シェーンコップ×女性ヤン

魔女の告白 (番外編)

 近頃疲れのひどいシェーンコップをねぎらうために、今日はちょっといいレストランで食事をして、帰って来てからちょっと奮発したブランデーを開け、後は肩や背中のマッサージでもと、頭の中であれこれ考えながら、少し早く帰宅したヤンは、服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びにゆく。
 バスルームに持って行く着替えに、自然にシェーンコップのシャツを加えて、散らかした服は後でちゃんと拾おう──今日はシェーンコップにはさせずに──と、ちらりと考えはする。
 自分が普段使う、ろくに香りのない石鹸ではなくて、シェーンコップの使う良い香りのする方を使って、ゆっくりとシャワーを浴びた。
 全身に泡を塗りつけて、洗うと言うよりも香りを染み込ませるために、ヤンは掌で膚を撫でる。自分に乗れば少し違う風に香るそれが、それでもやはりシェーンコップを思わせて、熱い湯の下で、湯の温度のせいではなく、ヤンはひとり頬を染めていた。
 顔も全身も火照らせたまま、水滴を拭って浴槽を出る。湯気に曇った鏡を掌で撫で、そこにぼんやり映る自分の姿に、ヤンはしばらくの間見入った。
 何がいいんだろうなあ。
 こうして自分を見るたびに思う同じことを、ヤンはまた考える。
 誰がどう見ても、十人並みですらない自分を、わざわざあのシェーンコップが選んだと言うのがいまだに信じられない。
 一緒にいた方が都合がいいと言うのが、照れ隠しなどではなく心底からの本音なのだろうと、自分も結局そうなのだと思いながら、それでも都合がいいだけで一緒に暮らせるわけではなし、けれどこの近さになってしまった方が案外自分の神経に障らない男だと、こうなってから発見して、自分みたいながさつで取り柄のない女と暮らせるあの男の神経は一体と、ヤンは今もバスルームの床に散らばった自分の衣類をちらりと見て思う。
 脚立から落ちないかと心配するのが面倒くさいとシェーンコップが言い、ヤンは高いところの物を言わなくても取ってくれるのがありがたいと思い、なるほど、破れ鍋に綴じ蓋と言うのはこのことかと、思う心の端で、いやちょっと違うとも考える。
 自分が破れ鍋なのは誰も反論はないだろう。けれどシェーンコップと綴じ蓋と言うのは、少し気の毒な気がした。
 綴じ蓋にはちょっと贅沢過ぎる。
 ヤンはまだ赤い自分の頬を撫でた。
 あの男と一緒にいた女性たちは、恐らくもっと美しくて、本棚の本を取るのに脚立は必要なく、そこから落ちるかもといちいちシェーンコップが心配する必要もなかったに違いない。
 惨めったらしい捨て猫を見掛けて、黙って通り過ぎることのできない、案外気の弱いところがあるのだろうか、あの男に。人は見掛けによらないものだ。
 湯気がおさまり、少し冷えて来て、ヤンはとりあえずシェーンコップのシャツを羽織った。
 ボタンを止めながら、肩も袖もゆるゆるのそれの中で泳ぐ自分の体を見下ろし、赤みの少し引いた頬をまた染めながら、ヤンはシェーンコップを抱きしめるようにシャツごと自分を抱きしめる。
 例えば、とヤンは考える。
 父親のシャツがもう着れなくなって、そうして自分はどうしたろう。どこかで古着を調達して来たろうか。誰かに声を掛けて、いらないシャツを譲ってくれないかと訊いたろうか。
 考えて、その誰かの誰の顔も浮かばず、結局自分が着たかったのは、着古しのシャツと言うのではなく、自分の選んだ誰かの着ていたシャツなのだと気づく。
 取り立てて、親子の愛情などと思ったことのない父親でも、心の中を覗けば、きちんとそこに父と娘の愛情があり、形見とわざわざ思ったわけでなくても、父親のシャツを着続けたヤンの行動はそれをはっきり表している。
 父親のシャツだからこそ身に着けられたのだと悟って、それならシェーンコップはと、ヤンは改めて考えた。
 あの男が袖を通し、体温でぬくめ、何度も水を通して何度も着たシャツ。あの男によって、あの男のもう1枚の皮膚のようにされた、シャツ。
 ヤンは今着ているシャツの襟を両手でかき寄せて、そこにあごを埋めた。
 着古され、くたりと柔らかくなったシャツ。シェーンコップの、体温と手によってそうされたシャツ。
 シェーンコップの、あの体の熱さだけが生み出せる、この柔らかさ。他の誰のシャツでもない、シェーンコップのシャツ。
 ヤンはそのシャツを着たいと思った。シェーンコップはヤンの好きにしていいと言った。
 誰のシャツでも良かったわけではない。最初は父親だった。そして今はシェーンコップだ。
 自分は案外気難しい人間なのだと、ヤンは突然悟って、また別の赤みに頬を染める。
 誰でも良かったわけではない。シェーンコップでなければならなかったのだ。一体いつそうなったのかは分からない。自分のもう1枚の皮膚のようにシェーンコップを近づけ、そして実際に自分の皮膚のように扱い、もうシェーンコップのシャツ──そしてシェーンコップ自身──がなければ夜も昼もなく、多分本棚の前で、キッチンの棚の前で途方に暮れてしまう。
 シェーンコップと現実に皮膚を分け合い、そしてヤンはシェーンコップのシャツを着る。シェーンコップに触れていない時も、皮膚を分け合えるように、ヤンはシェーンコップのシャツを身に着ける。
 ヤンが着たいのは、それがシェーンコップのシャツだからだ。ヤンが着たいのは、シェーンコップのシャツだけだった。他の誰のシャツもいらない。他の誰かのシャツではだめなのだ。シェーンコップのシャツでなければならなかったし、そうでなければ意味がないのだ。
 ヤンは、シェーンコップのシャツに恋している。シャツを通して感じる、シェーンコップの体温に恋している。そしてヤンは、シェーンコップに恋をしている。
 驚いて、ヤンは鏡の中の自分を見た。宇宙の闇色の、自分では面白みがないと思う色味の瞳が、シャワーの熱さのせいではなく潤んで、そこからヤンを見ていた。ヤンは自分の頬を撫で、撫でる自分の手指に、シェーンコップの、指の長い、ごつごつとざらついた掌を思い出している。
 突然、玄関で音がした。重い、歩幅の大きい足音。シェーンコップが帰って来たのだ。
 とっくに外出の準備をしてシェーンコップを待っているつもりだったのに、まだ着替えすらしていない。
 ヤンは慌ててバスルームを飛び出し、シェーンコップのいる方へ走って行った。
 「お、おかえり!」
 慌ただしく出て来たヤンに驚いて、もう上着を脱ぎスカーフも外し、ネクタイをゆるめていたシェーンコップは足を止め、ヤンにむかってうなずこうとして、ヤンの姿に再び驚きを刷く。
 明らかにシャワーを浴びたばかりで、あちこち湿りを残して、ぞろりとだらしなく着た自分のシャツの胸元から、今にも胸が見えそうだった。シェーンコップは視線を外し損ねて、そこへ目を凝らす羽目になる。そらしたところで、今度は剥き出しの膝や小さな爪先へ行ってしまうだけだったけれど。
 ちょっと待ってて、着替えるから外に食事に行こう、そう言うつもりでヤンは、帰って来たばかりのシェーンコップへ向かって口を開いた。開いて、まったく別のことを言った。
 「好き。」
 「は?」
 シェーンコップは、自分が疲れ過ぎていて、まともにヤンの言うことさえ理解できないのだと思った。
 軍医のところへ行くか。幻聴が起こるようになりましてねと言ったら、精神科医でも紹介してくれるかもしれない。防御指揮官が過労でノイローゼとは、降格処分も覚悟か──。
 言ったヤンが、黒い目を、黒々と見開いた。それを写して、シェーンコップも再び驚いた。
 「閣下、今、何と──?」
 「え、今なんて言った?」
 4秒、ふたりは黙って見つめ合った。
 「好きと、小官には聞こえましたが。」
 「好き?」
 「ええ。」
 「好き・・・。」
 シェーンコップに言われて、ヤンは考え込む表情を作りながら、頬がひどく赤い。
 シェーンコップは、また何か読みたい本に手が届かないのか、あるいはどこかでとんでもなく高価な本でも見つけて手に入れたいと言う話かと、ヤンにありがちなことを思い巡らせた。
 それから、もう一度ヤンを見て、今までに見たことがないほど恥ずかしそうな様子を見て、これはもしや言った通りのことかと、やっと思い至る。
 「そうじゃなくて、今日は外に食べに出ないって言おうと思って・・・だからその、好きって言うのはそうじゃなくて──」
 歯切れ悪く言うヤンに向かって、シェーンコップは大きく足を踏み出した。手にしていた上着とスカーフは、そこに放り投げた。
 シャツの上から見えた通り、抱き寄せたヤンはシャツ以外何も身に着けてはいず、それは誤解だったのだけれど、シェーンコップは正しく誘いだと受け取った。
 「食べる話は後にしましょう。」
 言いながら、もう手はするりとシャツの裾に滑り込ませて、ヤンの裸の腰に触れる。
 シャツではなく、直に感じるシェーンコップの掌の体温に、ヤンは何も言えなくなって、そのままシェーンコップへしがみついた。
 何もかも計画とは違ってしまった。食事にゆくのも、寝る前の疲れを取るマッサージも。ブランデーくらいは計画通りになるかもしれない。シェーンコップが、後でベッドから出してくれるなら。
 ヤンを首からぶら下げるようにして寝室へ向かうシェーンコップへ、一切反論はせず、ヤンは、1日分の疲れと埃をかぶった男の首筋へ唇を寄せ、聞こえないように小さな小さな声でささやく。
 好き、と言うヤンの声は、どれだけひそめようとシェーンコップの耳へきちんと届き、それだけでたまった疲労が溶けてゆく気がした。
 シャツを剥ぎ取って、膚を直に重ねて、縫い合わせた皮膚をシーツと一緒に波打たせる。そうして与え合う体温で、互いをあたため合う。
 今は脚立に上がるためではなく、ヤンは開いて持ち上げた脚を、シェーンコップの腰に絡めた。ヤンに頼まれた本を取るためではなく、シェーンコップは伸ばした腕を今はヤンの首に巻く。
 脱ぎ散らかした服が床で重なり絡まり、それを後で拾い上げるのがヤンなのかシェーンコップなのか、今は定かではなかった。
 ヤンが切れ切れに、好きとつぶやくのを聞いていたくて、シェーンコップの口づけは浅いまま、代わりのように深々と繋げた躯の奥へ、何か言うたびに起こる震えが伝わってゆく。
 シャツが2枚、抱き合うように床にある。どちらもシェーンコップのシャツだったけれど、それはヤンのシャツでもあった。そして今は、シャツをぬくめる体温でヤンをあたためて、シェーンコップはヤンを、自分にすっかり馴染んだシャツのようにしながら、シャツよりももっともっと近く抱き寄せている。
 指輪もなく、愛していると伝え合ってもいず、誓いを交わすこともしなかったふたりは、この世の誰よりよりも親(ちか)しく皮膚を分け合って、与え合って、躯で交わす言葉をそこに刻みつけていた。
 好き、の後に、シェーンコップ、と続く。提督、と言った後に、愛していますと続いた。
 もうそれ以上は必要なく、それきり、息遣いとベッドのきしみ以外は無音になった。

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