breed the freak



 サウンドチェックが終わった後、リハーサルに入るまでに、まだ、2時間ほどあった。
 ギターはいつも、一番チェックに時間がかかるから、たいてい後回しにされる。その時も例に漏れず、Jerryがスタッフにギターを渡してステージを降りる頃には、他のメンバーの誰も、辺りには見当たらなかった。
 さてどうしようかと、バックステージを抜けて、機材を出し入れする、裏の搬入口に向かいかけたところで、Jerryは、廊下の隅に座り込んでいるLayneを見つけた。
 骨ばった膝を、胸に寄せて、その間で指先を遊ばせているその横顔は、雨に降り込まれ、冷たい雫を避けながら途方に暮れている猫に、どこか似ている。
 Layne、と近づきながら、名前を呼んでみた。ゆっくりと顔を上げ、一体誰が自分の名を呼ぶのかと訝しがるように、ぼんやりとした表情を、Jerryに向ける。
「よォ・・・」
 Jerryが目の前に立っても、まだLayneは立ち上がろうともせず、よく見れば、爪の奥から、指先の皮膚を剥ぎ取ってしまうのに、夢中になっている。
 Jerryが嫌いな、Layneの癖の、ひとつ。
 ギターを弾き始めてからは、あまり見かけなくなっていたのだけれど、気分が沈み始めた時には、それでも時々そうしているのを、Jerryは何度か目にしていた。
「何してんだよ、こんなとこで。」
 うつむいて、指先を、目の中に差し入れるほど近くに寄せ、Layneは口の中で何か呟いた。
 聞き返すために、Jerryは髪を耳の上にかき上げ、上体を、Layneに向かって折り曲げた。
「おまえ、待ってたから・・・みんな、行っちまうって、だから、おまえ、Jerry、待ってよ  うって、だから・・・待ってた、俺、おまえが・・・待ってたから、だから・・・」
 今、皮膚を剥ごうとしている、右手の親指の先は、その下の薄い血の色が、今にも吹き出さんばかりに、弱々しく擦り切れてしまっている。いつだって、そうしてしまってから、痛くてギターの弦が押さえられないと、文句を言うくせに。今はどの指先も、健康な皮膚を無理矢理引き剥がされ、痛々しい紅色に、血の色を透けさせている。
「Layne、ほら、来たから。よせよ、もう。やめろって、おまえ。」
 Layneから、左手を取り上げる。そうしてようやく、Layneはまっすぐ、けれど弱々しい怯えたような視線で、Jerryを見上げた。
「どっか、行きたいのか、おまえ。」
 呆けたように、Layneが首を振る。
「どこにも行かない。ホテルに戻りたい。ホテルに戻って---。」
 突然、家の外にでも放り出された猫のように、首を縮め、Layneは寒そうに肩を震わせた。
「---あったかいのがいい。」
 薬をやっているわけではなさそうだった。むしろ、薬で気分を良くしたいのを、必死で我慢しているらしかった。
 腕時計に目をやって、Jerryは、Layneの腕を掴んで強く引っ張った。
 手応えもなく、ゆらりとLayneが立ち上がる。体温を保つ脂肪も、体力も、気力さえ失った、からだ。その薄い、骨の立った肩を抱き寄せて、Jerryは裏口へ向かった。


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  シャワーを浴びている時間はなかった。それに、それを口にする前に、Layneがしがみついて来たので。
 もどかしげに、Jerryの服を剥ぎ、自分も裸になりながら、Layneはずっと、くすくすと喉で嗤い続けている。
 いつも、決まった頻度というのはなかった。薬で気分が治っている間は、気味の悪い陽気さを周囲に撒き散らし、その陽気な時間が少しずつ短くなって、代わりに薬の量が目に見えて増え出すと、足元をすくわれているという実感と不安が、Layneを恐怖に陥れる。そうなってようやく、Layne自身も周囲も、またまずいことになっていると現実に目を見据え、最悪の事態だけは逃れようと慌て出す。周期にばらつきはあって、状況はいつも大して変わらない。
 LayneがJerryに手を伸ばすのは、薬の量が増え始め、コントロールがきかなくなったのを自覚し始めた頃と、いつも決まっていた。
 ベッドの外に、脱いだ服を放り出し、Jerryの首に両腕を絡みつかせる。乾いてひび割れた唇が、Jerryの唇をこする。飢えを癒すように、Jerryの舌を、痛いほど喉の奥へ奥へと誘い込む。Jerryは、Layneの脇腹に掌を滑らせた。
 薬が切れた後の気分の悪さを、次のdoseではなく、Jerryの体温でまぎらわせる。売人を探して走り回られるよりましだと、Jerryは思っているけれど、自分に溺れられるのも、また困るのだと、いつも心のどこかで思っている。
 女に興味がないということが---口説く手間を考えれば、曲を作っていたかったし、相手がいないことに、特に不満もなかった---、つまりそういうことだというわけではなかったけれど、Jerry自身の都合を考えれば、どこかに男を拾いに走られる方が、下手をすると、薬よりももっとたちが悪いかもしれなかった。
 薬からも、路上に立つ男達からも、Layneを遠去けるためには、こういうことも必要なのだろうと、JerryはLayneとこうなってしまってからずっと、自分に言い聞かせ続けている。バンドのために、やっと明るい将来の見え始めた自分自身のために、払う、少しばかりの犠牲。それだけのことなのだと、Jerryは小さく頭の隅で呟く。
「おまえの、なめたい。」
 Jerryの下で、Layneが言った。
 躯の位置を入れ替え、Jerryがベッドのヘッドボードに寄りかかると、Layneが、ついばむように唇を重ねに来る。それから少しずつ、唇の位置を下へずらしてゆく。立てて開いたJerryの膝の間に頭を埋め込み、猫がミルクをなめるように、舌を使い始めた。
 足先を丸め、喉を反らして、溺れ過ぎないように、Jerryは別のことを考えようとして見る。
 仮に---。
 Layneが、男の恋人を見つけたとしても、その相手が、恐らくアル中か薬中で、生活破綻者---Layneと負けず劣らずの---であることは避けがたいことだろうと、容易に想像できる。
 Layneを、こちらの世界に繋ぎ止めておくために払う代償だと、割り切っているつもりで、Jerryはいた。
 Layneと寝ることを楽しんでいると思ったことは、ない。
 出逢った頃は、お互いに若くて、Jerryにも人並みの好奇心があった。JerryにはLayneが必要だったし、何より、Jerry自身が当時のことを、"Layneのケツを追いかけ回した"と表したことで、Layneに対する好意の程度はたやすく計れる。
 Jerryはともかく、その時すでにLayneはそんなことには慣れ切っていたし、戸惑いばかりが先に立って、何度も尻込みしかけたJerryを、結局最後まで導いてしまったのは、もちろんLayneだった。
 Layneが語る以上は聞かず、それでも、Layneが途切れ途切れに語る断片と、Layneの皮膚が、Jerryに伝えてくるそれとを、ピースの足らないパズルのように、並べ変え、想像と仮定で隙間を補い、ひと通り、Layneの過去らしい形は、もうJerryの心の中に出来上がってしまっている。
 足の爪がシーツに引っ掛かり、きゅっと、柔らかく鋭い音を立てた。
 今こうして、Layneの唇を侵しているのは自分なのに、まるで自分がLayneに犯されているような気分になる。
「Layne、もう、Layne・・・Layne、もう---」
 Layneの肩を、叩く。Layneが顔を上げ、唾液で濡れて光る唇を、ぐいと拭った。Jerryはそれを見てから、強引にLayneの躯を押し倒し、その背中に、叩きつけるように、自分の胸を重ねる。
 力任せに、Layneの躯を押し開きながら、Jerryは息を止めた。
 Layneの体のどこも、渇いて冷たい。手も足も、頬も額も、首筋も背中も、自力では体温を保てなくて、いつも寒そうに、Layneは肩を縮めている。
 Jerryとこうして、肌をこすり合わせている時だけ---相手が誰でも、違いはないに決まっているけれど---、Layneの膚は熱を帯びて、血の色をあらわにする。そうして初めて、Layneの血は赤く---Jerryや、他の誰かと同じに---、熱いのだと、Jerryに知れる。
 無意識に、JerryはLayneの頭を、シーツに押さえつけていた。意味のない行為。Layneの声を、ただ聞きたくなかっただけかもしれない。
 ふたりの呼吸が同調する。下目に、Layneの、背中の刺青が目に入った。
 Layneの背中に、針で刻み込まれ、色を流し込んで彩られた、二次元の男の顔。
 フードをかぶった、両眸を縫い合わされた男の首。眉、鼻筋、口元、髭、髪、輪郭、すべてがJerryに酷似している、その貌。
 それはいつも、Jerryに奇妙な気分を味わさせる。瞼をむりやり押し上げ、そこに指先を差し入れて、自分の瞳をえぐり出す、幻想。瞳を失くした空っぽの穴は、黒い糸で縫い合わされる。2度と、開かないように。開いたところで、もう見ることはかなわないのだけれど。
 こいつは誰だ? オレの下にいるこいつは、一体誰だ?
 これはLayneなのか、それともJerry自身なのか、どちらとも決めかねた。
 Layneが不意に、Jerryの名を呼ぶ。
 それが合図のように、Jerryは真っ白に弾けて、Layneの背中に体を投げ出した。
 溶けて、けじめもなく混ざり合っていた躯が、冷えて固まってゆく鉛のように、また別々の皮膚の中へ戻ってゆく。心まで、白々と冷えてゆく、瞬間。
 Layneは、その背中にJerryを閉じ込めている。その両眸を、えぐり出した痕を縫い合わせて。
 こうやってLayneを抱きながら、けれどJerryは、Layneを所有しない。むしろJerryが、捕らわれているのかもしれなかった。
 鎖に繋がれ、身動きが取れないアリスは、Layneではなく、Jerryなのかもしれない。
 Layneの呼吸が、汗の吹き出たJerryの胸に伝わる。ベッドに伏せたまま、まだLayneは動かない。
 人の体は、いつも暖かい。それが、こんな不自然な触れ方だろうと、ぬくもりだけはいつも変わらない。そのぬくもりが恋しくて、JerryはぐずぐずとLayneの背中から動かずにいた。
 ゆっくりと、Layneが背中を起こし、肩をねじる。Jerryは、逆わらずに体を浮かせ、そこから体重を移動させた。
 Layneの灰色の視線が、斜めにJerryの視界をよぎる。目を伏せ、Jerryはそうとは気付かずに、Layneの刺青を掌で覆っていた。


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