秘密の暗号
「これ、何ですかね。」後ろの方のテーブルから、誰かの声がした。飲んだ後の紙コップやら、食堂から持ち込んだ食べ物の後始末をしていた隊員のひとりが、傍にいた副連隊長のブルームハルトへ差し出して来たのは、よれても折られてもいない、ぴしりときれいな紙ナプキンで、使われた様子のないそれには、ペンの字で何やら書いてある。
誰かがメモ代わりにしたものと思えたけれど、その書かれた内容がちんぷんかんぷんだった。
「何だ、数字か・・・時間だろうこれは。」
日付と時間らしいと言うのは分かるのだけれど、その下にある文字が誰にも読めないのだった。
「字なのか、これ・・・?」
ブルームハルトが両手に、紙ナプキンを伸ばすように持って、そうすればその文字──一体これは文字なのか?──の意味がそこに浮かび上がって来るとでも言うように、目元に近づけたり遠ざけたりした。
捨ててもいいのだけれど、大事な内容なら失くした誰かが困るだろうと、皆で思案していると、部屋のいちばん向こう側にいたリンツが様子を見にやって来る。
「何だ、どうした。」
「これ、誰のですかね。」
ブルームハルトに差し出されたそれを受け取って、リンツも顔をしかめる。
「執務室のドアにでも貼っておけば、忘れたヤツが取りに来るんじゃないのか。」
「いやでも、秘密のメモだったら晒しものじゃないですかそれじゃあ。」
「日付と時間だけで、秘密も何もあるか。」
「でもこの絵か字みたいなの、見られたら困る暗号かもしれませんよ。」
ブルームハルトがそれを指差し、リンツに向かって真剣な表情を作った。
まさかと思ったけれど、その直線の連なりで書かれた、絵なのか字なのか、よく分からない3つのそれは、秘密の暗号と言われればそうらしくも見えて、けれどそんなものを、こんな紙ナプキンに無造作に書いて、挙句置き忘れて行くなどと言うことがあるものかと、リンツは冷静に考えている。
「そこのテーブルにいたのは誰だ。」
リンツが紙ナプキンを手に、回りを見渡しながら訊くと、ブルームハルトを含めて数人が手を上げ、
「他にもまだいたよな。」
とひとりが声を上げると、そうだなと数人がうなずく。
「ここに今いないのは誰だ。」
手は上がったまま、姿の見えない2、3の名前がそこから挙がる。
「あ、閣下もいましたよ。オレが負けるって方に賭けて、賭けに負けたらそのまま帰っちゃいましたけど。」
ブルームハルトが自分を指差しながら言った。
「また賭けか。ここではやめろと言ったろう。」
リンツが、奥行きの深いその美声を険しくすると、ブルームハルトが途端に泣きそうな顔をして、
「賭けるって言い出したのは閣下なんですってば。オレたちはやめようって言いましたよ。なあ?」
手を上げたままの隊員たちへ、同意を求めてブルームハルトが言うと、彼らはこの、いまだ可愛らしさの消えない副連隊長のために、深くうなずいて見せた。
まったくあの人はと、リンツは舌打ちしたいのを我慢して、やれやれと頭を振りながら改めて紙ナプキンへ視線を落とす。
ローゼンリッターの隊員たちから、閣下と、敬愛と畏怖の念をこめて呼ばれるシェーンコップの、大理石に刻まれたような横顔の線を思い浮かべて、あの、人の悪い笑みの迫力に誰も勝てない──現連隊長のリンツも含めて──から、リンツが一応禁止している賭けゲームを、あの笑顔でやろうと言われれば誰も逆らえないのだった。
それなら、この秘密めかして書かれた走り書きのメモは、もしかするとシェーンコップのものかもしれないと思いついて、ドアに貼り出しておくと言う方法は取らないことにした。ブルームハルトの言う通り、あまりに人目につきたくない類いの内容の可能性もある。シェーンコップの私物を晒しものにすると言うのは、あまりにも恐ろしいアイデアだった。
しかしこの、絵のような字のような、訳の分からない3つの形は何だろう。メモの書き方からすると、もしかして名前だろうかと考え始めた時、出入り口のドアが派手に開いて、たった今彼らが話題にした当人が、ちょっと険しい顔つきで部屋に飛び込んで来た。
無言でつかつか大きな歩幅でやって来て、自分がいたテーブルの回りに人が集まり、そのテーブルはすでにきれいに片付けられているのを見ると、はっきりと歯を食い縛った線が頬に現れる。
ああ、このメモはこの人のものだとリンツは確信して、
「閣下、もしかしてお忘れ物ですか。」
胸の前に掲げるようにしていた紙ナプキンを、さり気なく体の脇へ落として、他の隊員たちから距離を開けるように、シェーンコップへ2歩近づいた。
「・・・ちょっとな。」
リンツはさらに声を低めて、これですかと、そっと紙ナプキンをシェーンコップの方へ、書いた字が見えるように差し出した。けれどシェーンコップがそれを取ろうと伸ばした手から、すっと遠ざけてしまう。
何だ、と久しぶりに見る上官のちょっと険しい顔つきに、リンツは怯みはせずに、自分も顔を近づけた。
「ここで隊員たちを賭けに誘うのをやめて下さるなら、何も言わずにお渡しします。」
暗に、メモの内容の意味を知っていると匂わせて、そして他の誰にも聞こえない声で、リンツは上官へ秘密の取り引きを申し出る。有無を言わさず殴られて、メモを取り上げられるかとも思ったけれど、シェーンコップはリンツにやり込められて、素直に悔しそうな表情を浮かべ、
「・・・分かった、言う通りにしよう。」
歯ぎしりも混じるような、聞こえないほどひそめた声が、リンツの耳にはしっかりと届く。
シェーンコップのこんな言い方もこんな声もこんな表情も、銀河のどんな宝にも勝る稀少品だと思って、リンツはメモをわざとゆっくり差し出しながら、シェーンコップを観察する。これを描き取っておいたら、後で見つかって確実に殴られるなと思っても、もう頭の中でスケッチが始まっている。
リンツからメモの紙ナプキンを受け取ると、シェーンコップは来た時と同じに、黙って足早に部屋から姿を消し、何やら元連隊長と現連隊長の間の緊迫した空気を、皆息を止めて見守っていたのか、シェーンコップの姿が消えた途端、部屋中にため息がこぼれて満ちた。
「あれ、そんなに大切なものだったんですか。」
ブルームハルトが、皆を代表して、リンツに恐る恐る訊いて来る。
「知らん。何か作戦か機密か、そんなものの合言葉か何かだったのかもな。外に漏れたら困る内容だと、オレたちに知れたら元も子もないだろう。」
そう言ってごまかすのを、ブルームハルトは素直に信じて、なるほど、と周囲の隊員たちとうなずき合っている。見た数字のことは忘れようと言い合うのを横目に見ながら、泣く子も黙る薔薇の騎士たちの、この物分かりの良さはどうだと、それを従順と言い換えるのは今はやめて、リンツはメモのあの3つの形をまた思い浮かべている。
あの走り書きは多分、ヤンがシェーンコップに書いて渡した、逢い引きの約束か何かだ。あの3つの文字は、リンツの推測が正しければ、結びの言葉か何か、もしかすると、リンツたちの知らない言葉で、愛しているとか何とか甘ったるいことでも書かれていたのかもしれない。そんなものを執務室のドアに貼り出さなくてよかったと、リンツは改めて背筋にぞっと寒気を走らせた。
それはともかく、賭けの件でシェーンコップの言質を引き出せたのは、連隊長としての快挙だった。それにだけは、リンツは安堵の息を吐いた。
あの読めない形が、ヤンの名前だとリンツも他の隊員たちも永遠に知ることはないまま、幸いの方へ働いたリンツの誤解──誤解?──も、恐らく永遠に正される機会は訪れないだろう。シェーンコップを含めた皆にとってそれがいちばん幸せなのだと、誰も気づいていないにせよ。