無音の声
ヤンの本の整理を手伝ってはくれないかと、言って来たのはユリアンだった。ヤンの死ときちんと向き合えと言った当人である手前、いやだとは言えず、そしてヤンの手が触れていたものに触れたい気持ちもあって、シェーンコップは数瞬の逡巡の後で、ああ、とそれにうなずいていた。
ヤンが傍らから手放さず、常に手指に愛でていた本たち。レダUの仮の寝室の枕元にも、読み掛けの本が残されていた。
整理と言って、特別なことをするわけではなく、例えば本にヤンの名前が記されていれば、それはできれば形見にして、ヤンと親しかった人たちに分けたいし、もしヤン自身が著したものでも見つかったら、それこそ宝のようにしたいのだとユリアンが言う。
そうかとうなずいて、シェーンコップはヤンの書斎──と言うよりは正しく図書室──にひとり残り、部屋の一番奥の一番上の本棚から始めた。
取り出した本の、最初と最後をめくり、記名の有無をまず確かめる。どこにもヤンの痕跡がなければ、そのまま棚に戻す。それでも、1冊1冊、ヤンが間違いなく触れたものと思うと、すぐにはそうできずに、シェーンコップはどれも手にしたまま、少しの間静かに自分の手元へ目を落として佇んだ。
そうして、いつの間にか、ヤンの真似をして本のページを繰っている。読むためではないから、ぱらぱらと指先にページが次々と走り去り、乾いた紙のこすれる音とインクの匂いに、きっとヤンがそうしたに違いない仕草で、シェーンコップは目を細める。
薄暗い本棚の谷間に沈み込んで、シェーンコップはヤンの本に囲まれ、ヤンの本に埋もれ、濃密に残るヤンの気配を感じ取り、ふと流した視線の先に、ヤンの姿さえ幻に浮かぶのだった。
提督、とそれに向かって微笑み掛けさえしながら、最初の本棚の半分を過ぎる頃には、もうこの世にはいないヤンへ向かって語り掛け始めていた。
そんな風に、シェーンコップはヤンの残した本たちに触れ続けていた。
1日では終わらず、3日、1週間と日は重なり、重なるにつれ1冊の本に掛ける時間は次第に長くなり、今ではもう、1ページ1ページに染み付いたヤンの気配を探るのに、1度に進むのはせいぜい数冊と言う有様だ。
そうして、幾冊か見つかった、ヤンの直筆の記名入りの本はユリアンの手にきちんと渡され、本棚に空いた隙間を見ては、シェーンコップは肋骨の隙間に風の通るような淋しさを覚えるのだった。
部屋の奥から中の方へ戻り、上の棚から半ばの辺り、手の届きやすい場所へ至ると、手に取る本の間に、始終栞代わりらしい紙ナプキンやちぎり取った紙片などを見つけるようになった。
そのページで読み捨てにしてしまったのか、読み進む時に、その紙を取り忘れてしまったのか、間違いなくしるしの残るそのページにヤンの手指と視線が触れたことは確かだったから、そんな紙片を見つけるたびに、シェーンコップはそのページを開いて本を掌に乗せ、長い間そこを見つめ続けた。
紙片は取り除き、本は棚に戻す。そうして進むと、ある時、本物の枯れ葉の挟まっているのを見つけた。
茶色く乾いた葉は、ひと筋も欠けずにページの間にひっそりと挟まれ、これは一体どのくらい前のものなのか、すべて人工物だったイゼルローンの物ではなく、恐らくハイネセンにいた頃のものではないかと思われた。
あるいはどこか、辺境の星にでも送られた時に、記念とでも思って拾いでもしたのだろうか。ヤンにそんな情緒的なところがあったかと、また開いたページと枯れ葉に目を凝らして、シェーンコップは思い出すように考えた。
それとも実際的に、公園のベンチででもこの本を読んでいて、栞のないことに気づいて、何も考えずに、足元からとりあえず拾い上げた葉だったのか。
乾いてもうしなやかさはない細い茎を摘まみ上げ、シェーンコップはそれを指先にくるくる回す。回る葉がかすかに起こす風が、ヤンのいたその場の風景を鮮明にして、シェーンコップはまるで、その時そのヤンをどこかから見守ってでもいたように、葉の輪郭をあの黒い瞳の先になぞるヤンの、ふとなごんだ目の色を思い浮かべすらする。
提督──。
ヤンのあの瞳の追った字を、シェーンコップが追う。紙の上に残るヤンの気配。ヤンの指が触れたろうページの余白へ、まったく同じ形に指を添え、まれに見つかる茶色の染みは、その時飲んでいた紅茶をこぼしてしまったものだろうか。シェーンコップは、それにも指先を走らせた。
ヤンの愛した本たち。ヤンのあの目が、すべてをなぞり、あの指先があらゆる場所に触れ、あの手に抱えられ、常にヤンの傍らにあった、本たち。
読書のためなら、睡眠を削るのも、呼吸を禁じられるのすら、ヤンは受け入れてしまいそうだった。
シェーンコップはヤンを思いだしながら、また手の中の本のページを繰る。
これを、貴方が一緒に持って行けないのが残念ですな。
一緒に埋葬するには、数が膨大過ぎる。形見分けの後で残った本は、恐らくどこかに寄贈でもされるのだろう。自分にもどれかをと言えば、ユリアンは快く選ばせてくれるだろうと思うのに、ではどれをとは選べないシェーンコップだった。
次に見つけたのは、自分の書いたメモだった。ローゼンリッターの隊員の名前が幾つか並んでいる。大方何かの作戦の説明に、主要の分隊のメンバーの紹介でもした時のものだろう。
名前の傍についている数字の意味が自分で分からず、シェーンコップは眉を寄せてしばらく考えた。それからようやく、それが、亡命1世か2世かの意味であると悟ると、その数字の脇に、ヤンの筆跡で何か書き加えてあるのが、その隊員がどの程度帝国語を使えるのかと言う、それを記したものだと言うことも思い出す。
食堂の片隅で、声をひそめて、文字通り額を突き合わせるようにして話し合った。結局この作戦は、ヤンが頭の中で考えただけで終わったしまったはずだけれど、ふたりでああでもないこうでもないと、紅茶とコーヒーを数杯お代わりして、どうもうまく行かないと、一緒に顔をしかめたものだった。
あの時もヤンは、本を手元に置いていたのか。
シェーンコップは手にした本を見て、あの時の俺たちを覚えているかと、本に向かって話し掛けている。
めくるページの中から、ヤンが立ち現れて来る。様々なヤン、あらゆる時のヤン、どの本も、ヤンのひとつびとつをとどめて、まるでページの上の活字のように、すべてのヤンをそこに繋ぎとめていた。
印刷された文字の黒さが、ヤンの髪と瞳の色を思い出させ、わずかに黄味がかった紙はヤンの皮膚の色を思わせ、まるで本がヤンそのもののように、シェーンコップは手の中のそれを胸に抱きかかえ、こんな軽く小さいはずもないヤンの、大量に血を失い呼吸を止めた体の、運ぶ時にふらふらと揺れ続けた手足の眺めを思い出している。
提督。
ヤンの幻を、今はうまく目の前に呼び出せず、呼び掛ける声は本棚の谷間の薄闇の、乾いた手触りの紙の中へ、手応えもなく吸い込まれてゆく。
ヤン提督。
何度呼ぼうと、応える声はあるはずもない。呼び戻すには遠くゆき過ぎてしまったヤンの、残した本に囲まれて、紙に染み込んだヤンの気配に包まれながら、シェーンコップはそれでも振り向けばそこにヤンがいるような気がして、ゆっくりを頭を巡らせずにはいられない。
やあシェーンコップ。
何事もなかったように、ヤンがそこに立っている。今にもずれて落ちそうなベレー帽を片手で押さえて、ベレー帽からはみ出した髪がぴんぴん跳ねるのを上目に気にしながら、あの、困ったような笑みを浮かべて、シェーンコップを見つめている。
何か、わたしの秘密でも見つけたかい。
秘密なぞいりませんので、戻って来てはいただけませんかね、司令官閣下。
そうしたいのは山々だがね、中将。
言葉の終わりに、軽い笑いが含まれる。つられて、シェーンコップも思わず喉の奥で笑った。
もし、読みたい本がおありなら、お持ちいたしますよ、閣下。
静かに言いながら、本に触れた指先に力がこもる。
ヤンの幻が、眉尻と唇の端を一緒に下げた。
うん──いつかね。今すぐではなくていいよ、中将。読んだものは頭の中に入っているからね、しばらくは大丈夫だよ、シェーンコップ。
慰めるように、押しとどめるように、静かな声が低く言う。
どの本でも、今すぐお届けしますよと、シェーンコップは肩越しに見つめるヤンへ向かって、胸の中でだけひとりごちる。
もう一度幻が微笑み、そして消える。本棚の薄闇の中には、シェーンコップがひとりいるだけだ。
しばらく、闇を見つめて動かず、シェーンコップは瞬きも忘れていた。
手にしていた本を棚に戻し、次の本を取る。
ユリアンは知っていたのだろう。シェーンコップにこそ、こうやってヤンの死と向き合う時間が必要なのだと。
ヤンの読んだ、ヤンの手の触れた本に触れて、ヤン自身を見つめて、ヤンの本はこうして存在し続けるのに、ヤンと言うその人はもうこの世にはいないのだと、シェーンコップは思い知るべきなのだろう。
ヤンの気配は、この世界のあちこちに残っている。それは長い間、そこにとどまり続けるだろう。それを目にするたび残された者たちはヤンを思い出し、ヤンを思い続け、そうしてヤンは、この世の空気の中に在り続ける。
話し掛けても答えてはくれず、抱きしめることもできない、ヤンではあるけれど。
ページのめくれる、乾いた音が響く。何も見つからないその本をぱたんと閉じ、棚に戻し、シェーンコップは今日本の中から見つけた紙片を手に、本棚の間から抜け出してゆく。
手の中に、ヤンの体温を感じながら、本の山の薄闇から、明るい現世へ戻ってゆく。
ヤンのいない世界。ヤンの体温と呼吸の、途切れてしまった世界。自分のいるその世界へ、シェーンコップは足を引きずるように戻ってゆく。
紙片のぬくもりにすがるように、それだけが、自分をこの世に引き止める唯一のように、シェーンコップは本棚の終わりからぬっと体を突き出し、薄闇の中から、確かに自分の手足を引き戻す力を感じた。
この世とあの世の境界(さかい)。そこで自分を見送るヤン。明日もそこへ戻るシェーンコップは、ちらりと肩越しに、本棚の、闇の奥へ一直線に走る線の終わりに視線を据えて、そこにぼんやりと白く浮かぶ人影を見たような気がしたけれど、今はそのままゆっくりと顔の位置を正面に戻した。
ヤンに愛された本たちを、血を吐くように羨望しながら、シェーンコップは前のめりに歩いてゆく。自分が本なら、血文字で書かれた本だと、冗談で思ったのに唇はぴくりとも動かない。見開かれた灰褐色の瞳が、乾き切って血走っている。
ヤンの残した紅茶の染みの隣りに、まさか自分の涙の痕を残すわけには行かなかった。
提督。ヤン提督。声には出さずに動く唇の中で、乾いてひび割れた音が確かに涙に湿ってゆき、その涙が、舐めれば錆びた鉄の味のすることをシェーンコップは知っている。
ヤン提督。ヤンの愛した本の中に吸い込まれる、シェーンコップの音のない声は、シェーンコップの秘密のようにそこにとどまり、再び本を開く誰かは、その音を確かに聞き取るだろう。
提督──。
崩れ折れそうな足元を、しっかりと踏みしめながら、シェーンコップは拳の中に、本から見つけた紙片をくしゃくしゃに握りしめていた。紙の折れる音は、乾いた心が立てるひび割れた音に似ていると、シェーンコップは思った。