God Am
下りてもいいかと、声は言った。
弱々しい声。かすれた、細い声。その声を、もう何年聞いてきたのだろう。
久しく歌わない。歌う声を聞かない。そして、真夜中の電話は、その歌わない、細い声を運んできた。
もう、下りてもいいか。
また、声が言った。
もう、終わらせてもいいか。
まるでもう、この世からではないかのように、耳に響く、声。
声はもう、あちら側から聞こえてくるかのようだった。
あちら側。
そこへ辿り着くには、少しばかり手間がかかる。
あまり、普通の人間は、かけたがらない手間が。
質問ではない。もう、決心は出来ている。後はもう、背中を一突きしてもらうだけだ。
誰でもいいわけではない。信頼している誰か。こんな、卑怯な決心を、けれど鼻で笑ったり、否定したりしない、誰か。
誰でもいいわけではなかった。
これ以上、傷つきたくはなかった。
もう、充分過ぎるほど傷ついてきたから、最期くらい、自分を傷つけない誰かと、話したかった。
這いずり回って、泣き叫ぶのは、もう終わりにしたかった。
流す血さえ、もうないような気がする。
いいだろ、もう下りても。
また、言った。
あまり、楽しく弾む会話、というわけではなかった。
低く、震える声は、言葉の内容にふさわしく、ひどく暗い。
言葉がやって来て、ぽとりと落ちる。
誰も拾わない。そして、次の言葉がまた落ちる。
なあ、下りてもいいか。
一体、どう答えればいい?
わからない。答えを、探したくはなかった。もう、誰かをこんな風に失うのはごめんだ。
たくさんの連中が逝ってしまった。肉親も友人も尊敬する誰かも。
またひとり、逝こうとしている。電話の向こうで。
逝きたい、逝かせてくれと、静かに、沈黙が雄弁に告げる。
恐ろしいほどの、静けさ。怖ろしいほどの。
でも。
もう、充分なのかもしれない。
驚くほど長く、生き延びてきたのかもしれない。
たとえそれが、普通の人間の、半分の人生だったとしても、これほど長く、苦痛に耐えてきた。
それを、知っている。這いずり回り、血を流し、泣き叫んで、生き延びてきた。
それを、つぶさに、見てきたのだから。
もう、充分なのかもしれない。
下りてもいいだろ、もう。
懇願する声。いい、と言ってくれと、哀願している声が、音もなく聞こえる。
この声が、歌い続けてきた。哀しい、苦痛まみれの歌を。
そして、この声が、いつも傍にいた。これからも、傍にいるのだと、信じていた。
一緒に、歩き続けるのだと、思っていた。いつも。
弱々しく、それでも呼吸を続けていた。
いつ心臓が止まってもおかしくないなと、冗談に紛らわしたこともある。
あれほど、死の機会を弄んで、それでも生き延びてきた。
死神を、親友に選んだ覚えはなかった。
不思議と、縁のない相手だった。
それは、もしかすると、この、キリストの貌をした仲間と、一緒にいたせいだったのかもしれない。
救われるのかもしれないと、信じたこともあった。
けれど。
もう、終わりにしたい。救いを信じるのに、もう疲れ果ててしまった。
沈黙が、訪れた後、ようやく言った。
ああ、そうだな、もう、いいかもな。
一生、この先、死ぬほど---けれど、生き延びることは間違いない---後悔するかもしれなかったけれど。
欲しがる言葉を与えるのが、いちばんの手向けなのだと、そう思う。
苦しんだ人生の終わりに、せめて静かに言葉を送るのが、いちばん良いことのように思えた。
あんまり、苦しくないやり方に、しろよ。
電話の向こうに、笑いがこぼれた。
それにつられて、思わず微笑んだ。
じゃあ、またな。
弱々しい声に、けれど少し張りが返ってくる。
懐かしい、歌う声に近い響き。
思わず引き止めようとした時に、また言葉がやって来た。
あいしてる、Jerry。
たった今、したばかりの決心と言葉を取り返そうとして、やめた。
あちら側に、逝ってしまう人間を、もう引き止めることは出来ないから。
どんなに、恋しく思っても、もう連れ戻すことは出来ないから。
もう、あちら側に、行ってしまっているのだから。
耐えよう、と思う。
それが、背中を押した自分への罰だ。
ひとりで苦しむのを、眺めることしか出来なかった自分への罰だ。
オレも、愛してる、Layne。
ゆっくりと言い終った時、電話は切れた。
繋いでいた手は、離れてしまった。
あちら側へ歩いてゆく背中が、見える。
苦痛が終わる。もうすぐ。
彼の苦痛と、自分の苦痛。それが終わる。
またひとつ、別の苦痛が始まるけれど。
彼のために苦しもう。ここで、ひとり。こちら側で。
煙草に火をつけた。
大きく煙を吸い込んで、深く吐き出す。
もう、煙草やマリファナを、分け合うこともない。
終わるのだと、思う。
終わったのだと、思う。
あの声を聴くことは、もうない。
煙草をはさんだ指先が震えていた。
泣いているせいなのだと気づいて、けれど涙は拭わなかった。
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