Rescue You
ベレー帽を頭に載せ、やれやれ面倒だなと思いながら執務室を出る。まるでそれを予想していたかのように、出た途端、エレベーターの手前でシェーンコップに行き合った。「どちらへ?」
にっこり微笑んで訊くのは、護衛がいるかどうかと言う質問を含んでいるのだと知っていて、ヤンは曖昧に笑って応える。
「銀行へね、ちょっとね。」
「閣下がわざわざ足を運ばれるのですか? 閣下のよろしい時に向こうが出向いて来るのが道理では──」
「軍の施設に、私用で呼ぶと出入りの許可が面倒だからね。それにわたし程度の預金額じゃあ、向こうにわざわざ来てもらうのも気が引けてしまうよ。」
ヤンが素直にそう言って髪をかき混ぜると、シェーンコップが肩を軽くすくませて、中将ともあろう方が、と小さく言う。
「君らが思うほど、軍の給料は良くはないさ。養子の男の子をひとり養うくらいはできるがね。」
「なるほど。となると、イゼルローン陥落の報奨金は、まっすぐ坊やの養育費行きですか。」
「実はその通りだ。」
可笑しそうにシェーンコップが訊くのに、隠さずヤンはうなずいた。
報奨金、と言うところで、ふたりともが交わした共通の笑みが、その金額を言わず物語っているけれど、自分の分はなくても、実行部隊のローゼンリッターにはぜひとヤンが主張した分が、一体どれだけ通ったことやら、まさか幾らもらったとあけすけに打ち明け合うわけにも行かず、互いの目の色を読み合って、シェーンコップが微笑ましげに目元をゆるめたのを見て、ああそれなりの額だったのだなと、ヤンは内心で淡く安堵する。
今日の銀行への用も、その報奨金に幾らか足して、ユリアンの学資用貯金のために、少しでも利率の良い口座はないかと相談しに行くためだった。ユリアン名義の貯金があれば、ヤンに何かあった時も、ユリアンが即使える金が残せる。そう言えば固辞することが分かっているから、ユリアンには内緒の話だった。近いうちに、弁護士に、ユリアン宛てに残すもののリストを作ってもらわなければと、この用が済んだ後はそっちだと、面倒くさいことは減らないなあと、ヤンはシェーンコップを見上げたまま、内心でひとりごちる。
シェーンコップの指先が、ふとヤンの首筋へ伸びて来た。
「閣下、スカーフが少し──。」
はっきりとは言わずに、ヤンのスカーフのよれよれ具合に、シェーンコップが灰褐色の目を細める。その下のシャツのくたびれ具合にも言いたいことがありそうだったけれど、それはスカーフで隠れるからか、シェーンコップは残りを飲み込んだ。
「金の話をしに行くなら、多少身なりには気を張られた方が──。」
金の苦労はヤンの比ではなかったろう、ローゼンリッターの連隊長が穏やかに指摘する。
装甲服の時ですらコロンの香りのしそうな、同盟一の美男子と名高い男にそう言われれば、ヤンも苦笑でごまかすわけには行かず、ああ、と歯切れ悪く自分の胸元を見下ろして、何とか見映えをましにしようと努力している振りをした。
失礼、とシェーンコップが短く言い、手早くヤンのスカーフをその場でほどいた。するすると動く手指の優美さに、ヤンが見惚れた数瞬の間に、ヤンのスカーフを自分の肩に掛け、自分のスカーフを抜き取ってヤンの首に巻く。
ユリアンにそうしてもらうのも形良く決まるけれど、シェーンコップがそうすると、まるでシェーンコップのまとう、優雅で豪奢な空気も一緒に分け与えられたように、ヤンはふわりと自分の首に巻かれたスカーフのせいで、思わず背筋の伸びるのを感じた。
他の誰かなら、不躾けにしか思えない仕草が、こういうのを高雅とでも言えばいいのか、スカーフからかすかに、シェーンコップのつけているらしいコロンの香りが立つのも、嫌味ではなく思えた。
自分の首を見つめるシェーンコップの、額の辺りへ視線を据えて、見るたびいかにも甘そうなチョコレートか、ミルクのたっぷり入ったコーヒーを思わせる、なぜか美味と言う言葉の浮かぶ髪色の、耳や頬への素直な流れへ、ヤンはこっそりと目を細めた。
人を、気高い気分にさせる男だと、シェーンコップに向かって新たな評価を下しながら、ありがとうと、ヤンは素直に礼を言う。
「戻ったら返しに行くよ。」
「ええ、ちゃんと返していただきますよ、閣下。」
いたずらっぽいウィンクがおまけについて来る。代わりに、ヤンのスカーフは担保だとでも言いたげにそれを手に持って、では、とシェーンコップは長い足をきれいに伸ばして去ってゆく。
シェーンコップの整えてくれた襟元へ手を添えながら、ヤンは珍しく伸びた背のまま、約束の時間に遅れないために足を早めた。
銀行の中では大手の、けれどそこはいわゆる商業地区のど真ん中のせいか、4階までしかない小さな建物の、メインの業務が行われているのは2階だった。
1階にはカフェが入り、数台のATMが歩道へ向けて仰々しく、ガラスの扉で囲まれている。カフェとATMの区画の間にある階段とエレベーターへゆくと、ヤンは人気のない階段を、カフェの店内を斜め後ろに見ながら上がった。
午後の、すでに人出の落ち着いた時間、待つための椅子はどれも空で、窓口が塞がっているのは半分程度、ゆき過ぎるいちばん手前の窓口に、大きな腹を抱えた女性が、足元にまとわりつく男の子をあしらいながら、何やら込み入った話をしているらしいのを横目に見て、ヤンは来意を告げるために受付へ向かう。
その背をまるで追って来たように、突然背後に、ばらばらと不穏な足音がした。複数の、重たいその足音へ振り返った時、スキーマスクで顔を隠し、それぞれ大きなマシンガンを胸元に抱えた男たちが、ヤンを初め、その場にいる全員に銃口を向けて来る。
咄嗟に、ヤンは腹の大きな女性の方へ駆け寄った。
「動くな!」
鋭い声が飛んで来る。それでもヤンは構わずに、女性を自分の背中にかばって、女性が自分の子どもを抱きしめるのを視線の端に捉えてから、抵抗する気はないと、両手を頭上に上げて見せる。
横目に見て、ざっと10人程度。3人が入り口から窓口までへ立ち塞がり、残りは窓口の中、カウンターの向こうへ入って行った。行員たちはすぐに立ち上がり、ヤンと同じように、彼らへ向かって両手を上げて見せた。素直な態度に、連中もまだ乱暴な態度は取らない。
非常時の訓練が行き届いているものか、やたらな悲鳴も、無駄な騒ぎもない。客の数が少ないのが幸いだった。
ヤンの背後の女性は、突然の乱入者から目も体もそむけて震え、子どもの目に危険な人物たちと武器を入れないようにと思うのか、必死で小さな体を覆うように抱きしめている。
シャッター等はない、階段を上がり切ればすぐに業務のフロアと言う造りのせいで、彼ら自身が閉じ込められることはないけれど、逆に籠城もできない。外へ向けて窓などないから、そこさえ守れば──階上の方が当然有利だ──彼らはとりあえず外からの攻撃へは対応できる。
が、とヤンは、まだ黙って自分たちへ銃を向けている不審者たちから、ちらりと横目に視線を流して考えた。
ここからさらに上へゆく階段があるはずだ。エレベーターの扉は、向こう側の受付の前。そこには当然すでにふたりほどが控えていて、行員がすでにひそかに警察に通報を済ませているだろうから、とっくに使用不可能になっているだろう。
上に上がる階段は、少なくともヤンの視界の中には見えない。そうすると、行員のみが使えるように、ここからずっと奥、建物の裏側へ当たる辺り、つまり今のヤンたちの背後の位置にあるのか。
警察は正面から入って来るか、それとも裏口を使って、その階段から上がろうとして来るか。
そもそもこの連中は、一体全部で何人だ。表から入って、カフェの客たちを追い出し、入り口とそこの階段の上り口を塞ぐために恐らく4、5名、そして下調べがきちんとしているなら──当然そのはずだけれど──、裏の出入り口も固めて、上の階にも何人か回っているだろう。
20人ちょっとか、とヤンは大方その辺りと予想して、それにしても、金目当てにしては、こんな小さい支店を狙うのはちょっと話が通らないと、上げたままの手で、うっかり髪をかき混ぜそうになった。
見たところ、銃の構えにも隙が見えて、血走った目で人質たちをにらみつけてはいるけれど、何やら当人たちは落ち着かない空気が隠せない。
やれやれ、とヤンは思った。シェーンコップと行き合った時に、一緒に──他の誰かでも──来てくれるかと訊けばよかったと後悔しても遅い。シェーンコップがこの場にいれば、多分武器はなくても、ひとりでこの連中をおとなしくさせてくれたろう。
他の階に回った分までは荷が勝ち過ぎるかなと、イゼルローンを、ほぼ素手で落とした男へ、ヤンはちょっと失礼なことを思った。
そこにいた者たちは、奥へいた行員たちも、他の階にいた者たちも全員引き出されて、カウンターの中の片隅へまとめられた。男たちは銃口を、人質から片時も外さず、さすがに妊婦の女性を狙うことはしない──ヤンは、行き掛かり上、彼女とその息子をずっと傍らにかばっていた──けれど、あまりいい気分ではない。
訓練の行き届いた行員ばかりのせいか、銃を構えた男たちへ無駄に食って掛かるような誰もいず、ヤンも含め、彼らはただ静かによそを向いて、床に坐ってじっとしている。
疲れた風に顔を伏せている妊婦の女性が体を冷やすのではないかと、ヤンはひそかに心配しながら、ちらりと彼女を振り返るたび、彼女にしがみついている男の子──髪色が、シェーンコップによく似ていた──が一緒に視界に入って来るのに、せめてユリアン名義の口座を開いた後だったらと、この不測の事態を恨まずにはいられない。今自分に何かあったら、たちまちユリアンは暮らしに困るだろう。
キャゼルヌ先輩が何とかしてくれるかな。こっそり髪を指先にかき混ぜて、さて、と先のことを考える。
予想通り、警察はとっくに到着してこの建物の周りを囲い、その警察に向かって、この集団は、最近逮捕された、自分たちのグループのリーダーを解放しろと要求した。人質の命はないと思え、と言った時の声が震えていたのに気づいて、ヤンはこっそり肩をすくめた。
打倒同盟政府を打ち立て、辺境惑星で地味に活動していたらしいごくごく小さなグループで、リーダーの名も集団の名も、警察へ1度では通じず、伝わった後も、もっと上へ問い合わせなければ思い出してももらえない、つまりはその程度の人物救出のためのこの事態に、ヤンは思わず頭を抱えたくなった。
そもそも、名前も聞いたことのない、どうも犯罪の前歴もなさそうなグループのリーダーを、わざわざ逮捕したと言うのも、どこかの政治家の票稼ぎのパフォーマンスなのではないかとヤンは思って、単なる見せしめだったのだろうと、銃を構えた男たちの真剣な態度を気の毒にすら思う。
警察の交渉係が、行内に電話をして来るのに、この場のリーダーらしい男が受け答えするのを聞いていると、反同盟政府と言うのも、どちらかと言うと反戦主義に色合いは近いようで、それで武器を持って人質を取って脅すのは、まったく矛盾した話だなあと、ヤンはのんきに考えている。
交渉の具合も、具体的にどうしろと言う風ではなく、ただ我々のリーダーを解放しろと言い続けるだけで、どこへどう連れて来いとか、その後の移動手段の確保等にも言及する様子はなく、何とも素人くさい、酔っ払った勢いで決行してしまった計画──単なる戯れ言──なのではないかと、ヤンは疑いたくなった。
政府側にしてみれば、このテロ行為を理由に、さっさと逮捕されているグループのリーダーとやらを、もう裁判なしに死刑にしてしまいたい──民主主義には反しても──ところだろう。
運悪く人質になってしまった人たちが気の毒だし、リーダーを救うためにしたことが裏目にしか出ないだろう彼らに対してもうっかり同情が湧く。彼ら自身も、この愚行で無駄死にか。もったいないなあと、主には無駄にされる自分の時間について、ヤンは思った。読む本もない、手持ち無沙汰が忌々しい。
さて、とヤンはベレー帽を押さえた。同情はしても、テロ行為はテロ行為だし、相応の罰は与えられなければ困る。できるだけ人質に被害の出ないように。彼ら自身の被害は、仕方がないと思ってもらうしかない。
そのために、ヤンは坐っていたその場から、ゆっくりと立ち上がった。
「おい、勝手に動くな!」
素早く、銃口のひとつがヤンに突きつけられる。ヤンは無力な風に──実際に無力なのだし──両手を上げ、
「君らの主張は理解したが、人質が死ねば、君らはただの殺人犯だぞ。」
自分たちが法を犯していることは自覚していても、面と向かって犯罪者呼ばわりはされたくないのか、その場の空気が途端に悪くなる。
「人殺しの戦争屋が何を言う。」
ヤンの、軍服の胸元を銃の先でつつきながら、グループのひとりが喚いた。
「うん、まあ、そうなんだが──。」
ヤンが憤りもせずにぼんやり言うのに、彼らの方が毒気を抜かれた顔をして──スキーマスクで見えないのに、はっきりと分かる──、何だこいつは、と言う風にヤンをにらみつけた。
「わたしはその、言われた通り戦争屋だが、ただの戦争屋じゃない。君らの要求を通すためなら、人質はわたしひとりで十分じゃないかな。」
「何だと?」
ヤンの言い方と、内容にまったくそぐわない見掛けに、間抜けなことを言う奴だと言う空気がその場に漂い、人質側からすら、何だこいつは、と言うつぶやきのようなため息が漏れた。
「たかが軍人ひとりに、そんな価値があるだと──」
「あるとも。」
喚く語尾にかぶせるように、ヤンはきっぱりと言った。名乗らなければ見分けてもらえない自分の印象の薄さを、少しばかり今は悔しがって、名乗ってもなお信じてもらえないだろうことも、同時に予想して苦笑を噛み殺す。ヤンは、ゆっくりと唇を動かした。
「同盟軍、第13艦隊司令官、ヤン・ウェンリー中将だ。イゼルローン要塞を落としたばかりと言った方が早いか、それともいまだにエル・ファシルの英雄の方が通りがいいかな。」
普段は聞くたびいやな思いをする自分のふたつ名を、両手を上げたまま、淀みなく言えた。途中でつっかえたりしなかったことに、言い切ってから、ヤンはほっとした。
その場の空気が、ヤンを区切りにして、安堵の吐息と驚愕のうめきに満ちる。
「エル・ファシルの? おまえが?」
案の定、銃を持った男たちは、目の前の、軍服姿でも一向に冴えない黒髪の男の名乗りを信じずに、互いにちらりと横目で視線を交わして、このホラ吹きをどう痛めつけて改心させてやるかと、何やら凶暴な意思を通じ合わせようとする。
やれやれ、とヤンは今日はもう何度目か思った。
「上着のポケットの中に、身分証明証がある。わたしの担当の行員にも尋いてみるといい。実際にここに、わたしの名で口座があるかどうか、調べればすぐに分かるよ。何なら、口座の残高も言おうか。」
ヤンは、落ち着いた声で言い足した。怯えのない態度に、彼らも、ヤンがそれなりの修羅場をくぐった軍人ではあるらしいと認め始めたのか、政府とメディアが適当にでっち上げた、怪物めいた同盟の英雄、と言う図に、現実のヤンがまったく重ならないことへ驚きを刷いて、リーダーである男へ向かって、数人がひそひそと耳打ちする。
「おまえが、そのヤン・ウェンリーだとして、俺たちのために一体何をしてくれる。」
リーダー格の男が、さすがによく通る声で、脅しつけるようではなく、ヤンに訊いて来る。自分の演説も、捨てたもんじゃないなと、ヤンは思った。
「軍の上層部に、わたしが人質であることを知らせて、そこから警察へ君らの要求を通してくれるように伝える、かな。君らがぎゃあぎゃあ騒ぐよりも、多分警察は真剣に受け取ってくれると思うよ。」
ヤンがぬけぬけと言うのに、また男たちが色めき立つ。リーダーらしい男は、腕を振って彼らを黙らせ、
「貴様がひとり死ぬのを、軍が惜しむと言う確信の理由は?」
分かり切ったことを、確認のためと言う風に、彼が重ねて訊いて来るのに、ヤンはうんざりした。はあ、とできるなら大きくため息を吐きたいところだった。
「イゼルローン要塞無血陥落の、作戦立案者で、作戦実行指揮官を、戦死以外で失いたいと、軍上層部は思ってはいないと思うよ。」
自分の有能さに疑問は抱かないけれど、それは内心だけのことで、こんな風にひけらかす下品さは持ち合わせていないと信じるヤンは、言いながら唇の端が曲がりそうになるのに、必死で耐えた。
現実には、ヤンの脳みそを惜しみはしても、ヤン自身が死んでこの世から消えることに異論がない人間の方は案外多いだろうことは、この場ではおくびにも出さない。
上層部へ話が伝わろうと伝わるまいと、その後で上層部が警察へ働き掛けようとどうしようと、ヤンにはどうでもよかった。肝心なのは、ともかくも軍へ、ヤンが今ここで人質になっていることを知らせることだ。第13艦隊の面々へ、ヤンの居所が伝わればそれでいい。ヤンがひそかに求めているのはそれだった。
同盟の英雄が、自分たちのリーダーを救う手助けをしてくれるかもしれないと言う希望を、彼らは確かに抱いた。その空気の、小さな輝きを、ヤンは見逃さなかった。
「とりあえず、女子どもは、足手まといになる前に解放した方がいい。人質の一部を逃がせば、それだけ君らへの心証もましになる。要求が通った後のこともきちんと考えるべきだ。妊婦なんて、いつ産気づいたり倒れたりするか分からない。医者を呼ばなきゃならない騒ぎなんて、わたしならごめんだね。邪魔になるだけだ。わたしひとりなら、君らが一緒に連れて逃げるのも楽だろう。」
ヤンはいかにも鬱陶しそうに、背後の、腹の大きな女性に向かってあごをしゃくった。
「女子どもをかばう英雄どのか、まったくできたお人だ。」
馬鹿にしたように男が言う。そう言いながら、妊婦なぞ、危なくなったら放り出して見殺しにすればいいとは言わないところに、この男の人の良さが現れている。ヤンは表情を消して、声を低めた。
「子どもは嫌いなんだ。傍にいられると神経に障ってね。わたしもできれば、人質と言う不愉快な事態を、少しでも自分のためにましにしたい。エル・ファシルで散々嫌な思いをさせられてね、民間人に付き合わされるのはもうこりごりなんだ。」
ヤンの演技が通じたのかどうか、背後から、失望と言う大きな字が背中に張り付く感触があった。所詮英雄と呼ばれても、ただの軍人、人殺しだと、人質の彼らが思うのが伝わって来る。
もし裁判になったら、ヤンがこう言ったと、彼らは揃って証言するのだろう。演技だったと言って、ヤンの言い分が通るかどうか、どちらにしても記録に残る。ユリアンはどう思うかなと、ヤンはちくりと胸の奥に痛みを感じながら思った。
演技と思われない方がいいと、ヤンは唇の端をこっそり噛む。
「君らだって、この人数を見張るよりは、わたしひとりを相手にする方が楽だろう。お互い、無駄と面倒はできるだけ排除しないか。」
数拍分の沈黙の後、男が銃を下ろし、よかろう、と短く言って、仲間たちへあごを振って見せた。
外へ向かって、人質を一部解放すると伝えられ、それからしばらくして、まず女たちがふたりずつ、奥へ向かって連れ出されて行った。
あの妊婦と彼女の息子は真っ先に連れて行かれ、女の方は立ち上がりながらヤンをにらみつけ、けれど男の子はヤンへ向かって小さく手を振り──ヤンはそれに応えなかった──、それを見た彼女は、目の色をやわらげ、何か言いたげにヤンを見つめて、それから姿を消した。
彼らは時間を掛けて人質の数を減らし、ヤンがひとり残るまで、1時間以上掛かったろうか。
人質たちは、保護された直後に、当然中で何が起こったのかを警察に説明した。エル・ファシルの英雄、ヤン・ウェンリーがひとり人質に残り、軍へ救助を求めている、彼らの要求通りにしてくれと、自分を死なせないでくれと、そう言っているのだと伝えた。
これよりはるか以前、銀行襲撃のニュースが流れた直後、ヤンの今日の予定を把握していたフレデリカ・グリーンヒルによって、勤務中の幕僚たちに、ヤンがテロリストグループの銀行襲撃のその場にいた可能性が高いことが即座に伝えられた。
キャゼルヌはすぐに出来る限りの伝手を使って警察に手を回し、出動、そして現場を包囲はしても、特殊部隊突入等の権限は制限され、ヤン救出の名目で、シェーンコップ准将指揮の元、突入のためにはローゼンリッターがひそかに配備される、と言うところへこぎつけた。
「ヤン・ウェンリー中将に、こんな下らない死に方をさせたいんですか。半個艦隊でイゼルローンを落とすと言う無茶をさせたのなら、軍は多少その恩に報いても罰は当たらんと思いますがね。報奨金で手当て済みとおっしゃるなら、その額で、そちらこそ是非イゼルローンを落としに向かいたかったのだと、こちらが理解しても間違いではないと?」
キャゼルヌは毒を隠しもせず、思いつくあらゆるところへ噛み付いた。イゼルローン、ヤン・ウェンリー、エル・ファシル、誰しも黙らずにはいない言葉を使えるだけ使って、自分たちが直接ヤンを救いにゆくと言う件を強引に通す。
ムライすら、ちょっとはらはらと、あちこちへ連絡を入れ続けるキャゼルヌの、こめかみに走った青筋の震えの止まない様に、キャゼルヌと同じような仕草で眼鏡のずれを直す掌の奥から、動揺の目配せを隣りのパトリチェフへ、ひそかに送っていた。パトリチェフは笑いの消えた口元を結んだまま、何も言わずにいる。
ヤンなら、どうにかして人質の数をできるだけ減らすだろうと言うキャゼルヌの読みは当たり、人質は数人ずつ中から出され、解放された彼らの口から、どう見ても無謀な計画の見た目通り、実際にもあまり賢明ではない彼らのやり口が語られると、一瞬だけ緊張がゆるみ、その場で苦笑すら漏れ掛ける始末だった。
「ヤンの言いなりに人質を放す連中だ、根っからの悪人じゃなさそうだが、痛い目には遭ってもらおう。」
キャゼルヌが、疲れたようにため息を吐きながら、中指の先に眼鏡をずり上げて言う。にやっと唇の端を上げたシェーンコップへ向かって、
「素人テロリストだが、人質は素直に解放した連中だ、できるだけ殺すなよ。あんたにはそっちの方が十八番だろうが、明らかに軍の横槍だからな、人死には、イゼルローンを落とした時程度にしてくれ。」
イゼルローンと言われて、ちょっとシェーンコップが口元を引き締める。
「提督に命の危険がある場合は──?」
もう今この瞬間にも、ヤンを助けに走り出しそうなシェーンコップが、少々嫌味ったらしく訊いた。
その嫌味の口調も、今日ヤンと行き合った時に、強引に護衛を申し出なかったことへの後悔の裏返しだ。ヤンに毛筋ほどの傷もつけさせるかと、すでに現場に心は飛んでいる。頭の中で、銀行のある建物の内と外のあれこれを思い浮かべて、それぞれに配置するローゼンリッターの隊員たちの名は、もう頭の中でリストになっている。
「その時は、現場で判断してくれ。軍にとっては──オレたちにとっては、とにかくヤンの無事が最優先だ。」
大きくうなずいたパトリチェフの隣りで、ムライが、完全に同意はできないがと言う風に、それでもごくかすかにあごを胸元へ引き寄せた。
「まあ、何とかなるでしょう。」
内心のざわめきを押し隠して、奇妙にのどかに、シェーンコップがつぶやく。
この男なら、何とかなるではなく、何とかするのだろうと、その場で皆が思った。そうしてシェーンコップは、その期待通りに動いた。
銀行の入った建物には、複数の裏口があり、最も目立つのは階段のある出入り口だったけれど、今人質たちの出て来るそこは警察に任せて、ローゼンリッターたちは1階のカフェの厨房の出入り口、1階の階段とエレベーター裏へ通じる口を数名ずつで見張る。
女性と子どもの後で、男性たちが続き、人質の解放が済んだタイミングで、シェーンコップたちは、窓の少ない側から、隣りのビルを伝って屋上から最上階へ潜入を果たした。
そこが手薄だったのは、単純に手が足りなかったのかどうか、あるいはそれも計画の杜撰さの表れか、もっとも人数を割いたところで手練れのローゼンリッターを押し返せるわけもなく、防弾ベストもなく、ヤンに渡したきり、替えのスカーフも着けない普段のまま軽装のシェーンコップは、最上階の廊下へ真っ先に走り込むと、そこの壁に、ガラスのケースの中へ収められた非常用の斧を見つけ、耳まで裂けるような笑みを浮かべた。
できれば誰も殺すなと言われて、携えて来たのはブラスターだけだったから、陸戦部隊は現地調達が基本と、口の中でつぶやいて、ブラスターの尻でそのガラスを叩き割った。
途端に、ジリジリと非常ベルが響き渡る。灰色がかった白の壁を揺すり上げるような音に、シェーンコップはさらに可笑しそうに唇を吊り上げ、たった今得た斧を手に、降りる階段を求めて走り出した。
リンツたちが追って来る足音を背負い、目の前に現れる、ローゼンリッターから見れば素人同然のテロリスト──もどき──たちが、銃を構え直す間も与えずにその懐ろに飛び込んで、さっさと振り上げた斧の、刃ではなく柄の方で横ざまに腕か肩をなぎ払ってやる。骨を叩き折った感触の後に、マシンガンが床に落ちた音がして、それはもうリンツたちに任せて、シェーンコップはただ走り続けた。
獲物を追って森を走り抜ける獣さながら、シェーンコップは灰褐色の瞳に、濃い光を閃かせて、一心不乱にヤンを求めて走った。走り去る後には、血の跡と苦悶のうめき声が残る。
ヤンがその目を見れば、恐らく一瞬見惚れた後でたしなめたろう。闘争本能とアドレナリンだけに血管を満たしたシェーンコップを見て、怯えはしなくても、やれやれとあの困惑の苦笑を浮かべて、頼むから無茶はしないでくれよと、小さな声でぼやいたろう。
キャゼルヌにそう言われた通り、そしてヤンもそう求めるに違いない通りに、シェーンコップはひとりも殺さずに前に進んだ。シェーンコップと出会ってしまった、この場の敵の誰も、しばらくひどい負傷の痛みに泣き喚くことになるだろうけれど、死なずに済んだ幸運を果たして理解するものかどうか、どちらにせよ彼らは例外なく、彼らのリーダーが今そうあるように、刑務所の類いのかどこか、そんなところへ勾留され、そこで考える時間だけはたっぷりと与えられるのだ。
叩いて裂けた皮膚と肉から吹き出た血が、いつの間にかシャツの前とスラックスの腿の辺りを濡らし汚している。斧も血にまみれ、シェーンコップの頬にも血飛沫が散っていた。
自分の、悪鬼のような姿に覚えもなく、シェーンコップはひとり走り続け、そして殺しはせずに、敵の血を浴び続けた。
階段を、飛び降りるように駆け下りて、踊り場で対峙した、自分より頭ひとつ分大きな男は、腕だけではなく足も叩き折って倒れたその大きな体を飛び越えて進み、落としたマシンガンはきちんと拾い上げて、下の階へ放り出しておいた。
斧を振るたび、いつもの戦斧とは重さも感触も違うそれが、それでも一向に変わりもなくシェーンコップの中の炎に、敵の血と言う燃料を注ぎ続け、突き進んで来るシェーンコップに恐れをなしてか、もう誰も背を向けてさっさと逃げ出してゆく。
逃げろ、殺されるぞ、と言う声が聞こえた。
殺しはせんさ。シェーンコップは走りながら考える。何しろ、それがあの人の望みなんでね。またにいっと、唇の端が上がる。
無駄な人死を嫌う大量虐殺者。殺さないよう手加減している人殺し。まったくオレたちはお似合いじゃないかと、シェーンコップはひとりごちた。
走り続ける足は止まらないまま、ヤンが囚われているはずの2階が、もう目の前だった。
人質がヤンひとりになると、男たちは明らかに気を抜いた様子で、何人かは、煙草を吸いにゆくのかどうか、奥の方へ姿を消すこともあった。
この場のリーダー格の男は、ヤンの前から1歩も離れずに、銃口もほとんど動かさずに、ヤンをひとりできちんと見張り続けている。
この男だけは、この計画の成功に真剣なのか、他の連中が皆暑がってスキーマスクを外してしまったのに、ひとりだけまだ顔を隠したままだ。
ヤンは穏やかに、彼に話し掛けた。
「それ、暑いだろう。取ってしまったらどうだい。みんなもう外してしまっているよ。」
ヤンの、いかにも害意のなさそうな外見に、男も安心はしているのか、逡巡の後で、マシンガンを下ろし、片手で抜き取るようにスキーマスクを剥いだ。弱々しい薄い金髪がめちゃくちゃに乱れて、蒸されて赤くなった顔を縁取り、垂れた目も色の淡い、ヤン以上に穏やかそうに見える男だった。
唇の辺りをいじってからまたマシンガンを構え直し、男は色のないその唇を不明瞭に動かした。
「ヤン中将、あんた、家族は?」
「結婚はしていないが、養子で男の子がいるよ。今日も実を言うと、その子名義の口座のためにここに来たんだ。」
「赤の他人に、金を残してやろうってのかい。さすがエル・ファシルの英雄さまだ、お人好しも筋金入りだな。ついでにたっぷり生命保険も掛けてやっときゃよかったな。そうすりゃその子は億万長者だ。」
「軍は湯水のように金を使うが、我々軍人は、戦うばかりで給料を使う暇もないのさ。それを、きちんと使ってくれそうなところに残しておくだけだよ。」
男の挑発には乗らない振りで、ヤンも穏やかな口調は崩さずにそれでもきちんと煽ると、男の方がむっと黙り込んだ。
生命保険──そこそこの金額──の受取人はとっくにユリアンにしてあるさと、ヤンは感情は出さずに、男へ向かって考える。
「君の方こそ、家族は?」
「さあてね、どこにいるやら。」
厚い、けれどあまり良いとは言えない暮らしでかどうか、やや丸まってしまった肩を男が大袈裟にすくめて見せる。男の言う家族が、妻子のことか親兄弟のことか、ヤンは特に興味はなくそこで話は途絶え、男も、自分の身元など根掘り葉掘り訊かれたくはないだろうと、ヤンはその家族とやらの話題を、別の方向から続けることにした。
「仲間や、今捕まっている、君らのリーダーと言う人が、今の君の家族と言うわけか。」
ちょっとしんみりしたヤンの言い方に、男は胸を突かれたような表情を咄嗟に浮かべ、その痛みを隠すように、鋭くまたマシンガンの銃口をヤンに突きつけて来る。
「退屈なのは分かるが、少し黙っててもらおうか中将さん。あんたとのんきにおしゃべりするために俺たちはここにいるんじゃないんだ。」
おまえに何が分かると言いたげに、男は声を尖らせた。
警察からまだ、リーダーを解放すると言う返答の来ないことに、そろそろいらいらし始めてもいるのだろう。13艦隊の方はどうなっているかなと、ちらりと部屋の奥の方で、すっかり銃を下ろして無駄話をしている男たちを見てから、ヤンは言われた通りに黙った。
確かに待つだけなのは退屈だ。ヤンは手持ち無沙汰に肩をすくめ、ふとあごを埋めたスカーフから良い香りがするのに間遠な瞬きのように目を閉じ、シェーンコップに、きちんとこのスカーフを返さなければと考える。
もう少ししたらきっと、ヤンが請け負った──そのつもりはないけれど──軍からの要請に、警察の応答が遅いことについて、文句が出ることだろう。エル・ファシルの英雄の影響力も言うほどじゃないと、彼らが怒り出した時に、彼らがヤンをどうするか、ヤンが彼らにどう対するか、ここまで来て自分を殺すことはしないだろうと、思うのは希望的観測かどうか。
軍も警察も、上から下へ色々伝わるには面倒な手続きが必要なんだよ。時間が掛かるものなんだ。君らが直に交渉していたら、多分季節が変わってしまうねと、軽口でも叩いて、彼らをもっと怒らせるべきか。冗談めかしてヤンは考える。
その心配はけれど、杞憂に終わるだろう。もうそれほど時間は掛からない。ヤンには確信があった。そしてそれは正しかった。
誰かが冗談でも言ったのか、どっと何か笑い声が向こうで立ち、それへ、ヤンも含めた皆の視線が集まった時、突然ジリジリと非常ベルが鳴り響いた。
来た、とヤンは思った。
男たちは及び腰になりながらも銃を胸の前へ抱え直し、互いの顔をうろうろと見回して、ヤンの目の前の男が何か言うかと期待の視線を投げて来る。
「一体何だ! 警察か。」
男が怒鳴ると、皆不安気に、分からないと首を振る。様子を見て来るとは誰も言わない。誰かが入って来そうな辺りから遠ざかり、彼らは自然に、再びヤンの前に集まって来た。
「──武器を捨てて、今すぐ投降した方がいい。」
ヤンが、彼ら全員に聞こえる声──部下へ命令する時に使う声──で、床から振り仰ぐように言う。
「あれは多分、警察ではなくわたしの部下だ。」
「あんたの部下?」
「イゼルローンを素手で落とした男だ。君ら風に言うなら、正しく戦争の犬だ。彼の前では、わたしは恥ずかしくて軍人なんて名乗れない。彼なら片手だけで、君らを皆殺しにしてしまうよ。」
「あんた最初からそのつもりで──」
後ろの方で誰かが喚く。ヤンは怯まず、眉ひとつ動かさず、肯定も否定せず、ただ黙って男たちの顔をひと渡り見回した。
「こんな計画が成功するなんて、最初から思ってやしなかったんだろう。君らはまだ誰も傷つけていないし、今諦めれば、君らの誰も死なずに済む。頼むからさっさと投降してくれ。」
貴様、と歯ぎしりの奥から、誰かがうめいた。
無駄死にを選んでくれるなと、ヤンはそのうめきに、内心で歯噛みしながら応えている。
この建物の中を、血まみれにしながら進んで来るシェーンコップの姿が、はっきりと見えた。あの男なら、殺す必要もなく、身動きできなくするだけで十分だと判断してくれるだろう。そのために、人質を解放させたのだ。悪人ではないのだ。ただ情熱の方向を間違えただけの、ただの、市井の人々。やり方を間違えた罰が死では、少しばかり重過ぎる。
戦争に民間人は邪魔だ。軍人同士、そのために訓練され、そのためと悟り切っている者たち同士の争いに、どうかとどめさせてくれ。
政府のやり方に、異議を唱えたいのはヤンも同じだった。それでも軍人として、この男たちに賛同するわけには行かなかった。
ヤンがそう願うのが、伝わったのかどうか、後ろの方からかかとを引きずる音が聞こえ、
「お、オレは下りる!」
ひとりがそう言い、マシンガンを床に置いて走り出した。両手を上げ、まるで踊るような姿で、カフェのある1階へ下りる表の階段へ向かってゆく。おれもと、その後へ、次々と別の背中が続き、床にてんでに置き去りにされたマシンガンの光景が寒々と、ヤンの前にひとり残った男の背後に見えた。
階段を降り切ったらしい男たちは、ローゼンリッターか、警察か、そのどちらかに拘束されているらしい動きが伝わって来て、けれどヤンがそうなるよう祈った通り、発砲の音は聞こえては来ない。
まだ床に坐ったままのヤンの額へ、男はぴたりと銃口を向け、目を血走らせ、首筋と頬を真っ赤にしていた。
そして、こちらに、ほとんど飛ぶように近づいて来る足音。軽快な、とても素早い、独特のリズムに乗ったその音を、ヤンは懐かしく聞いた。
「お迎えに上がりました、閣下。遅くなりまして、申し訳ありません。」
右手に斧を下げ、左手にはブラスターを構え、坐ったままで銃を突きつけられているヤンをそこに見つけても、シェーンコップは不敵な笑みを消さず、止まらずつかつかと部屋の真ん中へ進んで来る。
利き腕でなくても銃は撃てるのか、すごいなと、ヤンはのどかに考えていた。
男は銃を構え続けてはいても、シェーンコップの血まみれの、悪魔のような──とても美しい──姿に怯え驚いて、
「な、仲間は──みんな・・・殺したのか──。」
もつれる舌を必死に動かして、そう間抜けに問うのに、シェーンコップは軽く首を振って見せた。
「手か足か、その両方かはへし折ったが、命までは取らんさ。そういう命令だ。」
「・・・命令──?」
男が、またヤンへ顔の位置を戻して来る。ヤンはただ、男へ向かって肩をすくめて見せた。
シェーンコップは、男から2メートルの辺りで足を止め、
「閣下を返してもらおう。閣下が無傷のままなら、おまえも無傷で済ませてやる。」
シェーンコップの瞳に、紫色の影がひと筋走る。ヤンはそれを見てちょっと目を見開き、シェーンコップの感情の昂ぶりが、自分が制御できるレベルであることを祈った。
戦闘モードのシェーンコップを、こんな間近に見るのは初めてだった。男に見えているのかどうかは分からなかったけれど、肩や腕の辺りから白っぽい炎めいた、空気の揺れがヤンにははっきりと分かる。体温の上昇が確実な、その首筋は、大きく脈打っているのがそこからでも良く見えた。今触れたらやけどしそうだと、ヤンはぼんやり思って、筋肉の張った首筋が丸見えなのは、自分がスカーフを借りてしまったままだからと、さらに考えた。
将官に昇進して、新たに与えられた軍服とその印のスカーフ。それはまるで、ヤンがシェーンコップに着けた──シェーンコップがそう望んだ──首輪のようだと、なぜか今そんなことを思って、ヤンは無意識に指先にシェーンコップのスカーフを探っている。
その首輪が、今シェーンコップの首にない。さて、どうなるかなと、ヤンは少しだけ不安になった。
「中将さん、あんたの──この男が、あんたのよくできた部下とか言う・・・優秀な、戦争の犬か。」
シェーンコップを怒らせる意図かどうか、男はぼそりとそんなことを言った。ヤンは真っ直ぐに男を見つめて、あえて男の言葉をそのまま口移しにする。
「そうだ、この男が私の部下で──とても優秀な、わたしの犬だ。」
意味もなく、ヤンの声に親密さがこもる。同時に、どこか悲しげな音(ね)も加わって、ヤンはそれを自分で不思議に思った。
シェーンコップは不愉快ではなく、ヤンに犬と呼ばれてむしろ得意げに、反らすように胸を張る。血まみれのシャツの下の筋肉の形がそこに現れ、男はシェーンコップの、軍人として極限まで鍛えられたあらゆる側面をそこに見たのはどうか、自分の、荒れた手を比べるように見下ろして、ふうっと大きく息を吐いた。
男の目に、あまりの惨めさにもう死ぬしかないと思い決めた自暴自棄の光がふと宿り、ヤンはそれを見た瞬間、男に向かって叫んでいた。
「やめろ。死ぬなんて考えるな。」
ヤンの珍しい声の鋭さに、シェーンコップが驚いてあごを引く。男はもっと驚いて、内心を見抜かれた羞恥にか、ぎりぎりと奥歯を食い縛った。ヤンは激しい語調のまま、その先を続けた。
「君が死んだら、一体誰が、君たちのリーダーを救おうとするんだ。彼を救いたくて、こんな無茶をしたんだろう。こんな作戦が成功なんてするはずがない、君だって分かってたはずだ。それでも彼のために、君らは無理を承知で決行したんだ。そのくらい、君の、大切な人なんだろう。君が死んで、その大切な人を悲しませたいのか。自分のせいで死んだと、彼を嘆かせたいのか。」
ヤンはその場に膝立ちになり、胸の辺りへ銃口が当たるのにも構わずに、男へ語り掛け続けた。男は呆然とヤンの言葉を聞き、うつろに、時折シェーンコップを見やり、それから口の中で何か言葉にならない音を発し、ついに震える手で、のろのろとヤンへマシンガンを差し出して来る。
男の顔と銃を交互に見て、ヤンがそれを受け取った瞬間、シェーンコップはヤンへ駆け寄り、ヤンを男から引きずり離した。
空手になった男はその場へ身を揉むように投げ出し、両手で床を叩きながら、声を放って泣き始めた。その震える背を、やるせなく見つめるヤンを自分の傍へ引きつけて、シェーンコップは油断せず男へブラスターを構えたままでいる。
男を拘束しなくてはと思ってまだ数秒、シェーンコップはヤンを抱き寄せて動かない。
男と男の仲間たちは全員、ローゼンリッターから警察、あるいは救急隊員の手に渡された。
すでに到着していたメディアの目を避けて、ローゼンリッターの隊員たちは速やかに現場から姿を消し、この件に軍が関わったと言うことは徹底的に秘され、これもキャゼルヌの根回しで、公式の発表ではヤンの説得で襲撃の主要メンバーたちが投降、警察の突入部隊と衝突時に負傷した者たちは重傷ではあるが命に別状なし、人質には、ヤンを含めて一切の負傷なし、と言うことになるとひそかにヤンに伝えられた。
エル・ファシルの英雄再びと言う見出しが、新聞や雑誌に踊るのが目に見えるようで、ヤンはやれやれと隣りのシェーンコップの肩へ頭をもたせ掛けて、
「こういうのはどう言ったらいいのかな、超過勤務でもなし、軍の任務ではもちろんなし──」
「外勤とでも言っておきましょう。」
警察の、覆面パトカーの中で、軍服を隠すために毛布にくるまって、事情聴取へ向かう前のひと時、ふたりは武器も何もない空手にただ互いを抱いて、シェーンコップはまだ乾き切らない血の汚れを気にしながらヤンに寄り添っている。
「提督──よく、ご無事で。」
今さらのように、ため息混じりにシェーンコップがつぶやく。唇に近いヤンの髪が、その息にそよいだ。
「わたしがあそこにいると伝われば、君が来るだろうと思ってたから、心配はしてなかったんだ。君こそご苦労さま。」
ねぎらいの、紅茶もコーヒーも酒もここにはない。ヤンはそれを残念に思いながら、もっと近くシェーンコップへ体を寄せる。自分より体温の高い、あたたかな体が、今はひどくありがたかった。
「君を犬と言って、ごめんよ。」
自分を包み込む長い腕の中に静かに収まって、額に触れて来るシェーンコップの柔らかな髪の先へ知らず目を凝らして、ヤンは小さな声で唐突に詫びた。シェーンコップは身じろぎもせず、
「何でも閣下のお好きにお呼び下さい。私は確かに、閣下の犬ですから。」
そう言ってから、
「・・・私はあなたの、優秀な犬ですか──。」
可笑しそうに言い足した。ヤンはいたたまれなさに首を縮め、そうしてまた、あごの先に触れるシェーンコップのスカーフの、今シェーンコップから直に香る同じコロンの匂いへ、血の匂いを避けて、ヤンは目を細めた。
「優秀過ぎて、まったくもってわたしにはもったいないね。」
「提督も、私にはもったいなさ過ぎる上官ですな。」
わざと上っ面に互いを讃え合うのが、本音を隠すためなのだと互いに伝わっていて、今は疲れの勝った空気の中、どうしても口数は少なくなる。
このまま眠ってしまいそうだと思いながら、ヤンは寝ぼけている振りで、ぼそりと口を動かした。
「人質の中に、男の子がいてね──一緒の母親が妊娠していて・・・。」
ヤンの方へ瞳を動かし、ええ、とシェーンコップが相槌を打つ。
「ついユリアンを思い出してしまったんだが・・・その子の髪の色が、君のによく似ていたんだ。」
瞬きで伏せられたシェーンコップのまつ毛が、ヤンの髪に触れた気配があった。
「それで、人質を解放するように奴らに言ったんですか。」
「いや、そういうわけじゃない。その子がいなくても、人質は解放するように言ったよ。わたしが守れるのは、せいぜい自分ひとりだけだからね。」
初対面の、ローゼンリッターからの扱いを思い出してか、ヤンが苦笑を混ぜる。一緒に、シェーンコップも小さく笑った。
ヤン自身は自覚のない、慈しみのこもった声が、ゆったりと続いた。
「怖い思いをさせはしたが、あの子とあの子の母親が、少なくとも怪我はせずに済んで良かったと、そう思っただけさ。」
「あなたらしい物言いですな、ヤン提督。」
からかうように言うのが、シェーンコップの真の褒め言葉だと知っているヤンは、ごまかすようにまた笑って、そうしてそれきり、ふたりは居心地の良い沈黙へ一緒に沈み込んで、やっと警官が乗り込んで来るまで、そこで半ば微睡んでいた。
パトカーが現場を後にしてようやく、ヤンの中でこの事件は終わりを告げた。
後日、自分たちをあの場で邪魔者呼ばわりしたヤンの真意を理解した、例の妊婦の女性から、生まれて来るのが男の子なのだが、ウェンリーと名付けたいがどうかと言う手紙が来て、ヤンはそれに、ウェンリーよりもワルターはどうかと提案し返す返事を送った。
シェーンコップと似た髪色の男の子の弟が、ウェンリーと名付けられたのかワルターと名付けられたのか、それとも他の名前に決まったのか、ヤンの返信に対して母親からの返事はいまだない。