魔女の接吻 (番外編)
結婚式はしない、名字も変えないと、話し合いもしないまま言い放ったヤンに、シェーンコップはただ1点だけ抗った。「せめて結婚指輪くらいは──」
それについてのヤンの返答は、
「やだ。」
こういうことは、プロポーズの後だとか、届けを出す前だとかにきちんと話し合っておくべきものなのだと、キャゼルヌ辺りならしたり顔で説教をして来ることだろう。そうだった、自分が惚れて結婚した相手は、こういう女(ひと)だったと、いわゆる世間並みの女性にはまったく当てはまらないヤンを目の前に、たかが小さな金属の輪ひとつ、けれど強いることもする気はなく、仕事のことならリンツ辺りに酒の勢いで愚痴のひとつもこぼせるのにと、シェーンコップはちょっとだけ拗ねたい気持ちになる。
別に結婚式とやらに夢があったわけではなくても、美しく着飾った新婦のヤンを見てはみたかったし、あの黒髪ならさぞかし純白のドレスが映えるだろうと、ひそかに浮かれてもいたのだった。
一応は、最後の抵抗で、そんなことを言ってみても、
「あれはきちんと背の高い女性用のデザインで、わたしが着ても子どものお遊戯会とか仮装にしか見えないと思う。」
大方キャゼルヌ夫人、オルタンスのドレス姿でも思い出してか、ヤンはその件をそんな風に切り捨てる。
子どもと言うには胸も腰も豊かで、顔の造作の薄いヤンなら、化粧も豪華なドレスも案外映えるのではとシェーンコップは想像して、ヤンの、少女と女の混ざり合った奇妙なバランスの裸を思い出し、あの、見る者を確実に倒錯した気分に陥らせる姿を皆に晒すわけかと、そこですっと考えを変えた。
自分の惚れた女(ひと)を、世間に見せびらかすのはやぶさかではないけれど、やはり独り占めしておきたい気分が、結局勝った。あれを知っているのは自分だけでいい。
自分と結婚したことで、世間の、ヤンがいかに女と言うものから遠い存在かと言う歯に衣着せぬ物言いを耳にすることになったシェーンコップは、そう思うならそう思っておけと、否定して回る気にもならず、自分だけが知る、今は自分の伴侶であるヤンと言う女(ひと)、そして同時にそのヤンもまた、連れ合いであるシェーンコップと言う男を知る唯一の人なのだと、それを世間に認知させようと言うのがそもそもの間違いであると、さっさと悟ってしまった。
それならせめて、互いに唯一の存在であるのだと示すしるしの指輪を──と言うシェーンコップのただひとつの願いは、残念ながらヤン側には叶わなかったのだけれど。
「分かりました閣下、貴女に指輪をしろとは言いません。が──」
シェーンコップだけが指輪をつける、と言うのには、ヤンも別に反対はせず、では指輪を買いに行くと言うと、ヤンは例の、あの考え込む時にする、顔の前で、掌は離して指先だけを合わせる手つきをして、上目にシェーンコップを見た。
「指輪はいらないんだけど・・・。」
たっぷりと置いた間(ま)の後に、またヤンが上目遣いをする。
「けど、何ですか。」
問い返されて黒い目を伏せ、ヤンは恥ずかしそうに頬を赤らめた。結婚して以来、ヤンはこの表情をよくするようになった。これを見ると、シェーンコップが1も2もなくヤンの言うことを聞くからだと言う、そんな策略があるわけではないのだろうけれど、これを見れるのは、配偶者である自分の特権だと、シェーンコップは思わず胸を押さえ掛ける手を必死に止める。
「・・・お揃いの、腕時計が、欲しいな・・・。」
手の向こう側から、ヤンが小さな声で言った。言葉の合間合間に、さらに恥ずかしそうに顔を赤らめながら。
時計は新しいのを、この間、突然のプロポーズの日に買ったばかりではないか、そもそもあの時計がプロポーズのきっかけだったのではと、シェーンコップは思って、自分たちの手首に、同じ文字盤で同じベルトの、けれど自分たちと同じに大きさの違う腕時計の巻かれているのを想像して、即座に、ええそうしましょうとうなずいていた。
まだ一緒に暮らす段取りが整ってはいなくて、それでもシェーンコップのフラットにはヤンの着替えや日用品の類いが持ち込まれ、居間にはヤンの読み掛けの本が必ず数冊あり、そこに寝そべって読書をするヤンは、いかにも心地好さそうにシェーンコップのシャツを着ている。
今日も、シェーンコップの長袖のシャツを上着代わりに羽織って、邪魔になる袖は折り上げて、一緒ならすべてシェーンコップに任せたと言うように、腕時計も財布も持たない。連絡用端末と身分証明書だけは、ジーンズのポケットに入っているはずだけれど。
ヤンの腕時計を買った同じ店にまた高さの揃わない肩を並べて、今度はもう、ふたりが見ているのは互いだけで、口だけはいつものように毒ばかり含んで動くくせに、その響きの甘さは隠しようもない。
店員が、このふたりが、近頃噂の要塞司令官と防御指揮官だと見分けたかどうかはともかく、シェーンコップが選んだ指輪のひとつを自分の指にはめ、その隣りにヤンの手を取り上げて並べて、
「小さいですな。」
と、このふたりには馴染みのやり取りをして十数秒無言で見つめ合った時には、ぐるりと瞳を上に押し上げる仕草をして、半歩かかとを後ろに引いた。ふたりは、まったくそれに気づかなかった。
シェーンコップは、飾りっ気のない、丸みを帯びたプラチナの指輪を選び、サイズの直しを頼んだ後で、今日のほんとうの目当ての、腕時計選びに掛かる。
機能優先と言う点では好みの一致しているふたりは、ではベルトは革か金属か、色はどれ、文字盤の種類はと、あれこれ言いながらガラスケースの中を指差し、何しろ揃いと言えばどうしても数は限られるから、あまり悩む余地もなかった。
それでも、真っ白な文字盤に見やすくぐるりと数字が並び、その文字が黒や銀ではなく、深くて濃い青の、光が当たると美しいロイヤルブルーに変わるのをヤンが気に入って、ヤンがこれがいいと言うなら、シェーンコップに否があるはずもない。
店員が、ヤンのために金属のベルトの長さを調節してくれるのを、いくつも抜かれた部品をちょっと驚いたように見て、シェーンコップはまたヤンの手を取り、今度は、細いですなとつぶやく。
日に何度、こうして互いの手を取って見つめ合うだろう。見つめて、見つめ返されて、シェーンコップはまた、30年早く出会いたかったと、この間から始終考えることを考える。
この先150年一緒に生きても、互いを知らなかった30年を取り戻せないと、感傷的に思いながら、それでもせめてその端くらいはと言うように、シェーンコップは人目もはばからずヤンの指先に口付けた。
シェーンコップのこの仕草に慣れつつあっても、恥ずかしさは別なのか、またヤンは顔を赤くし、店員ははっきりとふたりから視線を外し、もし客相手にそんな口が聞けるなら、さっさと帰れと言いたげに唇の端を動かしている。もちろんふたりはそれを見逃した。
箱に入れられた時計を受け取り、指輪と腕時計の払いはふたりできっちり二等分し、どちらも別に大して高い買い物でもなく、まったく安上がりな人だと、シェーンコップは内心でそれをまたヤンの美点として数えている始末だった。
店を出て、今度はヤンが転んだりしないようにしっかりと肩を抱き寄せて、あの日この路上で膝を折って、ヤンに結婚しましょうと言った自分の唐突さを、今もシェーンコップは信じられないまま、なぜあんなことを口走ったのかいまだ理解できず、けれどあの時の自分に心から感謝しながら、シェーンコップは歩みをゆるめてヤンを見下ろした。
ヤンに歩調を合わせるのが苦痛でなくなったのは、一体いつからだったろう。見下ろす角度を体が覚えてしまって、いない時も正確にヤンの姿を目の前に思い描くことができるようになったのは、いつからだったろう。ヤンの紅茶の熱さの好みを覚えて、それを手に顔を見にゆく習慣ができたのは、一体いつだったか。いつから自分は、自分の上官であるこの女(ひと)を、かけがえのない、大切な人と思い決めていたのか。イゼルローンを落とした時か。あの時、ヤンが腕を上げ、トールハンマーを射てと、その手を振り下ろした時か。
司令官卓に上がり、足を組んで、丸めていた小さな背中を伸ばし、射て、と思っていたよりも低い声で、ヤンはきっぱりと言った。その口調にためらいはなかった。
振り上げていた手が小さく、子どもの手のように見えて、その手が屠った人の数に、シェーンコップは思わず眉を寄せた。不快からではない、痛ましさからだ。
魔女と呼ばれるヤンは、大量虐殺者と言う呼ばれ方にも怯みもせず、自分は人殺しだと言った。それに応えて、私もですよとシェーンコップが声を揃えた。
戦斧を握る手に、今はヤンの手を取って、何百万何千万の人死に責任のあるこの小柄な女(ひと)のこの手に、所有のしるしの金属の輪などはめようと思った自分の浅薄さを、シェーンコップは表情には出さずに苦く飲み下す。
互いの流した血の量の、その深さに、一緒につかって、いずれ口元へ届くその流れの中で、自分たちは一緒に溺れるのだと思った。
そのために自分は、あの日膝を折り、この女(ひと)に結婚しましょうと言ったのだと、シェーンコップは思った。
その小さな肩に乗った重さを、自分にも分けてくれと、そう言うために。背負うなら一緒に。そうして背を曲げて進むなら、せめて一緒に。人殺し同士が、一緒に肩を寄せ合って。
シェーンコップはヤンに向けて微笑み、ヤンは、手を取られたまま、シェーンコップが何も言わずに自分を見つめているのに、戸惑ったように瞳を左右に動かし、また路上に立ち止まったままのふたりを、通る人たちがちらりと見ながら避(よ)けてゆく。
シェーンコップはまた唐突に、動く唇のまま、静かに口走った。微笑みのまま、死ぬまで絶対に後悔することのないだろう一言を、ヤンに向かって言い放った。
「愛しています、閣下。」
ヤンが打たれたように目を見開き、忙しくその瞳を上下左右に動かし、顔を真赤にして、
「あ・・・うん・・・うん。うん・・・。」
小さくうなずくだけで、わたしも、とするりと答えてはくれないヤンに、けれどシェーンコップは失望することはなく、微笑みをより深くして、ヤンを抱きしめようとした。
それより一瞬早く、ヤンが、自分がいつもシェーンコップにそうされているように、シェーンコップの頬へ両手を添え、一生懸命爪先を立てて背伸びをした。ヤンの唇がシェーンコップの唇を覆い、歯列のぶつかりそうな、無様な、けれど可愛らしい接吻で、ヤンはシェーンコップの残りの言葉をすべてそこへ吸い取った。
シェーンコップに抱き寄せられ、シェーンコップの首にぶら下がるように、最後にはヤンの爪先が地面から浮いて、長い、けれど静かな接吻を、人混みが明らかに邪魔だと言う顔で眺めて通り過ぎてゆく。
一体誰が撮ったのか、後日この時のふたりの写真が出回って、またキャゼルヌの頭痛の種になるのだけれど、その頃にはシェーンコップは自慢気に自分の結婚指輪とヤンと揃いの腕時計を見せびらかし、ヤンは時々、わざとシェーンコップのシャツを着て仕事に出ると言うやらかしをこっそりしていて、もうイゼルローンの誰もが、ふたりに行き会うたびおまえらさっさと家に帰れと念じ、この戦争が終わること、終わり次第ふたりが軍籍を退いて思う存分ふたりだけで過ごしてくれることを、この銀河の誰よりも願っていたと言う事実は、後の書物等には一切残されてはいない。