分け合う夢
ねえ、と目の前に子どもが走ってやって来て、ベンチに坐っているヤンに手にしていた何かを差し出して来た。「これ、できる?」
小さな手には、色とりどりの四角いブロックでできた、立方体の玩具。各面を回して、1面1面を同じ色に揃えれば終わり、と言うおもちゃだ。
ヤンは、突然そんなことを言われて一瞬面食らい、そして、それを差し出して来た子に見覚えがあって、思わず微笑みを浮かべていた。
灰褐色のゆるやかに波打った髪、同じ色の瞳、伸びた手足のまだ細い、せいぜい10歳くらいだろうか。子ども特有の、まだ広がりも深みもない、甲高い声。顔立ちは、ヤンが知っているそれよりもさらに甘く線がほのぼのとして、今はまだあの、彫刻にしたいような鋭い端正さは薄い。それでも、きれいな子だとふと見惚れるくらいに、美しい少年──になり掛かり──だった。
「どうかな、やってみないと分からないな。」
「じゃあやってみて。」
彼は、ヤンの手にそれを押し付けて来る。仕方なく苦笑いしながらそのおもちゃを受け取り、ヤンはうつむいて、じきに色を揃える作業に夢中になった。
子どもはヤンの隣りに坐り、すでに大人と変わらないくらいに伸びた、けれどまだ細い足を投げ出して、ヤンの手元を熱心に見ている。
案外難しい。それでも、少しずつ色の揃い始める面を何度も何度も仔細に眺めて、ここをこうすれば、あっちをああすればと、ヤンは自分の手元に集中し、ついに全面をそれぞれの色に揃えて、子どもと一緒に、やった、と声を高くして喝采した。
「すごいね、もう1回やって!」
子どもは何事もない風に言うと、ヤンの手から玩具を取り上げ、くるくるとあちこちを回して再びブロックの色をばらばらに混ぜ、またヤンへ手渡して来る。
「ひどいなあ、せっかく揃えたのに。」
ヤンが思わず自分も子どもっぽく唇をとがらせると、子どもはへへっと小さく薄い肩をすくめて、いたずらっぽくヤンを隣りから見上げて来た。
その笑みにつられて微笑み直したヤンは、変わらない熱心さで玩具へ見入り、さっきよりも時間を掛けずに完成してやると、心の中でだけつぶやいて、ブロックの色へ目を凝らす。
ヤンと同じほど熱意を込めて、子どももヤンの手元を見ていた。
ヤンへ小さな体を寄せ、子どもの甘い匂いと高い、湿った体温を伝えて、ヤンは自分もその子と同じほど幼い子どもへ戻ったような気分で、また手の中でくるくるとブロックを回し始める。
2度目は、最初よりも少し時間が掛かったけれど、最初の時ほど悩まずに、戸惑わずに色が揃った。子どもはヤンと一緒に完成を喜んで、また色を元通り混ぜてしまう。3度目は、ヤンは文句も言わずに、すぐに色を揃えに掛かった。
ふたりで顔を近寄せ、一緒にヤンの手元へ見入り、1面ずつ、少しずつ揃ってゆく色に、一緒に声を上げてはしゃぐ。子どもは、ためらいも警戒もなくヤンの腕へ自分の両手を掛け、ヤンの肩へ自分の頭を埋め込むようにしながら、ヤンが少しずつ完成させてゆくそのブロックの玩具に、夢中になっていた。
子どもの汗の匂い、1日中外へいた埃の匂い、子どもだけが持つ目の輝き、つるつるとした手足のまぶしさが浴びる光を弾き返して、全身に弾ける力のこもる、まだ小さな、けれど圧倒されるような、子どもの存在感。
ああ、彼はこんな子どもだったのだと、ヤンは思いながら、玩具の面をくるくる回し続ける。
4度目、5度目、6度目、繰り返した数を忘れた頃、子どもはヤンの足へ頭を乗せて、手足を縮めて眠ってしまった。ヤンは上着を脱ぎ、彼の小さな体をそれで覆うと、再び玩具へ向き合う。彼の情熱のこもった視線も、応援も歓声もないまま、彼の寝顔だけを伴に、ヤンはひとりで黙々とブロックの色を合わせ続けた。
くるくる、くるくる、くるくる、くるくる。色がすべて合うたび、自分の傍らで昼寝を続ける子どもの目の前に──目は閉じている──それをかざして、まるで完成を報告して見せるようにしてから、ヤンは自分で色を混ぜ、また同じ遊びを始める。くるくるくるくるくるくる、手の中で面を回し、隣り合わせのブロックの色を並べて揃えて、ヤンの視界にはもう、色つきのブロックと、幼い寝顔しか見えない。
そうして、一体どれほど長い間、ヤンはそんなひとり遊びを続けていたのか、子どもは突然むくりと目覚め、起き上がって肩からヤンの上着を滑り落とし、ちょうどすべての色を揃えたところだったヤンの手元を、まだぼんやりと寝起きの目で見定めて、わあと歓喜の声を上げる。
彼はヤンの手から奪うように取ったそれを、大事そうに胸の前に両手で抱え、背を伸ばしてヤンの額へ自分の額をぶつけて来た。ごしごしと、動物がよくやる親愛の表現のように、ヤンの黒髪の前髪へ自分の前髪を絡めて、額をこすりつけて、
「ありがとう!」
ぴょんとベンチから飛び降り、またね、と言うと同時に、くるりと背を向け走り去ってゆく。
ヤンがさようならと言う間も、手を振る間も与えず、小さな体がぱたぱたと小さくなる。
風景の中に溶け込んでしまう様を見送っていると、向けている横顔がふと陰った。
「どうかしたんですか。」
今度は、坐っているヤンの2倍は背丈のある、肩も首も胸もぶ厚い、美丈夫。
さっきの子どもの彼よりも、この彼は髪の色も瞳の色もやや濃く、顔の造作はすっかり鋭くなって、ヤンはそれを見上げて、そして遠慮なく見惚れた。そして、その、底の広い深い声に聞き惚れる。
「何でもないよ。」
穏やかに、懐かしそうに自分を見るヤンの、その表情の意味を知っているような分かってはいないような、シェーンコップは笑みだけ浮かべて何も言わず、ヤンが脱いだ上着を取り上げた。
「行きましょう。」
手を差し出されて、ヤンはそれへ自分の手を渡し、もう一方の手は、傍らにずっとあった杖を持つ。杖に体の重みを預けて、シェーンコップに助けられながら、ヤンはやっとベンチから立ち上がった。
左の腿の銃槍が痛む。貫通して、もう塞がらない歪んだ穴の、裸になれば向こうが見通せるその傷は、ヤンを死なせた跡だけれど、今はもう歩くのに不自由すると言うだけで、憎しみも何も湧かない。
シェーンコップは後ろからヤンへ上着を着せ掛け、袖に腕を通す間は杖を代わりに持ってやった。
ああ、これは夢だ、とヤンは思う。子どものシェーンコップに出会った、他愛もない夢だ。見知らぬ、幼い彼。想像でしか知らない、子どもの彼。
20年も経つと、あの子がこんな風になるのかと、シェーンコップの腕へ自分の体を半分預けて歩き出しながら、ヤンは自分へ小さな体を寄せて来たあの子の、皮膚のぬくもりを思い出している。
ヤンの横顔へ浮かんだ微笑みへ、シェーンコップが尋ねるように頬を寄せて来る。
「どうかしましたか。」
また問われて、ヤンはもう一度、何でもないよと肩をすくめて見せた。
ヤンの肩口へ頭を乗せるようにしながら、その仕草が、幼い頃から続いて来たものだとシェーンコップには覚えはなく、ヤンの腕に触れる2種類の、違う自分の体温が、そこで入り混じりひとつになり、ヤンの脳のひだにゆっくりと刻まれてゆくのを、シェーンコップはヤンの首筋の辺りへ漂う空気に、そうとは意識せずに悟って、微笑みを消さないままヤンの肩から顔を遠ざける。
そうして、遠ざける途中に、ふと後ろを見やって、そこに子どもがふたり、手を繋いで走り去ってゆく背中を見た。
灰褐色の髪と黒い髪の、背の高さの頭ひとつ分違う、手足を絡めるようにして一緒に走ってゆく、幼い子どもがふたり。動物の仔のように、細い体をぶつけ合いながら、一体何が面白いのか、甲高い声を絡めて走ってゆく、薄い子どもの背がふたつ。
ああ、あれは、俺とヤン提督だ。シェーンコップは、夢の中特有の、すべてが辻褄の合う、理解に通じる世界の空気の中で、真っ直ぐにそう思った。
走り去る子どもの自分に見覚えはなかった。あんな子だったかと、赤の他人を見るように見て、そして、ちらりと見えた子どものヤンの、子どもの自分を見上げる無邪気な表情を一瞬の間に目に焼き付けて、ああそうだ、あれは俺たちだとまた思う。
これはヤンの夢のはずなのに、一体いつシェーンコップの見ている夢になったのか。
ふたりはかすかに不思議を感じながら、腕を組んでどこへともなく歩き出すと、夢の中だから一瞬後にはそんなことはどうでも良く、言葉も紡がずに、これからどこへ向かうと言い合わなくてもきちんと分かっていて、ヤンは杖を使い、足を軽く引きずり、シェーンコップへ体を預けて歩き続ける。
シェーンコップの体温と、あの子どもの体温と、もうヤンの中ではひとつに溶け合って、ふたりの後ろで子どもの声がまだ甲高く、かすかに響いていたけれど、ふたりは振り向かずに歩いてゆく。