シェーンコップ×ヤン
* ヴァルハラにて

雪の日

 午後から降り出した雪は、ふわふわと軽く、けれど雪の粒は驚くほど大きく、たちまち地面も何もかも真っ白に染め上げて、次第に積み上がってゆくそれは何もかもを覆い尽くし、玄関のドアを開けることができなくなるのではないかと、窓際でその白い風景を眺めながら、ヤンは冷える肩の辺りを自分の掌で撫で上げる。
 その仕草を見咎めてか、
 「そんなところにいると、風邪を引きますよ。」
 シェーンコップが声を投げて来て、ソファの膝掛けを手に近づいて来る。
 窓際は冷える。凍る空気が忍び込んで来て、そこでなら息を吐いても白くなりそうだった。
 「雪かきが大変だな。」
 他人事のようにつぶやくと、肩にぬくもりが乗り、その上をシェーンコップのぶ厚い掌が押さえて来る。
 「24時間止まないそうですよ。まあ、今しても無駄ですな。」
 頭上でそう言いながら、ヤンの背中を守るように胸を寄せて、膝掛けごとヤンを抱きしめる。この男はまるで天然の毛布だ。冬のこんな日には、シェーンコップが常に自分の傍らにいることに、ヤンは心底感謝したくなる。
 ヴァルハラにも四季はあり、雨も降れば雪も降る。夏には死にたいほど暑くもなるし、冬には生き埋めになりたいほど寒くなる。
 垂れ込める曇り空は人を陰鬱にさせるけれど、今雪明かりに照らされた外の風景は、ここはまさにヴァルハラなのだと知らせてくれる。死んだ人間たちのたどり着くところ。これから来る、恋しい、懐かしい人たちを待つところ。
 少なくとも、ひとりはすでに傍らにいる。自分を抱くシェーンコップの腕へ触れながら、それを喜ぶべきか悲しむべきか、ヤンはいまだ心を決めかねていた。
 「紅茶を淹れましょうか。それとも、ブランデーの紅茶割りの方がお好みですかな。」
 自分はコーヒーしか飲まないくせに、ヤンのために、紅茶を淹れる腕を上げつつあるシェーンコップが、やや自信ありげに言った。
 「──紅茶がいいな。ブランデーは今はいらないよ。」
 君があたたかいし、君に酔えるからとは、口にはしない。
 シェーンコップがゆっくりとヤンから離れると、隙間にあっと言う間に冷たい空気が滑り込んで来る。
 「上手く淹れられたら、ご褒美をいただくとしましょう。」
 ちょっとおどけてシェーンコップが言う。ひとりに戻った自分の体を抱き直して、半分声の方へ振り返りながら、ヤンが微笑む。
 「いいとも──。」
 声の底ににじませた色合いに、シェーンコップがきちんと気づいて、一瞬真顔を浮かべる。これはこれはと、つぶやきながらキッチンへ消えるその背を、ヤンはじっと見送っていた。


 紅茶は確かに美味かった。それは紅茶の味や香りのせいだけではなく、この男の手から手渡されるそれだからなのだと、ヤンは気づき始めていた。
 誰かが、自分のために手間を掛けて、心をこめて淹れて差し出してくれる、1杯の紅茶。覚えのあるそれを、ここでも飲めるとは思わずに、ひと口含むたびに、ヴァルハラ以前の記憶が蘇って来る。懐かしさと、痛みと、慟哭と、喜びと、ひとつびとつはひそかに繋がり合い、悲しみは淋しさと見分けがつかず、喜びは痛みと切り離せない。
 すべてを背負って、すべてを置き去りにして、敵前逃亡と謗られても言い返せない死に方をした自分の、決して本意ではなかったそれに、実は傷つきもしているのなどと、誰かに語れるわけもなく、あえて知る人たちを避けるように閉じこもったこの小さな山荘を、一体どうやって嗅ぎ当てたものか、突然現れたこの男は、私は貴方の猟犬ですよ、永遠にね、と大きく破顔したものだった。
 どれほど距離を置いても、この男はヤンを追って来る。執拗に、とまでは言わないけれど、呆れ顔をわざと作って見せ、ヤンはシェーンコップを再び招き入れ、そうしてふたりはここに一緒にいる。
 あちらとこちら、会えるのはさて百年後かと冗談交じりにせよ思っていたのに、君は来るのが早過ぎると、ヤンは本気でそう言った。
 貴方のいない人生が、あんなに味気ないものとは思いませんでね。イゼルローン奪還以前だって、君はわたしなしでいたじゃないか。ええ、だからつまらない人生だと思っていました。いつ死んだって構わないとね。
 近々と、灰褐色の瞳が寄って来る。そう言う時には、いつもの毒入りの軽口の気配はなく、狡いほど真剣な顔つきで、シェーンコップが言葉を注ぎ込んで来る。
 貴方より先には死なないと誓ってましたが、貴方があんなにさっさと逝ってしまうとは予想もしてませんでしたからな。まさか貴方が、こちらで年金生活に入るとは、思ってもみませんでしたよヤン提督。
 彼がヤンを、提督だの司令官だの元帥閣下だの、そんな風に呼ぶ時の、恐らくヤンだけが感じる、独特の発声。それが、恋人を呼ぶと同じ時の、溶けるほど甘い響きなのだと聞き取るのはヤンの自惚れだろうか。
 だから、同じ声で褒美をと言われた時、ヤンは素直にうなずいていた。
 夜どころか、夕方と言うのもまだ間のある時間に、カーテンを引いても雪明かりで部屋の中は気恥ずかしくなるほどまだ明るく、剥ぎ取った服はきちんと片隅の椅子に乗せて、雪に閉じ込められてどこにも行けないから、それならとさらに閉じこもる、あたたかなベッドの中。
 ヤンはシェーンコップの上で躯を滑らせ、いまだ筋肉の厚みの変わらない両脚の間に這い込むようにして、そこに顔を伏せた。
 好きなやり方ではなかったし、お世辞にも巧いとも言えない自覚はあった。それでも、この男のすべてがいとおしいように、これもまたいとおしいと、唇と舌でできるだけ丹念に触れる。
 舌先で輪郭をなぞってゆくと、かすかな慄えが伝わり、自分のやり方は間違ってはいないと励まされながら、それ越しに上目にシェーンコップの方を見ると、目を閉じて唇を噛んでいるのが見えた。
 片手を添えて、舌を滑らせて、そうする自分がひどく淫蕩な表情を浮かべていると思いながら、熱っぽく喉の奥が潤んで来る。舌へ乗せ、ごつごつと喉の奥へほとんど当たらせるようにしながら、吐き気を誘う手前にまで、それを深く飲み込んでゆく。
 掌での感触は馴染んだそれでも、自分の舌や唇で感じればまるで別のもののようにも思えて、間近に眺めるそれが意外な美しさを見せるのに、繊細な美術品でも愛でるように、ヤンはそれに触れ続けた。
 自分の熱かシェーンコップの熱か、唾液がほとんど溶岩のように熱く、自分もシェーンコップも溶かしそうに、口の中にそんな感覚があるはずもないのにヤンは頬を上気させ、いつの間にか必死に舌を動かし始めている。
 シェーンコップが腕を伸ばし、ヤンの髪を撫で、耳に触れ、あごの線をなぞる。いつの間にか垂れた唾液で濡れたあごの下、喉の線まで届かせて、それをすくい取り、ヤンの唇へ押し当てて来る。
 唾液で滑る、シェーンコップの指と、それ。今は、いつもとは別の場所に飲み込まれて、貪られていると言う言い方がぴったりに、やや焦点の合わなくなっているヤンの色の濃い瞳が、それと同じように濡れて見える。
 煽って、煽られて、それでも耐えながら、ヤンの唇を白く汚す想像で限界を悟ると、シェーンコップは思わず喉を伸ばして上向いた。ヤンは、シェーンコップの漏らした声に驚いたのか不意に唇を外し、何かしてしまったかと訝しがった一瞬に、シェーンコップはヤンをそこから引きずり上げ、自分の下へ素早く敷き込んだ。
 平たく伸ばした背中に重なって、いつにない性急さで躯を繋げ、こちらは慣れた感覚に包まれると、緩急の仕草はもうシェーンコップのものだった。
 ヤンが啼く。苦痛ではないと確かに読み取れるその声を心地好く聞きながら、シェーンコップは、耳朶に触れる近さで、ヤン提督と囁く。自分で、その声の甘さに驚いてから、自分たちが静かに、騒々しく立てる音のすべてが、今は積もる雪に吸い込まれてゆく安心感に、自分だけが聴くことのできるヤンの声と、ヤンだけに聞かせる自分の声の両方が、耳に流れ込む端から脳の襞へ溶け込んでゆく。
 悲しい記憶をそうして上書きして、ここではもう引き離される心配はないのだと思いながら、もし生まれ変われるなら、別々のふたつ身ではなく同じひとつ身でと、シェーンコップは信じたこともない神へ向かって祈った。
 隔てる皮膚を融かし合い、細胞の壁(へき)の存在さえ忘れ、ふたりはどこまでもふたりだったけれど、今だけはひとりなのだと幸福な誤解を味わっていられる。
 ヤンの後ろ髪に鼻先を埋めて、開いた唇の間でそれを噛む。ほとんど匂いのないヤンの、髪からだけは一緒に使う香料の匂いがした。
 シェーンコップ、とヤンは唇を震わせ、一緒に、腿の裏側が深く慄えた。唇の奥へ受け止めるつもりだったそれを、今は躯の奥へ受け止めて、自分の体温へ注(つ)ぎ足したシェーンコップの熱に、背骨の根が溶けたように思った。
 積もった雪を溶かすには十分なその熱さは、けれどそこからどこにも行かずに、ただふたりにまつわりついている。そしてその熱さを続けるために、ヤンは体の向きを変え、伸ばした両腕の輪の中にシェーンコップを抱き込んで、口づけのために唇を開いた。
 夜を手繰り寄せたいのか遠ざけたいのか、どちらとも分からないまま、絡まった手足はほどけない。
 雪は、音もなく降り続けている。

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