RR視点、シェーンコップ×女性ヤン

魔女の夜更かし (番外編)

 何となく、嫌な予感はしていた。
 シャワーを浴びた後で、ヤンはソファでずっと本を読んでいて、先に寝ますよと声を掛けても生返事で、読書に没頭するとそんな風になるのはよくあることだったから、シェーンコップはひとりでベッドに入った。
 ヤンが来れば目が覚めると思っていたのに、その夜は妙にぐっすり眠りが深くて、目覚めたのはヤンがやっとベッドに入って来た時ではなくて、ヤンが下着だけのシェーンコップの、裸の胸に両手を触れ、ふくらはぎへ爪先を押し当てて来た時だった。
 氷の固まりに抱きつかれても、あんなショックはなかったろう。まだ新米の頃、戦斧を肩に振り下ろされて、危うく腕を落とすところだった時だって、あんなに叫びはしなかった。
 文字通り、シェーンコップはベッドの中で吠えた。ヤンと抱き合う時の調子とはまったく違う、まさしく断末魔の獣の咆哮だった。
 ヤンは、突然自分から跳ね退いたシェーンコップと、その悲鳴に驚いて咄嗟に全身を引き、自分へ向かって体を起こしたシェーンコップを、怯えたように全身を縮めて見上げる。
 見た目は、これから食べる肉食獣と、これから食べられる小動物の図だったけれど、現実には、攻撃されてダメージを受けているのは明らかに大型動物の方だった。
 「閣下!」
 叫び声よりはずいぶんと情けない声音で、シェーンコップがヤンに向かって吠える。
 「え、ごめん、そんなに冷たかった? ごめん、起こすつもりじゃなかったんだけど。」
 シェーンコップに触れた、その冷たい手足を自分の方へ引き寄せて、心底驚いたようにヤンが言う。
 シェーンコップのあたたかな体に触れて眠るのは、今では毎夜のことだったから、ヤンは深くも考えずに、今日はいつもより自分の手足が冷たいのは自覚して、ただ習慣のようにシェーンコップに抱きついただけだったのだけれど、いつもよりどころか、今夜のヤンの手足の凍ったような冷たさは、真空の宇宙に丸裸で放り出された方がましかと思うほどの酷さで、たかがそんなひと触れで一瞬で覚醒することがあると、シェーンコップは想像もしたことがなかった。
 今は完全に目覚めて、シェーンコップはやっとそろそろとヤンの傍らへ戻りながら、用心してヤンの手を、そっとそっと自分の体の、ショックのそれほど大きくないと思われる辺りへ導いた。
 「何をしたらこんなに冷たくなるんですか。」
 舌の根ががちがち震えそうになる。ここは極寒の野外かと、さっきまで初夏くらいのぬくもりのあったベッドの中で鎖骨の辺りへヤンの掌を置かせて、全身を震わせた後で、次にシェーンコップは、ヤンの両足を、改めて自分のふくらはぎへ巻き付かせた。
 覚悟を決めたところで、氷があたたかくなるはずもなく、それでも歯を食い縛れば、悲鳴だけは我慢できた。うめき声は殺し切れなかったけれど。
 自分が精一杯何をどうしたところで、シェーンコップに身体的ダメージを与えることができるなど、射撃も体術も最低点にすら達しないヤンは思ったこともなかったから、シェーンコップが頬の辺りをそそけ立たせて、唇の色も心なしか失せたように見えるのに驚愕しながら、ごめんねと、沈んだ声でもう一度言う。
 「次にやったら、有無を言わせずシャワーに放り込みますよ、提督。」
 やっと少し、極寒から零下10度程度にはましになったヤンの両手を、今度は自分の頬へ引き寄せて、シェーンコップは精一杯優しく言う。声音の優しさはともかくも、灰褐色の目は完全に本気で、これはイゼルローンを落としに行く直前と同じ目だと、ヤンは思って、こっそり、遅まきながら背筋に悪寒を走らせた。
 「ごめんね、そんなに冷たいとは思わなかったの。」
 冷たいし、寒いからこそシェーンコップに抱きついて来たのだろうけれど、それにしても本人は、これをちょっと冷たい程度の感覚しかないと言うのは一体どういうことだと、今まで夜を過ごした女性たちの、触れた体の熱さを思い出してシェーンコップは思った。
 彼女らとは、寝るためであって眠るためではなかったからかと、思いながら、今ではひとつびとつの顔も良くは思い出せない彼女らを脳裏の隅に追いやって、シェーンコップはまだ冷たいヤンの指先へ、音を立てて口付けた。
 「ソファの毛布を、もう1枚増やした方が良さそうですな。」
 「うん──ごめん。ごめん。ごめん。」
 ヤンはひたすら申し訳なさそうに、薄い肩をすくめて繰り返した。
 こんな小さな手が、たかが自分に触れただけでと、シェーンコップは今、それを顔には出さずに、ヤンの手足に恐怖すら覚えている。
 ヤンが最初に触れた胸には、薄闇の中では見えなかったけれど、ヤンの手型が白く浮き上がり、それを見ればシェーンコップは、事態の深刻さには頭痛を覚えたにせよ、それをいとおしく感じたろうことは間違いなかった。
 人の皮膚に触れた跡を残すほどの冷たさを、やっと不憫に思うだけの余裕を取り戻して、シェーンコップはいつものようにヤンの小さな体を自分の胸に抱き寄せた。
 手足ほどではないけれど、髪も冷えている。パジャマから出た素肌はどこも冷たくて、シェーンコップの大きな掌がパジャマの背の中へもぐり込むと、ヤンは明らかに安らかなため息を漏らす。
 胸に掛かったその息が、きちんとあたたかかったのに、シェーンコップのスイッチが入った。
 今夜は静かに眠るつもりだったけれど、ヤンの冷え切った体をあたためるならそれがいちばん手っ取り早かったし、ここまできっちり目が覚めてしまっては、また眠りに戻るのに少し時間が必要だった。
 だからシェーンコップは、ヤンの背中へ添えた手を下へ滑らせて、寝相が悪いと腰の半ばまでずり落ちて目覚めることも珍しくないヤンのパジャマの下の、ゆるゆるの腰の回りへ肘近くまで腕を差し入れた。
 女の体の、肉の厚さの増す部分が他よりも冷たいのを不思議に思いながら、シェーンコップは全身をヤンの小さな体へ巻きつけてゆく。
 読書から睡眠へ、すでに頭を切り替えていたヤンは、シェーンコップの手指の動きに最初は戸惑って、それでも全身で触れれば体温の上がる速度の上がる方へ心は引かれてか、少し後には素直にシェーンコップの下で躯をやわらがせた。
 あたたまり切らないヤンの手が、シェーンコップの躯のあちこちに触れて、その冷たさにシェーンコップはまだ少し怯えを消し切れずに、触れる端から白い手型が残るのを、見れば面白がれもしたろうけれど、今はヤンの体──特に手足──をあたためたくて、ヤンの掌をシーツに縫い付けるように、自分の掌の下にとどめておいた。
 首筋も二の腕も冷たい。掌で包み込んだ乳房はもっと冷たかった。冗談ではなく、凍傷の恐怖が、シェーンコップの強靭な心臓に、戦斧よりも鋭く歯を立てて来る。
 怖い女(ひと)だと、今までのどの時よりも思う。触れられて残る、ヤンの白い手型。まるでヤンに所有されているのだと示すような、数瞬後には消える、その跡。
 そこも冷たい内腿の間へ、シェーンコップは恐怖を乗り越えるように滑り込んでゆく。ぬるりと触れるその部分だけ、異世界のように熱かった。
 ヤンが声を立てる。いまだに、こうする時だけは苦しげに、骨の連なりを割り拡げるような有様なのは変わらず、それでも繋げた躯の奥は熱く溶けて、一度そうなってしまえば、後はシェーンコップがいつ敗走を始めるかと言う、それだけのことになる。
 ここから突然、ヤンの体温が上がった。シェーンコップはうっすらと全身に汗を浮かべて、ヤンの体温が逃げないように近々と、体の重みは避けながらヤンを抱きすくめて、今はもう揃ったふたりの体温が同じ速度で上がり続けて、シェーンコップが押すたび、ヤンの薄い下腹が反り返り、小さく波打つように震え続けた。
 それよりももっと激しい動きで、シェーンコップを受け入れて慄え、絞め上げ、ヤンの氷のそのものみたいだった足裏と爪先がシェーンコップの腰の辺りを軽く蹴り続ける同じリズムで、ヤンの奥が、シェーンコップを貪るように飲み込む動きを続けている。
 これはきっと、灼熱地獄と表現するべきなのだろう。あれを、冷獄と言うのなら。
 結局のところ、何をどう感じようと、最終的にはこの世のヴァルハラに落ち着くことになると知っているシェーンコップは、自分の、いっそう体温の上がった皮膚に、今は汗に湿った掌を押し付けているヤンへ、やっと色の戻った唇を重ねて、ヤンが自分を導いてゆくまばゆさの満ちた場所へ、ゆっくりと全身を投げ出した。
 弾けた熱は、体温よりも温度の高いはずもないのに、ヤンの熱と混ざるとこの世のどんな恐ろしい武器よりも高温の、人の体など瞬時に消し飛ぶような熱さになるような気がする。
 外側は氷よりも冷たいくせに、その内側には、シェーンコップにとってはトールハンマーよりも強力な武器を備えたヤンの、この小さな躯の中から敗けて去りながら、今はシェーンコップがヤンに抱きついて、やっと訪れた眠りの中へふたり一緒に落ちてゆく。
 冷たく汗をかいて、いっそう冷えたヤンの乳房へ添えたシェーンコップの手指の形が、ヤンの膚に見えない後を残して、互いの指の形が、見えずあちこちに残る熱い躯を寄せ合って、ふたりはぐっすり眠った。


 ひどいやり方で睡眠を妨げられ──その後はまたきちんと眠れたけれど──た割には、すっきりと目覚め良く起き出して、シェーンコップは自分のためにコーヒーを淹れ、やっと起き出して来たヤンの様子を窺いなら、ヤンのために紅茶を淹れた。
 ヤンは少し寝不足の顔で、大きなあくびを隠しもせずに、パジャマの上だけをだらしなく着てキッチンへやって来る。差し出された紅茶を受け取りながら、また大きくあくびをした。
 「・・・まだ眠い・・・。」
 「読書で夜更かしするからですよ。」
 ヤンとは対照的に、いかにも満ち足りた様子で、シェーンコップがいつも通り皮肉っぽく言う。機嫌の良い時の声音を聞き取って、ヤンは昨夜の惨劇はすっかり許されているらしいと、上目遣いにシェーンコップを見た。
 それにしても、夜更かしをしたのは認めるけれど、その後でまたすぐには眠れなかったのはシェーンコップのせいでもある。とは言え、それを引き起こしたのは自分のせいだと自覚はあるから、いつものように皮肉を返すのは控えることにした。
 「今度夜更かしをする時は、毛布をもう1枚増やすのを忘れないで下さい提督。」
 許しはしたけれど、忘れてはいないらしい。念を押すようにシェーンコップが言ったのへ、ヤンはちょっと舌でも出してやりたい気になった。
 紅茶のマグを両手の中に抱え込み、その熱さに30秒ほど耐えてから、ヤンはマグをシェーンコップが寄り掛かっているカウンターへ乱暴に置くと、
 「ほら、もう冷たくない!」
 ヤンはさっきまで眠そうだった目を大きく見開き、やや唇を尖らせ気味に、マグのおかげで熱くなった掌をシェーンコップの両頬へ添えて、どうだと言わんばかりにシェーンコップを見上げた。
 ヤンの不意のこの行動に、シェーンコップは呆気に取られ、同じ動作で、いつもなら必死に背伸びしてこの後には不器用な口づけが続くのだけれど、今はそれではなく手が冷たくない時もあると証明したいらしいヤンの、名状したい可愛らしさ、他の誰かがやったなら幼稚と切って捨てるだけだろう、必死の表情に、シェーンコップは止める間もなく、自分の中でまたスイッチの入る音を聞いた。
 閣下、と呼び掛けた声が、知らず震えていた。
 「今日は仕事は休みましょう。熱があるようです。」
 熱があるのが、自分なのかヤンなのか、それを言う前にシェーンコップはもうヤンを両腕の上にすくい上げている。
 放り出したコーヒーも、ヤンが置いた紅茶も、冷めるに任せてそこに残し、すたすた戻る先は昨夜のまま、まだ整えていないベッドだ。
 「え?ちょっと?え? シェーンコップ!」
 ヤンが暴れたところで、シェーンコップにかなうわけもない。今のヤンには、トールハンマーも雪女の如き凍った手足もない。
 ずり上がったパジャマの裾から、腿が全部剥き出しになり、まだ下着を着けていなかったヤンは慌ててそれを押さえて、シェーンコップへの抵抗がそれで疎かになった。
 「寝不足は万病の元です。それにあんなに手足を冷やした後ですから、もう少しあたためた方が良いでしょう。」
 まるで医者みたいにきっぱり言って、シェーンコップはヤンを運び続ける。
 「毛布よりも、私の方があたたかいですよ、閣下。」
 反論しようとしたヤンの唇を、コーヒーの香りのする唇で塞いで、その後は熱がある──確かに、嘘ではない──と言う言い訳で、ふたりは丸1日ベッドから出なかった。
 睡眠不足が解消されたかどうかはともかくも、少なくともこの1日、ヤンの手足は確かにあたたかいままだった。

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