春に想う
「春が近づいて参りましたね、提督。」シュナイダーが、若い弾んだ声で言う。メルカッツはそれに鷹揚にうなずき、シュナイダーの、辺りを見回す視線を追って、自分も頭上の、芽吹きから膨らんだ蕾へ変化を遂げた樹々を仰いだ。
要塞内の人工の季節とは言え、その巡りに不自然さはなく、住みよいようにコントロールされたそれは、人々を打ち据える厳しさを適度に制限し、春は正しく希望のぬくもりを伝えて来る。
寒い間は、雪が積もれば当然歩きにくくなる道を、痛む膝で動き回る気にもならず、衰えの進んだ自覚を心の片隅に追いやって、メルカッツは青年部下の浮かれようを自分に写し、春の風景に向かって穏やかに目を細めていた。
上官の歩く速度に気を使いながら、先にゆくシュナイダーの若々しい足取りは音楽のように確かなリズムに乗って、メルカッツはその軽快さに、つい視線をそこへ当ててしまう。
そうしてふと、シュナイダーの進む少し先へ、気の早いたんぽぽの綿毛を見つけて、思わず両方の眉を上げた。
ふわふわと、いかにも柔らかそうな真っ白の、あるとも知れない春のそよ風にかすかに揺れる柔毛が、瞬時に記憶のさざ波を起こして、メルカッツの胸をざわめかせる。
見た目の美しさ、どこか可憐な印象とは逆に、恐ろしくしたたかな気質の持ち主の、誰か。雪景色にでも紛れれば、人と見分けもつかなくなりそうな、あの男の姿を、メルカッツは目の前に手繰り寄せて、胸に湧いた鋭い痛みに思わず眉を寄せていた。
足を止め、たんぽぽの綿毛へ目を凝らしたまま、メルカッツは数瞬、自分が今どこにいるのかを忘れた。
シュナイダーは上官の様子に気づかずに、そのまま歩を進め、足元の雑草になど目もくれない。軍靴の爪先がためらいもなくその花を踏み潰そうとした。
「シュナイダー!」
提督の、歳に似合わず鋭く通る声が、突き刺すように部下の背中へ投げつけられ、青年はびくりと、猫か子どものように動きを止めた。
「は、はい!提督!」
言葉と一緒に振り返り、一体自分がどんな失態をやらかしたかと、確かめる仕草で、怯えたように上官を見て来る。メルカッツは途端に厳しくした表情を元に戻し、往来で突然自分の発した声の鋭さを恥じながら、部下に向かって手を振って見せた。
「・・・雑草にも、命はある。」
ぼそりと言うと、青年は咄嗟に理解しかねると言う表情を浮かべ、再び上官の顔を凝視した。
「避(よ)けて歩いてもよかろう。わざわざ踏むことはない。」
「──はあ。」
合点が行かないと言う顔はそのまま、けれどメルカッツの指差す通り、自分の後ろを見て、シュナイダーはようやく雑草と言われた意味を悟り、地雷でも避けるようにぐるりとたんぽぽの回りを巡って前へ進んだ。
メルカッツは、たんぽぽを足元へ見下ろしてそこを通り過ぎ、再び、二度と会うことはないだろう男のことを思いながら、やがて綿毛から目の前の部下の背中へ視線を移す。
雑草の命を惜しみ、惜しむ同じ気持ちで、戦場で人殺しをする自分の矛盾を、メルカッツは嗤う気にはならず、こんな話をしてもあの男は理解すまいと、淋しさのような懐かしさのような切なさのような、そんな落ち着かない気持ちをひと時持て余した。
もう一度たんぽぽの方へ振り返り、こんなざわめく気持ちは、きっと春のせいだと胸の中でひとりごちて、訝しげに自分を見ている部下へ向かって、メルカッツは精一杯のどかな笑みを浮かべて見せた。