シェーンコップ×女性ヤン

魔女の苦手 (番外編)

 シェーンコップの自宅の冷蔵庫には、ジャムが入っている。それほど朝食にこだわりはないと言いながら、目覚めが良くて時間がある時は、それなりにきちんとコーヒーを淹れて、パンの1枚くらいは焼くのだ。今では、ヤンがちゃんと目覚めさえすれば、ヤンの分も。
 朝は紅茶すら淹れない、そもそも時間通りに起きることができずに、ともかく顔を洗って軍服を着て、上着とネクタイとスカーフは手に家を飛び出すのが精一杯のヤンには、着ているシャツに染みもしわも見当たらないシェーンコップが、化け物に見えている。
 自宅の冷蔵庫には、ワインとウォッカばかりが入っているヤンにすれば、それ以外の食品や調味料がきちんと詰まっているシェーンコップ宅の冷蔵庫は、これが世間では普通の冷蔵庫の中身らしいと知っていても、酒のない眺めが少し淋しく、牛乳の隣りに少し隙間を開けて、その後ろへ、こっそり持って来たワインを隠すように差し入れておくのだった。
 「貴女なら、もう少しこだわって買うのかと思ってましたよ。」
 そのワインを見つけて、取り出しながらシェーンコップが言う。白の、辛めのワインの、くるくる回すキャップを指差して意外そうな表情を浮かべるのに、
 「コルクの栓のは、いつも開けるのに失敗するから。」
 ヤンが唇を尖らせながら答えた。
 安っぽいその栓の見掛け通り、そのワインはどちらかと言えば安物の類いで、それなりの値段のするワインはどれもコルク栓──当然だろう──で、ヤンはいつもそのコルク栓をきちんと開けられずに、酒の中に落としてしまったり、ばらばらに砕けてさせてしまったりする。コルクの破片を気にしながら飲むと言うのも、またおつなものと言えるほど心の広い酒飲みではないヤンは、毎回腹を立てて酒をまずくするよりは、素直にひねって開け締めする類いのを選んで買うことにしたのだった。ヤンだって、選べるならそんなのは飲まない。
 そんな会話を覚えていたのか、シェーンコップはヤン用にと、もう少しいいワインを冷蔵庫に入れておいてくれるようになった。もちろんヤンが飲む時には、コルクの栓をきちんと抜いて、グラスに注いで差し出してくれる。
 へえ、とヤンは思う。
 まだ、正式に家をひとつにして一緒に暮らすには至ってないけれど、誰かと生活を共にすると言うのはこういうことなのかと、その差し出されたグラスの、ワインの冷え方のちょうど良いことへも、ヤンはちょっと眉の真ん中を上げて、今ではそれが、ヤンの満足の表情のひとつだと知っているシェーンコップは、唇の端を、今ではヤンにだけ伝わるかすかさで上げて見せる。
 ワインのことだけではない。ヤンが、自宅の冷蔵庫に酒以外のものをあまり入れないのは、滅多と料理なぞしないと言うことがまずあるけれど、びん詰めの食材や調味料のふたを、自分で開けられないせいもある。
 もちろん、そのために便利な器具やら何やらあるのを知っていて、そんなものをわざわざ手に入れるのも面倒で、食事はカフェや食堂で済ませればいいのだし、冷蔵庫が空でも別に困らないと、その不便については、ヤンは対応しないと言う対応を選んだ。
 だから、シェーンコップが初めて朝食のパンを差し出して、一緒にジャムのびんもヤンの目の前に置いた時に、ヤンはそのびんに触れもせずに、バターだけを塗ってパンを食べた。
 「ジャムはお嫌いですか。それとも、マーマレードが苦手でしたか。」
 ヤンは、甘いものにはそれほど興味がないのは知っているシェーンコップが、自分の方へびんを引き寄せながら訊いた。
 両手に持ったパンをかじって、ヤンが首を振る。その目の前で、シェーンコップはほとんど力も入れていないような素振りで、ジャムのふたを開けた。
 数週間前のヤンなら多分、それを、自分の非力をあてこすられたと思って、内心で腹を立てたろう。今は、そうか、自分でできなければシェーンコップに頼めるのだと、自分のひらめきに目を輝かせている。
 そう言えば、結婚しようと言われた時も、脚立を使うのは危ないからと言われたことを思い出した。そうか、自分ができないこと、苦手なことは、もう日常の中でも何もかもシェーンコップにやらせればいいのだ。
 そのために結婚を承諾したようなものだったと、今さら思い出して、それならこれからは、今まで通りさえしなかったスーパーマーケットの食品売り場をうろついて、自分では開けられない容器の食品も買うことができるのだ。
 それなら、とさらに考える。たっぷりと紅茶を淹れられる、大振りのティーポット。ほんとうにいっぱいに湯を入れると、重くて持ち上げられない。けれど多分、シェーンコップなら大丈夫だ。それなら買ってもいい、とヤンは思った。
 いくつもいくつも、別にそれほど悲しんだわけではなかったけれど、手に入れるのを諦めたいくつかのものを、ヤンは思い浮かべていた。
 ずっとしたいと思っていた、本棚の整理も、シェーンコップは付き合ってくれるだろうか。いちばん上の段には、ヤンは脚立を使えばせいぜい一度に数冊しか持ち上げられない。けれどシェーンコップなら、何も使わずに腕いっぱいの本をさっさと並べられるかもしれない。
 ひとりでは何をさせても失敗ばかりしそうなヤンが、心配だから結婚するのだとシェーンコップは言った。自分はもう一生ヤンの部下なのだから、好きにこき使えとも──確か、多分──言った。そうさせてもらおうと、ヤンは思った。
 食べ終わったパンくずを指先から払うと、
 「まだ食べますか。」
とシェーンコップが訊いて来る。マーマレードのびんへ視線を移して、ヤンはうん、とうなずいた。
 シェーンコップは自分のかじり掛けのパンは口に入れたまま、さっさと立って、ヤンのためにパンを焼きにゆく。パンが焼けるまで、その場に立ってパンをむしゃむしゃ食べながら待っているシェーンコップの、少しだらしのない、すっかりくつろいだ後ろ姿には、軍服の重さや嵩張りはない。ここは今、自分たちふたりの、"家"なのだとヤンは思った。
 皿に乗せられた新しいパンに、ヤンは今度は迷わずマーマレードを引き寄せた。シェーンコップが、ちょっとおやと言う不思議そうな目でヤンを見て、けれど何も言わず、自分にも焼いた2枚目のパンに、マーマレードを塗る順番を待っている。
 「他にもジャムはある?」
 「ありますよ。取って来ましょうか。」
 立ち上がり掛けるシェーンコップへ、いい、と軽く手を振り、塗り終わったマーマレードを差し出す。
 「今はいらないけど、何があるの。」
 もぐもぐパンを噛みながら、ヤンが訊くと、シェーンコップはちょっとだけ眉を寄せて、行儀が悪いですなと目の色に言わせる。
 「ブルーベリーとアプリコットと、ピーナッツバターもありますよ、砂糖抜きのですが。」
 ふーんと言って、指の先についたマーマレードを舐め、シェーンコップが塗り終わった自分のパンへ歯を立てるのに、ヤンはもう最後の一辺の耳の端をかじり始めていた。
 カフェや食堂では、ジャムは小さなパッケージで渡される。びんのふたを開け締めする必要はない。パッケージに、きっちりひとり用の1回分が詰められている。
 そして今、同じびんのジャムをシェーンコップと分け合って、シェーンコップが結婚指輪を買った時よりも、揃いの腕時計をふたりで一緒に買った時よりも、そうしてもっとはっきりと言うなら、裸で抱き合った夜の後に明るい朝を一緒に迎えた時よりも、今ヤンは、ひとつのびんの中から、1本のスプーンでマーマレードを分け合った今朝、自分たちはひとりとひとりのふたりなのだと感じていた。
 シェーンコップが、向かいから腕を伸ばして来た。ヤンの唇の端から、指先でパンくずを落として、また何もなかったように自分のパンへ戻る。ありがとう、とヤンは小さく言う。
 自分の皿を持って立ち上がる前に、ヤンはマーマレードのびんから、差し込まれたままだったスプーンを取り出し、きちんとふたを締めた。これを開けるのはシェーンコップだから、少々強めに締めてもいいだろうと、意地の悪いことを少しだけ考えて精一杯力を入れる。それから、皿に置いたスプーンを取り上げ、ぺろりと舌に乗せて舐める。
 今度こそはっきりと、行儀が悪いとシェーンコップが眉を寄せた。ふーんだと、ヤンはスプーンをくわえたまま皿を持って立ち上がる。シンクへ向かって歩き出したヤンの前へ、小さなテーブルを回ってシェーンコップが飛んで来る。
 「転んだら、口の中を大怪我しますよ。」
 さっとヤンの口からスプーンを抜き取り、本気でヤンを叱る声で言った。
 「こんな距離で転んだりしない。」
 斜め後ろを見やり、テーブルとシンクの距離を測るような目つきをすると、ヤンはむっと唇を突き出した。
 「貴女の転ばないは信用できません。」
 残念ながら、これについてはシェーンコップの方が正しく、ヤンはさらに唇を突き出して見せて、ついさっき味わった良い気分を壊されたのに、今度は口の中にマーマレードの苦味ばかりが立ち上がって来る。
 あんなに甘かったのに、と思った時、シェーンコップがヤンの手から皿を取り上げ、腕を伸ばしてテーブルの上へ戻した。何するの、ともっと腹を立て掛けた瞬間、抱き寄せられてシェーンコップの唇が近づいて来た。
 そこから、マーマレードの甘みが流れ込んで来る。ヤンの不機嫌をなだめるつもりなのか、それとも突然じゃれ合いたい気分になったのか、どちらともヤンには分からず、こうされれは素直に爪先立ちになって、シェーンコップの方へ体を寄せて行くのが、もう近頃では自然になっていた。
 不得手で、苦手だと思っていた他人とのキスが、今ではそれほど苦手でもないような気がして、最初の頃よりはましになったかと、シェーンコップに聞いてみたい気がした。
 一緒に皿を片付けながら、貴女の怒った顔があんまり可愛かったからですと言われて、思わずシェーンコップを濡れた手で引っぱたく自分の10分後の姿などヤンは知らず、自分の後ろで、シェーンコップがヤンを両手で抱きしめるために、手にしていたスプーンを皿の上へ放った、かちんと言うかすかな音を、30秒前の自分の不機嫌をすっかり忘れて聞いている。
 ふたり分の息が、マーマレードのせいでなく、甘い。

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