シェーンコップ×ヤン

他愛ない贅沢

 ちょっとした時間、仕事を抜け出し、休憩と称して紅茶やコーヒーを片手に、将官たちがたむろう。それを狙って、部下たちがちょっとした相談事や無駄話をしにやって来る。
 ヤンがシェーンコップとそうして肩を並べていた時、シェーンコップへ話し掛けに近づいて来たのは、ヤンの知らないローゼンリッターの隊員たちだった。
 まだずいぶんと若い。ヤンからはできるだけ遠ざかるように、シェーンコップの向こう側から一歩も進まず、他の部隊なら、元連隊長とは言え、今はイゼルローン要塞防御指揮官のシェーンコップに、本来なら気安く声の掛けられる階級ではなさそうだったけれど──ヤンの影もきっと踏めない──、亡命者かその子弟と言う特殊な集団であるローゼンリッター内では、しばしば階級と言うのは親密さにその意味を薄められて、シェーンコップは少尉らしい隊員のひとりが、何か言いながら馴れ馴れしく腕をぽんと叩いて来たのにも笑顔をまったく崩さない。
 ヤンは盗み見るように、そのシェーンコップの横顔を見ていた。
 自分に見せる表情とは違う、完全に気を抜いた風の、素が剥き出しの貌(かお)。元帝国人であり、陸戦の兵士であり、彼らの元上官であり、そしてただの男である、ワルター・フォン・シェーンコップ。
 隊員たちとはきっと、軍服もだらしなくゆるめ、スカーフもネクタイも取り去って、あるいはブーツすら脱ぎ捨てて、下らない話に花を咲かせるのかもしれない。
 男たちが集まれば、話の内容は落ち切って、どこへたどり着くとヤンも覚えがある。ヤンに向かっては、ヤンがその手のことに無縁と知れ渡っているからか、誰も話を振らないけれど、女の話、女と寝る話、女と寝たいと言う話、今も結局、シェーンコップに合わせてかどうか、ひそめた声で何やら語っているのが、ちょっと気になる相手がいると言う、そんな内容らしかった。
 それを告げた隊員の青年は、頬を薄く染めたまま、ちらりとシェーンコップ越しにヤンを見た。その、薄青い瞳に、明らかな感謝の色がひと筋走って、おや、わたしが何かしたっけなと、ヤンは聞こえていない振りでよそを向いた。
 耳で、シェーンコップの声だけを拾い、言葉は聞かない振りをする。通りの良い、深みのある声。これを良い声と言うのかどうかは分からないけど、ヤンはこれを耳障りが良いと感じる。
 軽く目を閉じて、手の中の紅茶のぬくもりと一緒に、シェーンコップの頬の線、あごの線、鋭く通った鼻筋と、対照的にふっくらと柔らかく盛り上がった唇の線をひとつびとつ思い浮かべて、それを縁取る灰褐色の髪の描くカーブを付け足し、それから、驚くほど濃いまつ毛に隠れそうな、髪と同じ色の瞳の、虹彩の複雑さを、自分の目の中に手繰り寄せる。
 眼福と言う言葉が、これほど似合う男もいないと、ヤンは改めて思う。
 それだけがシェーンコップの取り柄ではもちろんなく、けれどヤンにとって、シェーンコップは心の贅沢をさせてくれる存在だった。とびきり美味い紅茶や酒と同じ、なくても生きては行ける、けれどあれば確実に人生を豊かにしてくれる、そんなもの。
 美しい花に、それ以上の関心もなかったヤンが、シェーンコップのせいかどうか、咲き誇る花を見掛けるたび、シェーンコップを思い出し、そしてきれいだと素直に感嘆する。
 そんな自分の変化を、ふむ、と改めて眺めて、美しいものがもっとこの世にあふれて、それを大事にするためにさっさと戦争なんか終わらせようと、人たちが考えるようにはなってくれないかと、ヤンは戦争屋の自分の立場を一瞬忘れて、暇つぶしの夢想に耽った。
 こんなことを考えるのも、君があんまりいい男だからだ。
 シェーンコップを眺めて、思わず幻惑されそうになるのはヤンだけではなく、この隊員たちだってきっと、ヤンと同じことを感じているに違いなかった。
 眺めて美しい男。そんな男が、自分の話を聞いてくれて、親しみを見せてくれたら、誰だって夢中にならずにはいられない。だから彼らも、こうやってわざわざ、今はもうローゼンリッターの連隊長ではないシェーンコップのところへ、ちょっといいなと思う子がいて、なんて話をしに来るのだ。
 何だっていい、シェーンコップに話し掛ける口実にさえなれば。
 あれ、とヤンは思った。何だまるで、ティーンエイジャーの女の子みたいじゃないか。泣く子も黙るローゼンリッターを掴まえて、そんなこと──。
 やっと隊員たちが敬礼をし、シェーンコップへありがとうございましたと言って、向こうへ立ち去ってゆく。シェーンコップはまたなと軽く手を振ってすませ、ヤンの方へ向いた。
 「この半年で、結婚を決めたローゼンリッターの隊員たちがふた桁になりましたよ。あいつも多分、そのひとりになりますな。」
 「へえそう。」
 お互い、結婚など縁遠いふたりは、あくまで他人事として、それでもめでたい話だと口元を一緒にほころばせて、
 「でもそんなに君が嬉しそうなんて、面倒見が良くてちょっと怖いな。」
 ヤンが茶化すように言うと、シェーンコップはちらりと生真面目さを覗かせて、広い肩をおどけた調子ですくめて見せた。
 「私が何かしたわけじゃありませんよ。閣下のおかげです。ローゼンリッターに家ができて、やっと安心して恋人にプロポーズができるようになった、あいつらが言ってるのはそういうことですよ、ヤン提督。」
 突然そんな風に言われて、ヤンは一瞬理解ができずに考え、それから、ああそうだった、ローゼンリッターは軍の捨て駒だったのだと思い出す。
 自分が特に、ローゼンリッター──だけに限らず──を人間らしく扱っていると言う意識もないけれど、以前の彼らがまともな人間扱いもされていなかったと言う話は当然ヤンも知っていて、恋人との結婚すらためらう有様だったのかと、今さら心が痛みもした。
 なるほど、あの隊員が一瞬見せたあの感謝の表情は、そのせいだったのかと、ヤンは嬉しさよりも先に、さらにやり切れなさを感じて、彼がいずれ結婚するなら、死なずに退役できるようにと、顔には出さずに心の片隅で祈るように考える。
 そうして、元ローゼンリッターのこの男も、いずれ誰か相手を見つけて、家族と言うものを持つに違いないとも思った。
 その人も、シェーンコップを見て心を潤し、そして同時に、自分を見るシェーンコップの心を潤して、そうやって二重に豊かに新たな人生を築いてゆくのだろう。
 やれやれ、わたしには縁のない話だなあ。
 ヤンはベレー帽を押さえて、その下の髪をごそごそかき回したい気持ちになったけれど、そうなったらこんなにゆっくりシェーンコップと話をする時間も取れなくなると、腕の向こうのシェーンコップを、今のうちによく見ておこうと、その腕を下げた。
 憎らしくなるほど整った造作を、視線の先にたどって、これを独り占めする人がいつか現れるのだと、ヤンは思う。ごく自然に、この男の幸せを祈っている自分になぜか気づかず、自分に向かってごく穏やかに微笑み続けているシェーンコップへ、ヤンも薄い微笑みを返した。
 君といると妙に落ち着くなあと、ヤンが思う同じことを、シェーンコップも隣りで思い、そして、ヤンをただ眺めているだけで、ずっと得たかった何かを得ているような気分になっているのだと、黙っていて伝わるはずもなかった。
 ただ肩を並べ、何と言うことのない話をし、コーヒーや紅茶を飲み終われば自然にまた右と左に分かれてゆく、この時間がどれだけ贅沢なのか、またふたりとも気づいてはいない。

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