無に帰す10題 @夢につづきを
無垢なる劣情
「あ、チョコ。」オルガ・イツカとの、モニタ越しの商談の後で、三日月・オーガスと話をしたいと言うと、彼は少し渋った表情を浮かべたけれど、今回の仕事の内容の旨味分とでも思ったのか、思ったよりも素直に三日月をそこに連れて来てくれた。
「やあ。」
「何、オレに話って。」
モンタークの仮面の目の部分を開き、マクギリスの深い緑色の瞳を露わにすると、彼は一体自分が今どちらの自分なのかと苦笑混じりに訝しがりながら、相変わらず大きな目を何の怯みもなくこちらに向ける三日月の、底なしに青い瞳に見入った。
「特に話と言うわけではない。エドモントンでは傷がずいぶんひどかったと聞いたからね。」
穏やかな声で言う。
何だそんなことかと、三日月はサイズがふたつ以上大きい、重たげなジャケットの肩を左側だけすくめて見せ、
「別に、大したことなかったよ。」
言いながら、手持ち無沙汰かごそごそと取り出した火星ヤシを口に放り込む。
「チョコこそ元気?」
三日月に逆に問われ、モンターク──マクギリス──の口元へ思わず大きな笑みが浮かぶ。君が、そんなことを訊いてくれるとは。平たい三日月の声音に、マクギリスの心臓は確かに跳ね、仮面とモニタと星間分の距離を、笑みの後ろで歯ぎしりするほど忌々しく思った。
「私は元気だ。君と同じようにね、三日月・オーガス。」
「ああそう。」
訊いたくせに答えには興味もない素振りで、指先につまむのは3つ目の火星ヤシだ。
ごそごそとナツメを取り出す仕草がどこかぎこちなく、見ていると、体の右側がほとんど動いていないと分かる。マクギリスは思わず眉をひそめ、次の問いでさらに声を低めてしまった。
「・・・右側が、どうかしたのか。」
「右? ああ、ちょっとね、エドモントンの後から、右腕がよく動かなくなったんだ。右目も変だし。」
ちょっと足の小指の爪を剥がしてしまったと言うような口振りで、うっかりほんとうに大したことはないのだと信じてしまいそうになる。マクギリスと同じほど、時々三日月も、奇妙に説得力のある話し方をする。
「それは、あまり、良くないな。」
「そうかもね。でも動かないならしょうがないよ。」
話しながら、口元へ運ぶ火星ヤシへ視線を動かす、確かに右目の瞳孔は開いたまま、左ほど焦点も合ってはいない。医者を送れるだろうかと、マクギリスは一瞬本気で考えそうになった。
阿頼耶識でバルバトスと繋がり、その結果、ガンダム・フレームと同化し過ぎて一種の癒着を起こしたのか。身体(しんたい)の機能はバルバトスへ奪われ、三日月は搭乗者、操縦者として以外の存在意義を少しずつ失ってゆく。機体を最大限に機能させるためなら、操縦者に起こる少々の不具合など問題ではない、阿頼耶識とはそういうものだ。
三日月は、ためらいもせずにその阿頼耶識でバルバトスと繋がり続ける。自分の身を削りながら、そうして行き着く先は、一体どこなのか。
三日月が追うのはオルガ・イツカの背中だ。その視界に自分の姿などちらとも入る隙のないのを知っていて、マクギリスはふと胸の痛むのを感じ、笑みの後ろにそれを押し隠しながら、そっと仮面の目の部分を閉じた。
「利き手が使えないのは大変だろう。」
「まあね。でもオルガが助けてくれるし。バルバトスと繋がればちゃんと動くし。別にいいよ。」
マクギリスの質問の意味を三日月は一向に解さず、するりとオルガの名前を出す。モンタークの仮面の下で、今は隠れている目を、痛いほど強く閉じて、そうか、やはりオルガ・イツカなのかと、分かり切ったことをまた考えた。
少年の、薄い体。戦闘の後にはまだ駆け巡るアドレナリンの、その処理の仕方は誰でも同じだ。それに手を貸すオルガ・イツカを想像して、自分は間違ってはいないだろうとマクギリスは思う。
自分の体は、その処理に使われていたのだと、古傷を自らえぐるように思い出して、彼らのそれは処理だけではなく、もう少し優しさをこめて互いに触れ合うことも含まれるのだろうと考える。
火星ヤシを食べる三日月の口元へふと視線を滑らせて、マクギリスは心臓の軽く絞られるような痛みを一瞬持て余し、その右手の代わりに、自分はなれないだろうかと、三日月に向かって思わず口を滑らせそうになった。
好意や興味と言うよりは、もっと分かりやすく劣情に近い、その方がマクギリスには理解しやすい己れの感情ではある。オルガ・イツカと寝ているかと問えば、三日月は素直にうなずいて、だから何とその目でマクギリスを見返して来るだろう。
その程度のことなら、私と君の間に起こっても何の不思議もないだろう。
そうかもね。でもオレはオルガとしかしないよ。オルガも多分、オレとしかしないよ。
彼らの間にある、言葉では言い表し切れない信頼。友情と言うにはあまりにも原始的で、剥き出しで、あれは恐らく、同種の存在を、己れ自身の存続のために守ろうとする本能から発したものだ。
信頼しているからこそ、互いに触れ合える。
そうか、君たちはそういうものなのか。──私には、とんと縁のないものだな。
すでに途切れた会話を繋ぐことはしないマクギリスと、その必要すら感じていないらしい三日月と、まだモニタ越しに繋がりはしたまま、オルガと三日月の繋がりとはまた別に、三日月と自分にも何か通じるものがあるのだと、仮面の下の皮膚の小さな慄えにマクギリスは感じていた。
「旦那ぁ! ギャラルホルンのあの人から連絡が入ってますぜー。」
ミルコネンの声が、ドアの向こうから騒がしく飛んで来る。部下の石動から、いつ戻って来るのかと訊いて来たのか。途端にマクギリス・ファリド准将の表情を取り戻し、口元を引き締める。
「チョコはいつも忙しいね。」
声が聞こえたのか、三日月が特に何の感想もなさそうに言う。
「そうだな、君のオルガと同じ程度には、私も忙しいな。」
「忙しい方がいいよ。余計なこと考えずにすむ。」
まるで、マクギリスの心中を見透かしたように、三日月が言った。
マクギリスはやっとモニタへ手を伸ばしながら、通話を切る素振りに掛かり、改めて向こう側の三日月へ微笑み掛ける。
「──しばらく、君に・・・君たちに会えそうにないのが残念だ。」
「いいんじゃない、オレたちが会わない方が色々順調ってことでしょ。」
まったく思考と言うものを放棄している──少なくとも本人はそのつもりらしい──この少年は、実は何もかも知っている、すべて見通しているのではないかと、マクギリスは再び戦慄した。
これも阿頼耶識ゆえなのか。恐ろしく研ぎ澄まされた感覚。それはいつか、彼を破滅に導くのかもしれないと不吉な予感に襲われて、ああそうだ、余計なことを考える暇はないと、マクギリスは頭を振る。
「じゃあねチョコ。」
「ああ、ではまた、三日月・オーガス。」
通話を先に切ったのは三日月の方だった。
「旦那ぁ!」
部屋の声が止み、通話が終わったのだと思ったミルコネンが、更に声を張り上げて来る。
「今行く。」
今はどんな音も声も、マクギリスには耳障りだった。チョコと自分を呼ぶ三日月の声を、仮面の奥の薄闇の、閉じたまぶたのさらに昏(くら)いその裏側で、ふた呼吸分反芻してから、ようやく椅子から腰を上げる。
次に会う時には、その呼ばれ方に相応しく、鉄華団の全員に行き渡る分のチョコレートを持参しようと、半ば冗談のように考え、忘れないためにきちんと頭の片隅へメモをした。