魔女の当然 (番外編)
それほど急ぎと言うわけでもない書類だった。けれどキャゼルヌだって、たまには執務室を出てふらふらしたい時もある。朝から書類の山にうつむき込んで、ずっと丸まっていた背と手足を伸ばすつもりで、キャゼルヌはヤンの執務室へ向かった。まるで散歩みたいに、通路を数枚の書類を手に歩き、すれ違う誰も、イゼルローンの知事同然のキャゼルヌへ、感謝のようないたわりのような視線とともに敬礼して通り過ぎる。
彼の激務は周知のことだったから、キャゼルヌは人たちの視線を面映ゆく受け止めながら、その激務の大部分の原因のヤンが、さて執務室におとなしくいやがるかなと、ちょっと口悪く考える。
いなければ、多分思索のベンチで昼寝だろう。さぼりを説教するついでに、散歩代わりに足を伸ばしてそこまで行こうと考えたところで、前方から聞こえる声にキャゼルヌは顔を上げ、そして足を止めた。
「図書室に行くのを止めているわけではありません。あの梯子をひとりの時に使うなと言っているだけです。」
「上の棚に行けないのに、図書室にわざわざ行く必要がある? それって水着を持たずにプールに行くようなもんじゃ──」
「服を来たまま水に飛び込みたいならどうぞ提督のお好きに。私が言っているのは、梯子に上がって落ちたら怪我をすると言うことです。怪我で済めばいいですが、万が一打ちどころでも悪かったら──」
「どうして落ちるって決めつけるの。」
「おや、絶対に落ちないと提督はおっしゃるのですか?」
要塞司令官と、要塞防御指揮官が、決して仲良さげにと言う風でなく、何やら言い争いながらこちらへやって来るところだった。
ヤンの手には紅茶らしい大きな紙コップ、そのヤンの方ばかり見ているシェーンコップは、胸の前に本を山ほど抱えて、なるほど図書室にさぼりに行ったヤンを連れ戻しに行った帰りかと、キャゼルヌはひとり合点して、まだわちゃわちゃ言い争いを続けるふたりをそこから見ていた。
最後の台詞の語尾を、嫌味ったらしく上げたシェーンコップに、ヤンが上向いて頬をぷうっとふくらませる。そんなヤンは、とても司令官には見えず艦隊指揮官には見えず、もちろん中将になど見えるはずもない。
これが一応は、戦闘に参加すれば銀河を震撼させる通称同盟の魔女なのだから、一体どこで何をどう間違ったのやらと、もう10年も彼女を誰よりも近い場所で見守ってきたキャゼルヌは、いまだ士官学校の生徒と言っても通りそうな、手の掛かる後輩兼長い友人兼上官を、やれやれとため息まじりに書類の陰から見やる。
「梯子を使うなら、私を呼べと言っているだけです。私でなくても構いません、ローゼンリッターの誰かでも──」
「めんどくさい・・・。」
ヤンのわがままに、ついにシェーンコップの堪忍袋の緒が切れ掛けたようだった。シェーンコップはそこで一瞬黙り込み、足を止め、それにつられて慌てて半歩引き返して来るヤンへ、
「でしたら閣下、図書室の入り口にローゼンリッターの隊員を常駐させましょう。私の許可なく絶対に誰も入れるな、司令官閣下も例外ではないと、そのようにいたしましょうか。」
「横暴!!」
シェーンコップを向き合って、ヤンが声を少し荒げたのとは逆に、シェーンコップは落ち着いた声で、けれど凄みを利かせてヤンをじろりと見る。ヤンに、それが通じるかどうかはともかくも。
「横暴とは、これは異なことをおっしゃる。防御指揮官として、要塞内外の保安、そして要塞司令官閣下の安全を護るのは当然の義務でしょう。」
「そんなこと、上官の私が許可しない。ただでさえ人手が足りないのに、たかが図書室の警備にローゼンリッターを使うなんて──」
常に人手──と予算──が足りないと言うことを、司令官が自覚しているのは良いことだと、キャゼルヌはうんうん内心うなずいた。
シェーンコップは、ヤンの言葉を一蹴する。
「要塞内の警備は私の采配で、司令官閣下の許可を常に必要とするものではありません。私が必要と思えばするだけです。要塞のことは私に任せて、閣下には他のことにご尽力いただきたいものですな。」
堪忍袋の緒が戻って来たのか、ヤンをやり込めるシェーンコップの声音に、毒の気配が甦る。
まったくだ、とキャゼルヌは、今度はシェーンコップに胸の中で同意した。そうだヤン、お前はお前の仕事をきちんとしろ。図書室なんかにサボりに行ってる場合か。
ヤンは言い返せずに、それでもまだシェーンコップを上目に精一杯にらみつけて、何か言ってやれないかと言葉を探している風だった。
「・・・だったら──」
ヤンが、迷い迷い何やら言い出す。視線がやや泳いでいるのが、これから言うことがまったく筋が通らないと、自分で分かっているようだった。それでも言わずにはいられないと、ヤンの唇を尖らせた表情が言っている。
「わたしが、読みたい本のリストを渡したら、図書室に行って全部持って来てくれるの。」
質問のようで、できっこないと最初から決め込んだ口調だった。そんな面倒なこと、他人のために誰がやりたがると、ヤン自身が知っている。薄暗い、天井まで届く棚の間を歩き回って、行ったり来たり上がったり下りたりしながら、ヤンの、あまりきれいとは言えない文字を何とか判読しながら、埃まみれの本を1冊1冊探して回る。この世でそれを心底楽しめるのはヤンだけだろうと、キャゼルヌは思った。シェーンコップも、さすがに一瞬怯んだ様子を見せた。
それでも、ヤンが選んだ本を腕の長さいっぱいに胸の前に抱えたこの美丈夫は、突然毒も皮肉も消して、奇妙に穏やかな調子で答える。
「貴女がそうしろと言うなら、私は何だってやりますよ、ヤン提督。」
突然、話が本のことではなくなったように、けれどそれが通じたのは、こちらにいるキャゼルヌだけにで、ヤンにはシェーンコップのその言葉の外にある響きは一向に通じていないようだった。
ヤンの首筋と耳元に、ぱっと血の色が散ったのが、キャゼルヌにもはっきりと見えた。
「それこそあなたの時間の無駄でしょう、そんなの。防御指揮官に、そんなお使いみたいなことさせられるわけな──」
キャゼルヌは、そこでやっとふたりの間に割って入ることを決め、年長者の余裕と鷹揚さを全身に滲ませて、わざとのんびりした声を掛けながら、やっとふたりの方へ近づいてゆく。
「お前ら、いい加減にしろ。誰も見てなくても、ここは一応天下の往来のつもりでいろ。」
ヤンもシェーンコップも、下らない言い争いを聞かれたのかとばつの悪い表情を浮かべ、キャゼルヌを見て黙り込んだ。
別に仲良しこよしと言うわけではなくても、司令官と防御指揮官が仲が悪いと言う噂でも立ったら面倒だ。このふたりは、歯に衣着せぬ物言いを、互いに対してだけ楽しんでいると近くにいる者たちは理解していても、そうでない者たちはそう考えないかもしれない。見た目通りに、このふたりは言い合いばかりしていて、いつも対立していると思われると、キャゼルヌがそれをいちいち訂正して回る羽目になる。これ以上余計な仕事を増やされてたまるかと、キャゼルヌはたしなめるつもりで、手にしていた書類でぽんと軽くヤンの頭をはたいた。
「ヤン、図書室に行くのはいいが、シェーンコップの言う通りだ、お前に怪我をされるとみんなが迷惑する。少しは自分の立場を弁えろ。シェーンコップ、要塞内の警備にローゼンリッターを使うのはいいが、時間外勤務の手当ては出せんぞ。やらせるなら、おまえさんのポケットマネーから出せよ。」
このふたりにこんな口が聞けるのはキャゼルヌだけだ。キャゼルヌはせいぜい重苦しくならないように、けれど冗談でもないと言う調子はきちんとこめて、ふたりへ忠告した。
ヤンは唇を尖らせても、キャゼルヌにはそれなりに素直にうなずいて見せ、それを見ているシェーンコップは、何となく面白くなさそうな表情を片眉の端に刷いて、了解と言う素振りは見せず、瞳だけわずかに動かして見せる。
「ほら、これにサインしろ。」
キャゼルヌがヤンの頭をはたいた書類をそのまま差し出すと、ヤンは受け取って、1枚目を生真面目に読み始めた。
2枚目に進もうとして、片手が紅茶の紙コップで塞がっていることに気づくと、ヤンは無言でそれをシェーンコップの方へ差し出し、シェーンコップもごく当然と言う仕草で、抱えていた本から片手を外し、ヤンから紙コップを受け取る。
キャゼルヌは、ごくかすかに眉を寄せた。
シェーンコップはヤンの傍らに立ち、ヤンの方へやや頭を傾けながら、書類の中身は絶対に見ないように視線をずらしている。ヤンはシェーンコップが、自分の肩越しにいくらでも書類を読めると言うのに、シェーンコップはそんなことをしないと決め込んでいるように、離れていろとも言わない。
お前ら、とキャゼルヌは思った。
3枚の書類を全部読み終わり、3枚目をいちばん上にしたまま、ヤンが再びシェーンコップを振り返る。シェーンコップはヤンの動きを見て、紙コップを持った方の腕を持ち上げ、自分の体の前半分をヤンに明け渡した。ヤンはごそごそと、シェーンコップの上着のポケットへ手を入れ、そこからペンを取り出す。行儀悪く、ペンのキャップを口で噛み取って外し、そのままシェーンコップの背中の方へゆくと、ちょっと前かがみになったシェーンコップの背中へ書類を置いて、さらさらと署名をした。
「はい先輩。」
ヤンが差し出した書類を、キャゼルヌは、苦虫を噛み潰したような表情で受け取った。
ヤンはペンを元通りシェーンコップのポケットに戻し、シェーンコップが差し出す紅茶を受け取り、そこまで、ふたりは一切言葉は交わさず、特に視線も交わさず、阿吽の呼吸ってやつかと、キャゼルヌはなぜそれを自分がこれほど忌々しく感じるのか分からずに、じゃあ、とヤンがシェーンコップと肩を並べ、自分の執務室の方へゆくのを見送った。
さっきまでの言い争いなどすっかり忘れたように、今度は何やら、どこの紅茶の葉がどうのと言う話をヤンが始めたのを、シェーンコップがにこやかに聞いている。
お前ら、とまたキャゼルヌは思った。思って、誰にも見せずに、小さくため息をついた。ヤンのためなら何でもすると、そう言った時のシェーンコップの声の響きを思い出して、キャゼルヌの方が照れ臭い気分になった。
あの様子じゃ、財布も身分証明証もシェーンコップに預けて持ち歩かせてるんじゃないのかと、そこまで思ってから、まさかなと打ち消して、キャゼルヌは来た方へ戻ってゆく。
このずっと後、ふたりの突然の結婚の後、この時キャゼルヌの思ったことがほんとうになるとは、まだ誰も知らないことだった。