+ THIS LOVE +
壁にもたれているPhilが、ビールをあおった気配があった。喉が、もうぬるくなった液体を素通りさせながら、音を立てた。
Jerryはそれを、背中で聞いている。
毛足の長いカーペットに広げたシーツ。毛布に体を包み、Jerryはその上に横たわっている。
きっと、Philは後悔しているのだ、とJerryは思った。すでに、自分が足を突っ込んでしまったことに、うんざりし始めているに違いない。
Jerryの裸の背中を見ながら、酔いの覚めた頭の中で、起こってしまったことと、これから起こるかもしれないことを、どう取り繕おうかと、考えあぐねているのだろう。
Philのそんな表情が、見えるはずもなく、けれどJerryには想像できた。
連中は、ひとつ向こうの部屋で酔い潰れて、それぞれに眠っている。ベッドに上は床の上や、もしかすると、バスタブの中で。
バスタブの中で、体を伸ばして鼾をかいているDarrellの姿を想像して、くすりとJerryは笑った。少し、声を立てて。
それを聞き咎めたのか、Philが口元に持って行きかけたビールの壜を、ふと止めてから、床に置いた。
ずっ、と床を滑る音がして、Jerryの肩に手が伸びる。それが促すままに体を仰向けて、Jerryは、すぐ傍にやって来たPhilの膝に、頭を乗せるようにもたせかけた。
Philが、闇の中でJerryを見下ろしている。
立てた片膝に肘を乗せ、別の掌は、Jerryの髪を撫で始める。
Panteraのツアーに顔を出すのは、別に初めてではなかった。お互いに、ツアーが長いせいで、そういつも顔を合わせられるわけではないけれど、たまたま近くに相手がいる時には、大量のビールを抱えて陣中見舞いをするのが、いつの間にか暗黙の了解になっていた。
Philが、ビールをあおった。そして、口に含んだまま、Jerryの頭を持ち上げながら、上体をゆっくりと傾けて来る。ぬるいビールは、互いの体温でさらに温まり、とろりと絡みつくように、Jerryの喉を流れて行った。
ごくっと、Jerryの喉が鳴った。
体を離し、Philが唇を舐める。それに向かってけだるそうに手を伸ばした後、突然Jerryは体を起こし、Philの首に両腕を巻き付けた。
欲情してやがる。Jerryは、自分に向かって悪態をつく。さっきの続きか、それとももっと別の---欲しい、とJerryは思った。
「どっから、こんなことになっちまったんだ・・・。」
Jerryに訊いたと言うよりも、自問に近い響きだった。
答えずにJerryは、Philの肩にあごを乗せるようにして、腕に力を込める。
戸惑いながらも、Philの掌がJerryの背中を抱き、そして撫で始める。
「ちっとも---珍しいことじゃねえ。よくあるこった。女がいなきゃ、そこらにある代用品でガマンするしかねえだろ。まさか、てめェで慰める歳でもあるまいし。」
蓮っ葉に、Jerryは言った。
頬に、Philの伸びかけた髭が当たる。Jerryは体中を、Philにこすりつけた。
みんなが酔い潰れてしまった後、JerryとPhilだけが、目を覚ましていた。自分の部屋に戻るというPhilが、来いよと、Jerryを誘った。
始まりは、いつものPhilの悪ふざけだった
壁にもたれて並んで坐り、PhilがJerryの肩を抱き寄せ、頬や首筋にキスをした。くすぐったがるJerryに煽られたように、Philは、痕が残るほどきつい接吻を繰り返す。
そのうち、不意に、唇同士が触れ合った。Philの熱が、伝わって来た。弾けたように体を離して見つめ合った後、まるで恋人同士のように、Philの方から唇を合わせて来た。
ひとつかふたつ年下の、南部育ちの、やんちゃ坊主。あけっぴろげで素直で、何も隠せない性格が、Panteraの他のメンバーたちに好かれた理由なのだと、Jerryは会ってすぐに悟っていた。
好き嫌いを、男女かまわず隠さない。愛情表現も、どちらに対しても大して変わらない。他人に触れるのが平気なのは、Seanと同じだった。
冗談にしては熱っぽ過ぎる接吻が終わった時、素面かどうか、Jerryは尋ねなかった。どうでもいいことだと、思えた。
言葉の代わりに、自分の頬に添えられたままの厚い掌に、Jerryはそっと口付ける。
それを合図に、JerryはPhilの両腕に抱き寄せられ、渇きを潤す仕草で、長い接吻を交わした。
ベッドからシーツを剥がして床に広げ、明かりを消して、ふたりは改めて抱き合った。
無言で始まり、無言で終わり、さっきPhilが喋ったのが、それ以来初めてだと、突然Jerryは気づく。
Layneとは、まるで違う、やり方。
手順も、強さも、弱さも、形も、手触りも、動きも、すべてが過ぎるほどに違う。秘かにLayneと比べながら、わずかな共通点を見つけようとして、けれどそれは徒労に終わった。
屈服させ、征服する、Layneのいつものやり方。Layneを受け入れながら、いつもJerryは、それを奥底では嫌悪しているのだと思う。Layneから与えられる恐怖が、ただJerryをおとなしく従わせているだけなのだと、片隅で思う。
でも、とJerryは思った。
「代用品なんて、言うなよ。」
Philの、色の深い瞳が、闇の中でJerryを見つめていた。
それに虚ろに視線を返しながら、両頬をはさみ、目を閉じて、そしてゆっくりと顔を近づけて来るPhilのために、Jerryは唇を開いた。
接吻は、優しかった。巧みではなかったけれど、舌を噛みちぎるような乱暴さも、歯がぶつかり合う激しさも、なかった。互いの口の中を喰い荒らすような、凄まじい仕草は、まるでなかった。
Philの躯が潤って来るのを、舌先からJerryは感じる。
「おまえだって、男ならわかるだろ? どんな相手だって、一度こんなになったら、それなりの情がわくもんだって。」
Jerryから毛布を剥ぎ取り、またシーツの上に横たえながら、Philは囁くように言った。
誘った覚えはない。仕掛けた覚えもない。好奇心を満たしてみたくて、Jerryがたまたま拒まなかっただけだ---けれどこれは、好奇心だけでは終わらないかもしれないと、Jerryは思った。
どんな女でも、抱き心地はマシだろうに、とJerryは喉の奥で自嘲する。あの、沈み込んでゆく柔らかさの代償に、何故こんな、関節ばかりの目立つ、平たい躯を求めるのだろう。
こんな形ででも、Philを魅きつけたのだと自惚れるほど、Jerryの神経はまだ病んでいない。けれど自分を蔑むほど、Jerryはまだ堕ちきってもいない。
Jerryはわざと、喉を反らして声を上げた。
ぶあつい胸、筋肉の盛り上がった肩、太い首、骨の太さがまるで違う、Layneとも自分とも。
その二の腕に、指を喰い込ませようとして、Jerryの丸い指先は、Philの硬い筋肉に、あっさりと弾き返された。
低過ぎない、耳触りのいい声。柔らかく、耳の中に、抵抗なく滑り込んでくる。
耳元で繰り返される囁きを、けれどJerryは聞いていない。こんな、神経の隅々を優しく麻痺させるはずの睦言が、逆にJerryの意識を醒めさせている。
Layneじゃない、とJerryは思った。
皮膚の下に、筋肉が息づいている。そのさらに下には、暖かな血が、健康な内臓の隅々を駆け巡っている。暖かい、Philの体。次第に熱を持って、Jerryの膚をこすり上げる。
これは征服じゃない。Jerryは頭の中で呟いた。愛し合うという行為でもない。いつものじゃれ合いが、すこしばかり深刻な形で現れているだけだ。互いを小突き合う代わりに、剥き出しの皮膚と、奥深い粘膜をこすり合わせる、ひどく即物的な行為。
長くない、今までの生涯での、何度目かの事故。いつも好奇心から始まって、たいていそれきりで終わる。無理強いもされた。二度目を仕掛けて来た相手には、容赦なく牙を剥いた。激すると歯止めが効かなくなるのは、ベトナム帰りの父親の血だろう。Jerryの少女めいた外見との落差に、相手は例外なく怯えてしまう。
Layneだけが、違った。
それは、強姦で始まった。殺されるという恐怖を、Jerryは生まれて初めて味わった。その恐怖の記憶が、二度目を逆らわせなかった。
回数を重ねるにつれ、Layneは凶暴さを増してゆく。そして冷酷に、Jerryを扱う。さまざまな道具と言葉で、LayneはJerryを肉色の蛆虫にする。
Layneの、冷たい体。その下で、歪められて、開かれてゆく。沈み込んだ秘密も、隠す場所も、何もかも晒されて、それでもまだ、Jerryは羞恥を残している。
だからあいつは、飽きもせずに人をオモチャにしやがる。
Philの、緩やかに上下する背中に、Jerryは指先を押し付けた。
「もっと---やれよ、いつも女とやるみたいに。いいから、こんなの、慣れっこだ。そんなにヤワじゃねえ。もっと、むちゃくちゃに---」
息を飲んで、JerryはPhilの腰に両足を絡めた。もっと、奥に誘い込むように、躯を持ち上げ、背中を浮かす。その背の下に、Philが片腕を差し入れ、抱え上げた。Philの膝の上に坐る形で、Jerryは頭を振った。
Philの耳に噛みつき、そして、ピアスがないことを不審に思った後で、今は相手が違うのだと、気づく。
ちくしょうと、舌を噛みたい思いがした。
体の中の羽虫が、肉と皮膚を食い破って外へ出たいと、宿り主を責め続けている。背骨の辺りが、ぞっとするほど冷たかった。泡を吐く溶岩の中心は、鉛のように重く鈍く、何の反応も示さずにそこにいる。
Layne、と叫びそうになって、Jerryは慌てて、目の前で揺れるPhilの肩に噛みついた。
さらに強く抱き寄せられた後、Philが、緩やかに脱力してゆく。
また、だたのひとりに戻ってゆく自分の体をシーツに沈めながら、Jerryは、目尻に伝った涙を、Philに気づかれないように、そっと拭った。
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