静かなる人の

 もう真夜中を過ぎていた。
 呉学人は、戴栄と鉄牛が飲むのに、監視役として付き合って、戴栄を楊志に手渡し、鉄牛を一清に受け渡し、やれやれと、こちらへ戻って来たところだ。
 第一級エキスパートとして、支部署外へ住居を与えられてはいるけれど、そちらへはほとんど寝泊まりに帰るだけで、1日の大半を、こちらで与えられている自分用の個室で過ごす。
 支部署内には銀鈴や大作が住居のための私室を与えられているから、彼女らに何かあった時のためにと言うのが呉学人の言い訳だったけれど、結局のところ、ひとりきりと言うのが落ち着かないと言うのが本音だった。
 常に誰かの世話をする役に、なぜか落ち着いてしまう人間の常で、呉学人も、周囲に向かって気を配らずにはいられず、いまだ銀鈴を幼い妹扱いして、時折眉をひそめられる。
 湯たんぽなんてもういりません!
 そう言われたのはいつの冬だったろうか。いつも手足の冷たかった銀鈴──ファルメール──のために、ベッドへ連れてゆく時に一緒に湯たんぽを抱えて行くのが習慣だった。
 それは、国警へふたり揃って匿われてからも続いていたけれど、ある日、ほとんど泣くように銀鈴にそう言われ、呉学人はそれきりお役御免になった。
 子どもが手を離れてしまった親と言うのは、こんな心持ちかと、子どもがおろか、結婚すらしたことのない呉学人は考える。
 銀鈴の世話を焼くそのままの流れで、何となく他のエキスパートや部下たちにも、まるで母のように振る舞いながら、それを不思議にも思わない呉学人本人と周囲だった。
 執務用の自分の小部屋へ行って、明日のために書類に目でも通しておこうか、それともこのまま自分の家──と思いながら、家と言う言葉が白々しく響く──へ帰るかと、呉学人はまだ迷いながら、見回りのようなつもりで、支部内の中心へごく自然に足を向け、そして中条の執務室の前を通り掛かった。
 きちんと閉じた扉の、そのごく細い隙間から、明かりが漏れている。薄い絨毯の敷かれた、上品に足音を消す廊下を、いっそう気配を忍ばせて扉へ近づき、呉学人は仕事なら邪魔にはならないようにと、ほとほとと中へ中条を訪(おとな)った。
 返事はない。ふむ、とちょっと首を傾げ、明かりを消し忘れて帰ってしまったのだろうかと、呉学人は確かめるために扉をそっと開けて、そこから首だけ中へ差し込んだ。
 「長官?」
 声を掛けながら、煌々と明るいその広い部屋の、正面奥へ堂々と据えられた机の向こうの、高い椅子の背越しに、やや乱れた髪の中条の頭が小さく覗いている。
 素早く見れば、いつも着けているサングラスは机の上に放り出されて、同じ辺りには何の書類か紙類が散らばり、
 「中条長官?」
 その散らかり様に心を騒がせて、呉学人は思わず部屋の中へ踏み入った。
 歩幅大きく、飛ぶように机の傍へ寄ると、椅子の背に手を置き、中条の顔を覗き込む。すると、常に結ばれている唇がややゆるんで、髭も髪も少々乱れて、手足を伸ばした彼が椅子の中で眠り込んでいた。
 上着はどこへ脱いだのか、ネクタイもゆるめられ、ボタンの襟元から下へ着た白い丸首のシャツが見える。油断し切った上司のこの姿に、呉学人は思わず口元を覆い、照れと笑いを隠した。
 ワイシャツもズボンもしわだらけだ。袖をまくったシャツのそこから覗いた手首の太い骨の形も、こんな風ではただ痛ましげに見える。
 疲れていらっしゃるのだ。
 雨の日に、びしょ濡れの体をどこかの軒先に押し込めて肩を縮めている猫でも見かけたような、そんな心持ちで、とりあえずはここで寝かせるわけには行かないと、素早く頭をめぐらせる。智多星の明晰さは今は思慮深さに柔らかくくるみ込まれ、まさかこの人を抱きかかえてどこかへ運ぶわけには行くまいと、冷静に考えてはいた。
 鉄牛か戴栄ならできなくもない相談だけれど、まさかあの酔っ払いたちをわざわざ改めて呼びに行く気にはならない。ふむ、と呉学人はあごに指先を当て、とりあえずは中条を揺り起こすことにした。
 「長官。中条長官。」
 耳へ口を近づけ、小さく呼ぶ。肩を軽く揺さぶり、起きて下さいと促して、いかにもうるさそうに彼が大きな手を宙に振るのに、やや心を痛ませながら、呉学人は中条の広い肩を揺すり続ける。
 「長官、こんなところで寝るのは体に毒です。中条長官。」
 しっかりと声を掛けると、やっと薄く目が開いた。太い眉が軽く上下し、その下で瞳が億劫そうに動いた後で、ようやく呉学人を認めて、はっきりと目が開く。
 「・・・呉先生・・・。」
 声はまだ夢うつつだ。それでもいつもの、絹の手触りのような彼の声だった。
 「お起き下さい。ご自宅へ帰られた方が──」
 その言葉を遮るように、今度ははっきりと右手を振って、今まで寝ていたとも思えない大きな仕草で中条が椅子から突然立ち上がる。目が覚めたのかと思って、その中条に驚いて肩を引いた呉学人へ向かって、中条は長い腕を放り出して来た。
 すがりつくように両腕を背中に回され、体の重みがこちらへ掛かって来る。呉学人はそんな中条を、せいぜい床に倒れないように抱き止めて、ひとまず取り上げた片腕を自分の首の後ろへ回させた。
 「長官。」
 返事はあるようなないような、ようするに寝ぼけているのだと悟って、呉学人はまた困った表情を浮かべるしかない。
 逡巡の数瞬の合間に、中条の足はさっさと動き始め、ほんとうに目を覚ましているのか寝ぼけているのか、智多星の肩に寄り掛かりながら、それでも自分の行きたい方へしっかりと爪先を滑らせている。呉学人はよろけながら、ともかくも中条の進む方へ足先を揃えた。
 机の傍を通り、そこから数歩行ったところへ、割り合い坐り心地の良い長椅子が置いてある。本来なら、小さな背の低いテーブルでも置いて、部下や訪問客との対応の場にすべきなのだろうけれど、そこはもっぱら中条がだらしなく足を上げて坐り、そんな姿勢で書類仕事をする場だ。
 国警の長ともあろう人が、そんなみっともない態度で仕事とは如何なものかと、恐らく思わないでもないのだろうけれど、誰も苦言を呈する輩はいないし、勤務態度など仕事ぶりとその成果ですべて軽く吹き飛ばしてしまうのが中条と言う男だったから、この人はこういう人なのだと、今では皆苦笑をこぼすだけだ。
 中条は、しっかりと目が開いているとも思えないのに、ふらふらと頼りない足取りながら真っ直ぐにその長椅子へ進み、自分を抱えている呉学人ごと、座面へ倒れ込んだ。
 自分もほとんど床へ倒れそうになりながら、呉学人は中条の投げ出された手足を座面の上に何とか収めてやり、椅子に坐ったままよりは少なくともきちんと寝ている状態にできるだけ近い状態にしてから、またそこで眠りに戻る中条の顔を見下ろして、この方は夢の中でも仕事をしているのかもしれないとふと考えた。
 これがもっと親しく気安い部下なら、ついでに靴も脱がせ、シャツももう少しゆるめてやっても良いけれど、何しろ上司の中条にそれ以上馴れ馴れしく触れるのは気が引けて、それでも呉学人は、立ち上がる前に、目の上に掛かった中条の前髪をそっと撫でつけ、邪魔にならないようにしてやった。
 もしこの人が傷ついても、自分ひとりで運ぶには骨が折れると、唐突に思いついて、自分のその考えにひとり頬を赤らめる。呉学人が倒れれば、中条はきっと軽々と抱き上げて運ぶだろう。仕方がない、元々智多星はその頭脳を求められてここへ来たのであって、力仕事と荒事はまったくの専門外だ。
 こうして間近に眺めれば、そのぶ厚い胸と太い腕と、現実にひどく若々しい振る舞いで、並べばきっと自分の方が年寄りめいて見えるに違いないと呉学人は改めてそんな感想を抱いた。長官と言う立場には少々不似合いな、時折見せる中条の少年っぽい素顔と、もっと若い頃から年嵩の学者ばかりと付き合ってすでに老成していた智多星と、実際の歳の開きよりも、案外と中身は近いふたりだった。
 健やかな寝息を立て始めた中条をまだしばらくの間見守って、呉学人はやっと立ち上がり、部屋を出て行くつもりで扉へ向かって肩を回す。扉の傍の壁の、照明のスイッチを切り掛けたところで、智多星はまた部屋の方へ振り返った。明かりは消したけれど、まだそこから立ち去らず、ぼんやりと影のようになった中条の寝姿へ目を凝らし、そっと爪先の向きを変える。
 目を覚ました時に部屋が真っ暗では、起き上がって動くのに大変だろうと、心の片隅で思ったのが理由だったけれど、中条がさっきまで坐っていた椅子の傍へ戻ってから、気を変えて、机の上の小さなランプの明かりを点した後、呉学人は中条の椅子にそっと腰を下ろした。
 中条の体の重みと形に馴染み始めている椅子の表面が、こすれてぎぃっと音を立てる。背を預け、肘置きに腕を置き、そうして、呉学人は中条のパイプ煙草の匂いを嗅いだ。
 まるで、中条本人に寄り添っているような気分で、部屋の中心にも、今そこで眠っている中条にも背を向け、椅子の背で自分の姿を隠し、智多星の呉用は、しばし眠るように目を閉じて、さっきまでここにあった中条の気配に心を寄せる。
 あのお声が聞けないのが残念だ。
 自分の肩へあごを傾けながら、控え目な整髪料の香りと、それよりも主張の強い煙草の匂いと、そうして中条の気配に包まれて、呉学人は、まぶたのもっと奥に、中条の、絹の手触りの声を引き寄せる。
 低い、なめらかなあの声。奥行きと深みに、自然に耳の引き寄せられる、どこか甘さを含んだ声。穏やかで、優しげで、ふわりとこちらを包んで来る、あの不思議なあたたかみの声。時にはひたすらにつややかで艶やかで、驚くような絢爛さで耳に響く。その声の持ち主はと言えば、ほとんど荒々しいほどの情熱を隠し切れずに、普段の声の静けさだけで判断したら面食らうこと間違いなしだ。
 あの声が、今はない。中条は眠っていて、聞こえるのはかすかな寝息だけだった。
 高価で上等の嗜好品そのもののような、あの彼の声。いつまで経っても、呉学人はあの声に心が震えることが止まず、名前を呼ばれるたびに小さな感動すら覚える、素晴らしい、中条のあの声。
 呉学人はそっと椅子を回し、やっと眠っている中条の方へ体の向きを変えた。大きな机越しに中条の寝姿を眺めて、それから、机の上の放り出されたままのサングラスとパイプと書類の束に気づき、書類は字を読まないように注意しながら適当にまとめて、裏返して目の前へ置く。その上にサングラスをきちんと畳んで置き、最後にパイプを取り上げた。
 使い込まれ、小さな明かりの下でも艶(つや)やかな飴色に輝くそのパイプを、呉学人は中条の手つきを真似て手に持った。そうして、唇が触れる先へ視線が近づくと、歯先が食い込んだらしい跡がいくつもついているのが見える。これはそういうものなのか、或いは滅多と外には気づかせない、中条の神経質の現われか。
 じっとその噛み痕に目を凝らし、智多星はしばらく迷った。それを自分の唇へ触れさせてみたいと言う、ひどく幼稚な衝動があって、父親の持ち物をいじってみたい子ども心と同じだと思い込もうとしながら、違うのだと気づいている自分の胸の内からは、しっかりと大人の狡さで目をそらしている。
 呉学人はパイプをそっと両手の中に包み込んで、その稚い衝動に打ち勝ってから、ようやくパイプをサングラスの傍へ並べて置いた。
 おまえはいつも、長官のお傍にあれて、うらやましい。
 心の中のつぶやきが、唇を動かしていた。声には出さない。中条のあの声の前では、どんな声も色褪せておよそつまらなくしてしまうあの声の前では、自分の平凡な声など、まるきり発さない方がいい。ただ静かに、中条がそう求めるなら、その傍らにいればいい。
 眠っている中条へまたしばらく目を凝らして、そうして、智多星はやっと椅子から立ち上がり、中条からなるべく遠い側の部屋の端を通って扉へ向かった。
 傍へ寄ってしまえば、また床へ膝を折って、中条の寝顔を近々と覗き込んでしまうだろう。彼が見ている夢の中へ入っては行けないかと、そこへ自分はいるだろうかと、埒もないことを考えて夜を過ごしてしまう。今は静かに眠る彼の、その眠りを破っても声が聞きたいと思ってしまう。
 呉学人はもう、明かりがひとつだけ机の上に残る部屋の中へは振り返らず、来た時よりもさらに静かにそこを後にした。
 パイプを握っていた手に煙草の匂いが強く残っているのに気づくと、その手を胸の前に抱(いだ)くようにして、今夜は自分の家へ帰ろうと足を早める。
 夢に中条の声が聞けるようにと、こっそりと祈ることは決して忘れなかった。

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