パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。ヤンと獣。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 26

 空腹のせいか、いつもより力のない足取りで歩くワルターを連れて、ヤンは朝一番で獣医へ飛び込んだ。
 開院前にはすでにそこにいたヤンを、ドアを開いた女性──初めての時にいた女性とは別の人──は、すぐに獣医のビュコックに会わせてくれて、ヤンの切羽詰まった様子に驚いたのか、ビュッコックはどうかしたかねと、声を低めて訊く。
 食事を摂らないこと、口から出血があったこと、以前の口内炎の時と様子は同じだけれど何だかそれとは違う気がすると説明するヤンの声が震えていて、ビュコックはそれが医者と言うものか、いつもと変わらない飄々とした態度で、診察のためにワルターの体に触れた。
 ワルターの口の中を調べた時に、その態度は一変し、ビュコックが息を飲んだのがヤンにも分かって、ワルターの体を押さえながら、ヤンは必死で自分の予想が裏切られることを祈った。
 後のことは、切れ切れにしか覚えていない。
 ワルターの舌は、裏側の付け根部分がひどく膿んで腫れ、その腫れはどうやら喉の奥にも及んでいて、そこから出る膿を一応は取り、血液検査のためと血も取られ、検査をしなければ分からないがと前置きしてから、ビュコックは症状が軽い場合と最悪の場合の両方を、ゆっくりと、噛んで含めるようにヤンに説明した。
 もしこれが、自分で噛んでしまって膿ませただけの傷なら、抗生物質を投与すれば治る。そうは思えんがね、とビュコックは、ヤンが無駄な希望を抱かないように言い添えた。
 最悪の状況とするなら、これは癌で、手術は無理ではないけれど、たとえ成功しても恐らく1年程度で再発してまた同じ状態になると、真っ直ぐヤンを見て言った。
 母親が死んだ原因はなんだったかなと、ヤンはぼんやり考えていた。ビュコックの動く口元を見て、この人のひげも、元々真っ白だったけれど、今はもっと白く見えるなあと、まるで自分にもひげが生えているように、ヤンは何度も自分の口元を拭う。その手が知らず震えている。父親も、妻──ヤンの母親──がいずれ迎える死のことを、こんな風に聞いたのだろうか。
 自分が死ぬと言う話を目の前でされていることに、ワルターは気づいているのかどうか、ヤンをじっと見上げて、ヤンの動揺の方をなだめるように、ワルターはしきりに耳元をヤンの胸へこすりつけて来る。ヤンは無意識にワルターの耳を撫で、いつもの検診のように、問題はないと言われている時のように、ビュコックの声を聞いていた。
 安楽死、と言う言葉が出て、初めてヤンはびくりと肩を震わせて反応し、考える前に首を振る。そんなことは無理だ。絶対にそんなことはできない。ヤンの顔色を読んで、ビュコックは自分の足元へ視線を移し、
 「痛み止めを出しておくよ。どうするかは、君が決めることだ。」
 きっともう、何度も何度も同じことを繰り返し告げて来たのだろうこの獣医の、厚い丸い肩の辺りへ、ヤンは彼が救えなかった生き物たちの命の重さを見て、そのひとつが少なくともじきに自分の肩へ乗って来るのだと思いながら、ワルターを撫で続けていた。
 抗生物質の注射をされ、これが効けば腫れが引くはずだと、説明する声がヤンの耳には空ろに響くだけだった。
 鎮痛剤を受け取り、ワルターを連れて車に戻り、ワルターが助手席から体を乗り出して自分の膝へ頭を乗せて来るのに、ヤンは掛ける言葉もなく、右手だけは休まずワルターの耳の辺り撫でて、街を抜けてただ緑と土だけが見えるいつもの風景の中に紛れ込むと、この道が見知らぬ場所へ続いているような錯覚に陥り、自分たちは一緒にそこへ行くのだと、そんなことをぼんやり考えていた。
 何かを見逃したのか。ワルターがこんなになるのを、なぜ自分は気づかなかったのか。
 獣医の予想は恐らく正しいと、直感がそう告げるのに、ヤンは、いやでもまだ分からない、これはただの噛み傷で、1週間後にはなんだと笑っているかもしれない、と楽観的に考えようとしている。
 昨日まで、こんなことは考えもしなかった。昨日の続きに今日があり、今日の次は明日がやって来る、そうして1週間、ひと月、1年、10年、それからもしかしたらもう20年、そんな風に時間がただ過ぎてゆくものだと思っていた。
 まさか、とヤンはまだ考えている。今にも泣き出しそうになりながら、人は簡単に消えてしまうんだと、ラップに言った言葉を久しぶりに思い出している。それを否定するラップの声は、もう耳の奥に思い出せなかった。
 ワルターは人ではないし、魔女でもない。けれど自分は、自分で書いたあの話の中の少女が魔女の最期を看取ったように、ワルターの死を見送らなければならないのか。
 人は簡単に消えてしまう、だからヤンはワルターを選んだのか。ワルターは人ではないから、きっと簡単には消えないだろうと、心の底でそんな風に思って、そうしてヤンは、ワルターを自分の傍らへ招き寄せたのか。
 10年。短くはない。けれど長くもない。自分は一体いつ死ぬんだろう、ヤンはハンドルを力いっぱい握って考える。
 自分が消えるのは一体いつなんだろう。誰かを、何かを見送り続けるのは、一体いつまで続くんだろう。
 ワルターはただ静かにヤンの膝にあごを乗せ、自分の連れ合いが今にも泣き出しそうになっているのを、慰めるようにくうんと小さく鳴いた。


 数日は、日に2度与える鎮痛剤が効いたのか、ワルターはやっと缶詰を少しだけは食べ、けれど検査の結果は、ビュコックがそう言った通り思わしくなく、ヤンは日に何度も缶詰を出した皿をワルターの鼻先に差し出し、頼むから食べてくれと祈り続けた。無理に口の中に入れて飲み込ませることもしたけれど、そうした後には出血がひどくなり、ワルターの痛がりように、ヤンの方が耐えられなくなる。
 あちこち動き回り、ヤンについて歩き回り、もう家の外には裏庭以外出たがらなくても、そうしていれば特に変わったこともないように見えるワルターは、それでも触れれば少しずつ痩せてゆくのが掌の感触に露わで、ヤンはワルターの目の前で泣かないだけで精一杯だった。
 アッテンボローには、わざと電話に出ない時間を選んで、そういうわけだから、少しの間会いたくない、ワルターとふたりきりにしてくれとメッセージを残した。状況が変わったらこちらから連絡すると、言いながら、状況が変わるって何だと、自分の言い草に腹を立てる。
 夜はベッドへやって来るワルターを、ヤンは裸で抱いて寝た。腹や胸にワルターの背中が触れ、掌を滑らせれば背骨が分かるそこへ、ぴったりを体を重ねて、10年の間に自分たちは何度交尾しただろうと、思い出しながら指を折って数え、千回くらいはしたかなあと、それなりに正解に近いのかまったく的外れなのか、よく分からない数字を弾き出して、それだけ交わっても何も残らない自分たちの間柄を、今さら悔しがってもみた。
 残るのは記憶だけだ。いつだってそうだ。母親も、父親も、ラップも、ジェシカも、あるのはヤンのおぼろな記憶だけだ。
 母親の顔はもうはっきりとは思い出せない。父親とラップとジェシカの声は、それがほんとうに彼らの声かどうか確信が持てない。
 そうして、ワルターに触れながら、この毛並みの感触もいずれは思い出せなくなるのかと、ヤンは怯えて、いっそう強くワルターにしがみつく。
 こうして、何度も何度も抱いて、触れて、溶け合わない皮膚をこすり合わせて、この世の誰よりも近く重なったのに、誰よりも何よりも近く躯を寄せたのに、引き剥がされて、ヤンはまたひとり取り残されるのか。
 ひとりで逝くのは怖くないのかと、言葉が通じれば訊いたかもしれない。無駄な質問だと分かり切っていて、訊かずにはいられなかったかもしれない。
 ワルターはどう答えたろう。怖いと言ったろうか、怖くないと言ったろうか、それとも分からないと、ただ微笑んだろうか。
 死んだことがないから分からない。何度も何度も見送っても、ヤンもまだ、死んだことがないから分からない。分からなくてごめんと、ヤンはワルターの頭を撫でる。ワルターはただ静かな瞳でヤンを見上げる。灰褐色の瞳の色も、毛並みと同じに少し色褪せて見せて、ワルターはもうその時が来るのを知っているのだとヤンは思う。
 鎮痛剤は次第に効かなくなり、何も食べられなくなり、水もほとんど飲まなくなり、口からの出血はひどくなる一方だった。日に日に衰弱してゆくワルターを見て、ヤンは何度も、もう終わらせてしまおうかと考えた。注射1本で終わる。ワルターの体を抱え上げて車へ運び、そこから診察台へ運び出して乗せ、後はちょっとよそを向いていれば、すべてが終わる。ワルターはこれ以上苦しまず、ヤンはそれをこれ以上手出しもできずにただ眺めていずにすむ。
 それでも、ワルターを死なせるためにここから連れ出す、そしてもうワルターを連れずにここにひとりで帰って来ると、想像しただけでヤンは息苦しくなって、実行する気には到底ならず、食べられないと分かっている缶詰を、もしかしてと思いながらスプーンにふたすくい皿に出して、無駄と知っていてもワルターの前に差し出す。食べられない肉の匂いは、きっとワルターには拷問だろう。そうし続けるのも、ヤンには拷問だった。
 互いに苦しめ合って、そのくせ、自分でこれを終わらせることはできずに、1日でも長くワルターを一緒にいたいと、ヤンが思うのはそれだけだった。
 1秒でもいい、少しでも長く、そうすればヤンは、ワルターのことをひとつでも多く憶えていられる。どうやらワルターよりは長く続くらしい自分の人生の中で、ワルターのことを繰り返し繰り返し思い出すために、1秒でも長く、ヤンはワルターと一緒にいたかった。
 ごめんワルター。ごめん。
 ワルターに合わせたように、ヤンの食事の量も減り、ワルターはむしろそれを心配するように、不安げにヤンの傍から離れない。
 空腹がもう分からず、それでも空の胃はきちんと痛み、ワルターはもっと苦しんでいるのだと、ヤンは思った。
 ワルターがもうベッドに上がれなくなると、抱き上げてそこへ寝かせるのをやめ、ヤンはソファの傍へマットレスを運び、夜はそこでワルターと一緒に寝た。
 まだひとりでも動けるワルターは、マットレスの上でヤンをまたいだり、足の方へ移動したり、寝苦しさのせいか、どこかもっと快適な寝場所はないかと、ヤンの回りをしきりにうろうろして、ヤンもそれに辛抱強く付き合って、ろくに眠れないこともあった。
 痛みのせいで悪夢を見るのか、時々うなされ、苦しげに鳴き、目を覚ましてヤンの胸元へ慌てて鼻先を差し込んで来る。どこにも行かない、一緒にいると、そのたびヤンは繰り返しワルターに言い聞かせ、血まみれになったシーツの上で朝が来るのを抱き合って待つ。
 体は痩せ、毛並みは衰え、ひっきりなしにこぼれる血のせいで、ふかふかだった胸元は汚れたままになった。ヤンは何度も何度もワルターの体を拭き、できるだけきれいにしようとして、けれど濃い茶色の染みは落ちないままだ。
 ある夜、ワルターは、毛布の上で体を伸ばして動かないまま、何度か小さく吠えた。苦しいからと分かるその吠え方に、ヤンはもう鎮痛剤が効かなくなっていることを悟りながら、それ以上何もできず、ただワルターへ寄り添って、背中や喉を撫でてやるだけだ。
 呼吸が浅くなり、次第に胸の動きも小さくなる。目はもうどこを見ているのか分からず、ヤンが覗き込んでもすぐには視線を合わせて来ない。
 ヤンはワルターの胸に掌を乗せて、心臓の音を探りながら、ワルター、ワルターとずっと呼び続けた。
 ワルターがヤンを見て、瞳を動かし、そして呼吸と呼吸の間が間遠になり、呼吸がまた戻り、ヤンを見る。もう息をしているとも分からないかすかさの後に、ワルターが深い深いため息のように、全身を揺らして息を吐いた。
 ヤンは執拗にワルターの鼓動を探し、もうわずかなそれにたどり着くと、肋骨を折りそうに掌を押し当て、もう一方の手はワルターの前足を握りしめて、またワルター、ワルターと、飽きず呼び続ける。
 何度目か、大きく吐いた息の後で、軽く開いたままの口が閉じずに、ワルターの瞳の動きが止まった。
 「ワルター?」
 胸に当てていた掌を、思わず顔へ移動させ、まぶたを撫でても瞳が動かない。
 「ワルター?」
 恐る恐る掛ける声に、もう応える息はなかった。
 「ワルター・・・?」
 強く触れられると、いやがってふるふる揺れる耳が、もうヤンにされるまま、瞳はみるみるうちに濁って、ガラス様に空ろになる。
 「ワルター・・・。」
 ヤンはワルターを呼び続けた。呼べば、いずれ小さく吠えて体を起こすと信じているように、呼び続ける自分の声が、今ただ聞こえないだけだと思い込んで、ヤンはワルターを呼び続けた。
 終わったのだと分かっていてもそうせずにはいられず、もう逝ってしまったワルターを生きているように扱わずにはいられず、ヤンはワルターを呼び続け、体を撫で続け、その爪が自分の掌へ立つことを夢見ながら、ワルターの前足を握りしめ続けた。
 まだ柔らかく温かい体は、ワルターがまだ生きているのだとヤンに誤解を許してくれる。死後硬直が現実を伝え始めても、ヤンはワルターを呼び続けるのをやめなかった。

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