* みの字のコプヤンさんには「時間は止まってくれない」で始まり、「それだけでいいよ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば12ツイート(1680字)以上でお願いします。
それだけでいい
時間は止まってくれない。時間が流れるのと一緒に、血も流れ続けている。止まらないなあ。ヤンはぼんやりと考えている。巻いたスカーフは触れると血の絞れるほど濡れ、ヤンの下には血だまりがゆっくりと、確実に広がりつつある。
時間は止まってはくれない。遡ることもできない。あの時に戻って、ああすればこうすればと、夢想することは自由だ。ヤンは眠気に襲われながら、夢のように過去のことを考えている。
君に、もうちょっと優しくすればよかった。あるいは、ひとつくらい、君の願いを聞いてみてもよかったかもしれない。
今そう思うのは自由だ。独裁者になることを選ばなかったヤンが、あの時シェーンコップがそう示唆した通り、ああそうだね、権力を握ろうと、微笑んで返してみてもよかったかもしれない。
思うだけなら自由だ。戻らない時間をこうして、まるで死ぬまでの時間つぶしのように、ヤンはもてあそんでいる。
君の言う通り独裁者になって、そうして政治家としては無能のわたしは、それでも有能な部下に囲まれて、案外いいところまで行けたかもしれない。気に食わない連中を粛清──かすかに唇の端に皮肉笑いが浮かぶ──して、好き放題に振る舞って、軍人にはきちんと年金が払われるようにだけして、他はどうしようか、恋人や配偶者を失った人たちの補償は、どうしたら良かったかな。そんなことはキャゼルヌ先輩が考えてくれたかな。
ヤンは眠気に引きずられながら、考え続けている。
ああそうだ、ある一定の基準を満たすなら、複数の配偶者を、関係者の合意の元で認めるってのも──。
そうしたら、わたしは君とも結婚できた。君がYesと言ってくれたかどうかは知らないがね。
それともそんなことをしたら、わたしはフレデリカも君もまとめて失ったろうか。
ヤンは考え続ける。流れ続ける血を下目に見て、もう唇の端を持ち上げる力もない。
君とのキスは心地好かった。抱きしめられるのがあんなに気持ちいいものだと、知らなかった。君はわたしの髪に触れはしたが、髪の色がどうのとは、一度もひと言も言わなかった。
わたしの肌がどうの、わたしの髪がどうの、そんなことは聞き飽きていたから、君が何も言わなかったのが、ほんとうはとてもありがたかったんだ。
わたしは皮膚だけの存在でもなく、黒髪だけの存在でもなく、丸ごとひとりの、ただの人間のように扱われるのが、案外珍しいことだと君は知っていただろうか。
君の扱いは、とても心地好かったんだよ、シェーンコップ。
ヤンはもう指先も動かせず、血だまりのままの浸ったままの自分の手を見て、とうとう自分自身の血まみれになってしまったと、決して嗅ぎ慣れてはいない鉄錆の臭いに、やるせない気持ちを味わっている。
一体これまで、どれだけの血を流して来たのだろう。自分の下に横たわる、屍体の数を想像し切れず、ヤンは体の重みに下へ引きずられるような感覚を覚えて、ついに自分の番が来たのだと、白く霞む頭の中で考えた。
シェーンコップ、もしわたしが、君の言うことをひとつでも聞いていたら、何かが変わったろうか。わたしが、虐殺者として暗殺されて、こんな風に何もかもを放り出すみたいに死んでしまうのではなく、もう少し生き延びて、何とかもう少し、世の中をマシにしてから死ねたろうか。
君を置き去りにして、君が泣くのに肩を貸せずに、こんな風に先に行ってしまう以外に、もっと別の死に方があったろうか。
すでに血にまみれたわたしの手が、わたし自身の血に染まって、まるで罰みたいに薄暗い通路の片隅で、自分の身も守れずに死んでゆく。わたしのこんな無様な姿を見て、君がどんなに怒るか目に見えるようだ。
シェーンコップ、わたしが死ぬのは別にいい。でも、君が悲しむのが、わたしにはつらい。頼むから、いつもみたいに皮肉と毒舌で、最後までドジだったと、わたしを笑ってくれ。わたしの死で傷つかずに、どうかわたしを間抜けだと笑ってくれ。それだけでいい。
近づく足音は、もうヤンの耳に届かない。息の途切れ、がっくりと落ちた首の微動だにしない様が、石像のようだった。唇だけが半開きに、最後の言葉の形を残していた。
それだけでいいんだ、シェーンコップ──。