* コプヤンさんには「私に少し足りないものは」で始まり、「本当は知っていた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば10ツイート(1400字)以内でお願いします。
敗退
「私に少し足りないものは──」そう言いながらシェーンコップが、恐ろしいほど爽やかに微笑んで、ヤンに向かって腕を伸ばして来る。
肩でも掴まれるかと思ったその手は、ためらいは微塵もなくヤンの頬へ触れ、そのまま耳朶へ指先が伸びて、ヤンの顔半分を包み込んで来る。
触れてからひと呼吸に足りない間(ま)に、もう鼻先のこすれ合う近さへ寄って、シェーンコップは自分の全身が発する圧力を自覚していて、それでヤンの全身を覆って来るのだった。
「一体、何を──」
上ずる声のあちこちがかすれて、明らかにこんなことには不慣れなのを隠す余裕などなく、ヤンは唇だけでなく指の先や膝の辺りまで震わせて、肉食獣に追い詰められた小動物みたいに、身動きできなくなっていた。
気がつけば背中は壁にくっつき、胸や腹にはシェーンコップの上半身が触れて、圧死と言うのはこんなものなのかと、我ながらわけの分からないことを考えている。
「スキンシップを・・・。」
シェーンコップがそう答える息が、ヤンの唇に掛かる。その唇を、一度真一文字に結んで、
「間に合ってるよ。」
言葉の始めと終わりに、ヤンはせいぜい上官の威厳をこめた。
もちろんそれは、この年上の部下に鼻先で笑い飛ばされる。それでも、ヤンに対する敬意のために、明らかに無礼と言う態度ではなく、優しく、諭すような表情を浮かべてはいた。
いつの間にか、シェーンコップの両腕は、ヤンの腰へ回り、もう一方の手はうなじへ添えられ、陸戦部隊の人間にそうされれば、ヤンなど身じろぎもできず、今は互いのまつ毛の数の数えられる近さから、1ミリも後退はできそうになかった。
力の強さにも関わらず、ヤンに触れるシェーンコップの手指はただ優しく、穏やかとは言い難くても、害意などないのだと、その掌の熱さが伝えて来る。
そうして、ヤンはと言えば、その熱に酔ったようになりながら、結局自分はこの程度の強引さを示されなければ、この男に対して素直になれはしないのだと、もう何度目か思い知っていた。
ヤンの築いた、対人の壁を悠々と飛び越えて、シェーンコップは挨拶も前触れもなくヤンに触れて来る。ヤンの抵抗の程度と態度で、ヤンの本音を的確に読み取って、自分がそうしたいからそうするのだし、あなたもそうされたいのですよと、シェーンコップの手指ははっきりと告げていた。
それに、ヤンは反論できないのだった。
「私には必要ですので。」
ヤンの本音の隠せない、全身の表情を自分の体で覆い隠して、シェーンコップがさらりと、けれどどこか凄みと重みを含んだ声音で言う。
ヤンは敗けた振りをする。不敗のふたつ名など、この男の前では何の意味もなく、ヤンが振り捨てたいと常々考えているその名を、シェーンコップは雑作もなくヤンから剥ぎ取ってしまう。
ごくかすかに湧く、感謝の意とは裏腹に、ヤンはあくまで迷惑だとか困るとかそんな様子を消さずに、上目にシェーンコップを見ながら、闇色の瞳が今は珍しく奥行きと潤みを増しているのには気づかない。
押し返すような素振りで、シェーンコップの肩へ手を置き、その掌をいつ、額から頬へ美しく流れる髪へ移動させようかと、ヤンはその潮を窺っていた。
色違いの前髪が、触れ合い、ふたりの額の間で絡み合い、もう少しで触れ合いそうな頬や唇よりひと足先に、冷たいはずの髪の先からふたりの熱を伝え合っている。
必要だと言うのはシェーンコップで、ほんとうにそれが必要なのはヤンで、けれどヤンがそんな言葉を発さずに済むように、ゆっくりとシェーンコップの唇がヤンに触れて来る。
ヤンの脳みそをいっぱいにする様々の言葉を、シェーンコップの唇が覆い、吸い取り、飲み込み、ヤンがそれを口にせずに済むように、こんな形で示される優しさを知らないヤンは、まだ戸惑うしかできないのだった。
勝つでも敗けるでもないこの男とのささやかな闘いに全身を預けて、敗けることを許されている心地好さをこの男が与えてくれる、ほんの数瞬先を期待して、視界にはもうシェーンコップしかいず、世界にはシェーンコップしかいず、在るのはシェーンコップの体温だけで、ヤンはもう何もかも放り出してそこへ漂い出している。
ヤンの手は、いつの間にかシェーンコップの髪の中へもぐり込んでいる。逃さないように、指に絡んだ髪をぎゅっと握り込んでいる。この熱さが必要なのだと、素直に言う自分の声を聞いて、束の間様々の自分の貌(かお)を忘れて、自分は今誰でもないのだとヤンは思う。
提督、とささやくシェーンコップの声を聞いて、言葉の意味ではなく言葉の音(おん)に耳を傾け、その音に含まれる真の意味を聞き取りながら、本来の堅苦しさなど、この嵩張る軍服と一緒に脱ぎ捨ててしまえればと、思う自分がいることを、ヤンは本当は知っていた。
ヤンがそう考えていることを、今はまだシェーンコップは気づかない振りをして、軍服の中にふたり一緒にとどまりながら、ヤンが辺りへ巡らせた壁を、自ら飛び越えて来るのを辛抱強く待っている。
その壁にひびの入る、小さな小さな音を聞いたのは、ふたり一緒だった。