赤い雪が降る
シェーンコップがソファに長々と体を伸ばし、本を読んでいる。腹の上へ開いた本へ当てる視線は、眼鏡越しだ。ヤンは、シェーンコップの邪魔をすまいと言うわけではなかったけれど、淹れたばかりの紅茶──自分で──を手に、ソファの前のコーヒーテーブルへ、あごを乗せるようにして床に坐った。
近頃、小さな字が見えにくくなったと、本を読む時にはシェーンコップは眼鏡を使うようになり、特にこだわりもせずに適当に選んだそれは、妙に太い黒縁の、ヤンが見てもなぜそれにしたのかと思うデザインだったけれど、シェーンコップが掛けるとそれはそれで見栄えはまあまあで、色男はこんなのでも似合うのかと、ヤンは何に対してか分からなかったけれど、その時少しだけ機嫌を悪くした。
あれは自分が掛けたら、どう見ても本の虫か、勉強だけで他に何の楽しみもない、いかにもつまらない人生を歩んでいる男だなと、ヤンは読書中のシェーンコップの横顔を見つめて考えている。
自分の人生のつまらなさについては、一部は否定できないところもあると思って、そのつまらなさをことごとく解消してくれた本人を目の前に、シェーンコップ自身にも色々己れの人生について言いたいことはあるのだろうと思いながらも、見た目がいいのは多分色々と得なんだろうなと、非理論的なことを考えていた。
今気がついたわけではないけれど、眼鏡のフレームの黒さのせいで、生え際の髪の色が変わっているのがよく分かる。いつの間にか、灰褐色の髪色の、灰色部分が増えていて、シェーンコップに限って言えば、それは彼を老いさせて見せるよりも、髪の色のもっとずっと濃かった時よりも、穏やかな、彼の人の好さの方がより強く表面に出て来るようになったと、ヤンは感じている。
わざわざ数えなくても、彼は50を越えて、体の厚みは相変わらずでも、触れれば筋肉の減りようが分かるし、皮膚もすっかり柔らかくなって、別の意味で手触りが良いのだと、ヤンはテーブルの下で掌をちょっとうごめかした。
少し薄くなったように感じられる皮膚の上の、数え切れない傷跡。それらはいつの間にかシェーンコップの、年齢を刻んだ膚に紛れ込んで、元々の皮膚の感触に近くなったのか、あるいはヤンの指先が以前より鈍くなっているのか、触れていてもそこが傷跡だとふと思い落とすことがある。
様々のことが、身も心にも刻み込まれ、年月の間に確実に自分と同化して、それはもう生まれつきのようにひとつのものになっている。その、自分とひとつになったものの中に、シェーンコップも含まれるのだとヤンは思った。
「何ですか──?」
じっと見つめられていることに気づいたのか、シェーンコップが本から視線を外して、顔をヤンの方へ向けて来る。テーブルの奥行き分の距離があっても、シェーンコップへ見つめ返されると、ヤンはいまだに頬へ上がる熱を避けられずに、テーブルへ乗せていた腕で顔を半分隠した。
字を追って動く瞳、いまだその濃さに驚くまつ毛の長さ、横顔の端正さ、眼鏡に不粋に縁取られても、シェーンコップは相変わらずヤンにとっては目の保養だ。いくら眺めていても飽きない。出会って何年だったかなと、今さら数える必要もないと言うのに、ヤンは照れ隠しにそんなことを考えた。
18年くらい?もう少しで20年か。父親とよりも、他に同じように親しくしていた誰よりも、長く一緒にいることになる。こんなことになるなんて、出会った時は考えもしなかった。
恋の始まった日は今も良く覚えている。その恋が実り、永遠に続けばいいと人は必ず考える。けれどそれが実現するのは稀だ。その稀少な存在が、自分の目の前にいる。それがいまだ信じがたく、ヤンは自分をまだ見つめているシェーンコップが、自分へ向かってふと腕を伸ばしたのに、糸に引かれるように立ち上がってソファの傍へ行った。
「ソファに坐らせろ、と言うことですか?」
言って自分の傍らにヤンを引き寄せて、けれどソファの座面はさほど譲らずに、シェーンコップが下から笑い掛けて来る。
「違うよ。」
答えながら、ヤンはシェーンコップの頬に触れ、あごに触れ、首筋に触れて、掌をやっと胸の上へ置く。押せばまだ十分に固い。変わったけれど変わらないなあと、ヤンは思う。
シェーンコップは、ヤンの鏡だ。色の褪せ始めた髪、目尻に散った皺、肉の落ちた首や手、ヤンも同じように、シェーンコップの目には映っているのだろう。生え際に増えたヤンの白い髪に、シェーンコップが指先を伸ばして来る。
指先に髪を梳けば、以前は宇宙の闇そのまま、息苦しいほど濃く黒かった髪には白が混じり、元の黒さのせいでそれはやけに目立つけれど、いちいち染め返そうとも思わないヤンだった。
「君は相変わらず、なんて言うか、かっこいいなと思ってただけだよ。」
そこもやや薄くなった、乾いた分、柔らかさは増したヤンの唇が動き、似合わない真っ直ぐな物言いを吐く。
「これはこれは。提督からそんな褒め言葉をいただけるとは、明日は赤い雪が降りますな。」
昔は、ヤンのために血の雨を降らせた手が、髪から頬へ動いて来る。張りは少し失せても、こちらは手触りのなめらかさは一向に変わらないヤンの膚へ、シェーンコップが目を細めた。
瞳の中にある情熱は、今では熱さよりも穏やかさを増して、それでもそれは変質しただけで、失われた様子はまったくない。20年が長いのかどうか、ヤンにはまだ分からない。見た目の変化ほどには中身は大して変わらず、時折自分はまだ父親を失ったばかりの15歳の少年のような気もして、あれから30年も経ったのが嘘のような、せいぜい数年ではないのかと、振り返って思う。
そうして、シェーンコップを見て、自分を見て、そんな年月が確かに過ぎ去ってしまったのだと認めると、生きて来たすでに1/3以上を一緒に過ごしたこの男へ、感謝なのか感嘆なのか、あるいは一種の呆れたような心境か、そんなものが様々に混じり合った感情に襲われて、言葉が溢れて来るのに、それが形にならないもどかしさを味わうのだった。
眼鏡のフレームに縁取られたシェーンコップにまだ慣れず、それはそれで悪くない眺めだけれど、今は直に目元を見ていたいと思って、ヤンはそっとシェーンコップから眼鏡を取り上げた。
シェーンコップが腹の上に広げたままにしておいた本を、栞も挟まずに閉じて、眼鏡と一緒にテーブルに置く。読んでいたところが分からなくなると、シェーンコップがかすかに慌てたのを無視して、ヤンは両手をシェーンコップの額へ乗せ、そこから滑らせて、シェーンコップの両頬を包んだ。
頬骨が固く当たる。この感触は出会った時から変わらないように思える。
額をこすり合わせて、鼻先をこすり合わせて、もう何千回、何万回そうしたか分からない順で、唇が触れ合う。そこから先へ進むのかどうかは、今では確実ではないけれど、素肌を重ねて眠るだけの夜を過ごしても、求める気持ちには変わりのないままのふたりだった。
好きだと、はっきり言葉に出して伝えたのはいつだったろう。愛していると、初めて言ったのはどの時だったろう。
唇が動くよりも先に、抱き合う腕の伸びてしまったずいぶん後で、伝え合う必要もなくなってしまっていたと言うのに、それでも口にせずにはいられなかった。分かり切ったことと思ってはいても、相手の気持ちは分からない。ヤンがそう告げた時、シェーンコップは文字通り、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
まあ、分かってはいましたが、貴方がわざわざそんなことを口にするとは思ってもみませんでした。
そうだ、あの時もシェーンコップは、明日は赤い雪が降ると言ったのだった。
「君はきっと、いつまでもこんな風に、わたしにとっては眺めのいい存在なんだろうな。」
鼻先を触れ合わせたまま、ヤンがそっと言う。
「百年経ってもそうありたいものですな。」
人の悪い笑い方はまったく今も変わらず、その百年の先でも、シェーンコップはこんな風に微笑み続けるのだろう。それを、こんな近さで見続けていたいと、ヤンは思う。
そうだねと、素直に相槌を打って、そのヤンの素直さに、おやとシェーンコップが眉を上げたのを見てから、ヤンはもう一度唇を触れ合わせた。
もうじき、ヤンも読書に眼鏡が必要になるだろう。後50年したら、歩くのに互いに支え合わなくてはならなくなるかもしれない。その支えに、ヤンが求めるのはシェーンコップの腕で、シェーンコップが求めるのがヤンの手で、この唇が同じように動いて、赤い雪が云々と繰り返すのを後何度聞くことになるだろう。
降る雪が赤でも、降る雨が青でも、それを肩を並べて一緒に眺めるのだ。きっと。
ヤンの髪を軽く指先に持ち上げ、そこへ混じる、もう隠しようもない髪の白さへ、シェーンコップがふっと笑みをこぼす。時間の流れを互いの上に見て取って、そうして過ごした時間の長さを思って、これから続く時の流れへ、ふたりは同じように心を馳せた。
目を見るだけで読み取れるようになった様々のことが思い浮かび、何の隔てもなく視線を交わして、互いに酔い続けて来たそれへ、またさらに酔いを重ねるために、ヤンはシェーンコップのシャツの襟元へ指先をそっと忍び込ませた。
ソファや床の上で抱き合うにはもう少しだけ若さの足りないふたりは、それでも重ねた唇を外さない熱っぽさは出会った時と変わらないまま、点々と脱いで脱がせた服を落としながら寝室へ向かう。
薄暗さの中ではぼやける視界に互いを近々と収めて、いい眺めだと、ふたりは同時に目を細めた。