることができそうです。」
シェーンコップが、輝くような美しい笑みを浮かべた。ヤンは逆に、ちょっと困ったような顔で、寝癖だらけの髪を指先でかき回す。
「昇進したばかりで、退役だの年金だの、わたしはどうやらろくでもない上官みたいだな。」
「そんなことはありません、150まで生きたいと思って、それができると確信させて下さったのは閣下ですから。」
エレベーターでの会話を思い出させるように、シェーンコップが言う。
少なくとも、ここの明るさは、あの無機質な、際限なく白に飲み込まれるような明るさではない。ヤンは、ユリアンが居心地よく整えてくれた自分の私的な空間で、この男と向かい合っている不思議へ思い至り、どこから見ても軍人然とした雰囲気を持ち込んでも、決して周囲に撒き散らさないシェーンコップの節度のようなものを感じて、休日に上官の官舎を突然訪れると言う不作法は不問にさせる、これは彼の奇妙な人間味かもしれないと思った。
正面から、この明るさで向き合うと、威圧感が失せた分その眉目秀麗さがただ際立って、険がなければいかにも女性にもてそうな甘さが眉や唇の辺りへ漂う。これで、あのローゼンリッターを束ねていると言うのだから、戦闘中はどれだけ恐ろしい形相になるのかと、ヤンは戦斧を握る彼の手へこっそりと視線を移した。
目鼻立ちの美しさに比べると、癇症に刈り込まれた爪の短さが、ヤンの感じる彼の可愛げと釣り合うように存外愛らしい。その手が自分に触れたことを何となく思い出し、そして、この男も人殺しなのだと、ヤンは改めて考える。
ヤンを殺そうと思えばそうすることができ、敵を一刀両断することも恐らく容易い。同じようにヤンは、ただ手を上げ、軽く振り下ろして、大量の敵を殺す。
殺した人間の数なら、ヤンの方が軽々と上回る。けれどこの男は、その手指と腕と全身のすべてに、殺した人間の血を浴び、血なまぐさい空気に伝わり皮膚を震わせる、断末魔の痙攣を感じるのだ。血だまりを踏みしめ、目の前の命のひとつびとつを断って、その行為を記憶として全身に刻み込む。逃げることのできない、消すことのできない、記憶。
シェーンコップが最初に見せた、あのふてぶてしさ。裏切り者として扱われ、能力だけは便利に使われ、それでも今ある居場所を奪われまいと、不当さと理不尽さから目をそらすしかなかった。ゆえに身につけたしたたかさは、彼らを不逞の輩へといっそう追い込むだけだ。
同盟の掲げる正義の空疎さを、亡命者だからこそ見抜き、けれど上げる声は奪われて、永遠の異分子として蔑まれ続ける。信じるのかとシェーンコップは訊いた。信じるとヤンは答えた。完璧ではない信頼関係。そこへシェーンコップはつけ込もうとして、ヤンはそれを拒まなかった。上官とろくでもない関わりを持つのは面倒を背負い込むだけだと、ヤンが指摘した通りどうやら覚えのあるらしいシェーンコップは、ヤンはその手の下劣な手管で操れる上官ではないと、賢明に見抜いたようだった。
互いに利などないのだし、ただの上官で、ただの部下で、信頼関係ならそれで十分だった。
そうしてヤンは、今伸ばせば腕の届く距離でシェーンコップを向き合いながら、シェーンコップがそれ以上は決して踏み込んでは来ないことに安心している。意識する必要もないはずのそのことを、自分が今ちらと考えていることに、心の端を噛まれたような違和感を覚えていた。
「ちょっと、待っててくれ。」
見つめられているその熱から離れるために、ヤンはすっと身を引いて、シェーンコップの傍を通り過ぎて上の階へ向かう。裸足の素足で階段を上がりながら、それに合わせてシェーンコップの視線が動くのを感じた。
足早に自分の部屋へゆき、机の引き出しから細長い、臙脂色のリボンの掛かった真っ白い箱を取り出す。それを手に、また同じ速度と道筋で下へ、そしてシェーンコップの前へ戻った。
「これを。」
差し出され、シェーンコップがきょとんとそれを見る。
「貴官にだ。ちょうどいいから、昇進祝いだとでも思ってくれ。」
「私に、昇進祝い、ですか。」
明らかに不審と不信の表情で、初めて会った時よりもさらに濃い表情を刷いて、それでもシェーンコップは箱を受け取り、するするとリボンを解いた。箱を開けて、シェーンコップが、もっと信じられないと言う表情を顔全体に走らせる。いつもの貌(かお)よりも少年っぽく、眉が上がり、見開いた目を瞳だけ動かしてヤンを上目に見る。
「これは──」
「別に、例の、君の大事な形見の代わりと言うわけじゃないんだ。代わりなんて無理だしね。単にその、ただの筆記用具として、もし使ってくれるなら──」
シェーンコップは箱の中身を取り出し、掌に乗せて目元へ近づけるようにした。
軸は黒よりははっきりと灰色寄りの、キャップは落ち着いた、どちらかと言うと錆びを思わせる重さのある色味の金で、細かく入ったざらついた線は、よく見れば薔薇を模したものだった。
あの形見の万年筆と同じくらいの軸の太さと思って選んだのだけれど、シェーンコップの手の中に入ると、握り具合はどうだろうかと、ヤンは少し不安になった。
ユリアンのためにと、選びに行った店で見つけて、ひと目でシェーンコップの印象と重なり、手に入れずにはいられなかった。無茶な作戦を実行してくれた礼と言えば言えたし、形見の万年筆を台無しにしてしまった詫びと言えばそうとも言えた。
あるいはもしかすると、と、まだ万年筆を手の中で転がしてじっと目を凝らしているシェーンコップを見つめて、自分の手の触れたものを、彼の身辺に置きたかったのかもしれないと、その時辞表の提出を決意していたヤンは考えている。
ヤンの退役計画は結局頓挫したようだけれど、退役が認められていれば、ヤンとシェーンコップはただの他人になるはずだった。元軍人と現役の軍人。元上官と元部下。ヤンは家にこもってもっぱら読書に勤しみ、シェーンコップはローゼンリッターを率いて、最前線へ飛び出し続ける。ヤンの退役によって断たれた繋がりは、そこから先でもう重なるはずもない。
だからこうして、彼の手が触れる小さなものを贈りたかったのか。そうなのかと、今さら自分の胸を覗き込んで、ヤンはまったく無表情に愕いていた。
「──ありがとうございます。」
シェーンコップは口元にはっきりと笑みを浮かべて、やっと万年筆から視線を上げ、少しだけ震えのある声で言った。
突っ返されないと分かって、ヤンはようやくほっとする。
笑みはそのまま、シェーンコップは再び口を開いた。
「これを戴く前に、お願いがあるのですが。」
「なんだい。」
今度は何を言い出すのかと、再度ヤンは身構える羽目になる。軍服を着ていないのが急に心細くて、ユリアンがいつも言うように、せめて普段着に着替えておくべきだったと、シェーンコップには見えないように、背中に回した手でパジャマの裾をぎゅっと握った。
「これを半年ほど、私のために、提督ご自身で使っていただけますか。」
訝しげな表情がヤンへ移る。面白そうに、シェーンコップが、いつものふてぶてしさを少し混ぜて、笑った。
「わたしが、どうして?」
「真新しいペン先は固過ぎるので──あの万年筆は、祖父が長い間使って、祖父の書き癖がついていました。同じようにと言うわけにはもちろん行きませんが、提督の書き癖がつく頃に改めて小官にお渡しいただけたら──。」
シェーンコップがヤンの方へ、その万年筆を差し出して来る。まるで、ヤンがそれを贈られたように、受け取り返して、シェーンコップが持っていたそれはヤンの手の中に収まった。
「君がそう言うなら・・・。」
「ええ、ぜひお願いいたします。」
言い様、まだ万年筆を見下ろしていたヤンの、空いた方の手を、シェーンコップがいきなりすくい取る。指先を持ち上げて引き寄せる仕草の先に、シェーンコップの唇が落ちて来た。
何が起こっているのか一瞬分からず、ヤンは全身を固くして、思わず万年筆を力いっぱい握りしめた。
帝国風の、立場が上の人間に対する挨拶なのかどうか、この場にもヤンの姿にも似つかわしくない恭しさで、体をややかがめて、シェーンコップはヤンの指先に口づけし、しばらくそのままでいる。
前へ落ちた髪の流れが、計算されたような完璧さでシェーンコップの輪郭に沿い、まるで絵画のようだと、ヤンはその眺めに我知らず見惚れていた。
きれいな男だと、もう何度も思うたび、そのこと自体にはまったく心は動かされず、けれど自分にこうして触れる、その額や鼻筋や頬の線を眺めていると、この男の美々しさは、それ単体ではなく、他の誰かと関わる時により完全になるようだと、煙るような濃いまつ毛の隙間のなさへ視線を当てて、自分たちのこの手は両方とも人殺しの手なのだと、心のどこかが冷えるようにヤンは考えた。
余裕のある仕草でヤンの手を放し、シェーンコップは顔と体を上げると、もう何事もなかったようないつもの表情で、
「突然失礼いたしました。では。」
敬礼し、ヤンの返礼を待たずにくるりと背を向け、空の箱を持って遠ざかる。
去りながら、ほどいたリボンがシェーンコップの手の中からひらひらと泳いでいるのが、流れる血のように見えたのに不吉な予感を覚えて、呼び止める前に消えた背に掛ける言葉は見つからないままだった。
いずれシェーンコップの手に返る万年筆を、まるでそうしてあたためるように、ヤンは掌の中に握り込んでいる。万年筆の凹凸の当たる掌から、血が流れ出しているような気がして、あるはずもない染みを探すように、ヤンは自分の足元へうつむいていた。