猫の唄



 猫、飼ってよ。
 藤田の膝に頭を預け、見るともなしにテレビの画面を眺めていた元基が、突然呟くように、歌うように言った。
 藤田はさっきから、昨日切ってしまったという元基の髪を、撫でては乱し、乱しては撫で、を繰り返している。
 猫ですか------?
 そう、猫。トイレの躾もちゃんとできてるし、酒さえあれば、エサくれなんて言わないよ。ねえ、飼ってよ。
 猫って、元基さんのことですか?
 うん、と、元基がうなずいた。藤田は答えずに苦笑した。
 ねえ、飼ってよ。ねえ、飼ってよ、飼ってってば、いいじゃん。
 不意に体を起こし、藤田の膝の上に両手を置いて上体を支え、元基はすくい上げるように藤田を見た。
 思いがけず長い睫毛が影を落とし、黒目勝ちな元基の瞳は、いつも濡れて光っている。少々きつい近視のせいなのか、じっと人を見る時の元基の瞳に、藤田はいつも吸い込まれそうになる。
 その中に映る、揺れる自分の姿を見ていると、今生きている自分は偽物で、そちらにいる、小さく歪んだ自分が現実なのだと、藤田はいつもそんな錯覚に陥った。
 きっと、それは正しいのだ。
 元基といる時間の間、自分の魂は、元基の濡れた瞳の中にいる、小さな自分の方へ宿っているのだ。永遠にこの、黒水晶の中に閉じ込められてしまったら、自分はどんなに幸せだろう。
 飼って、猫、飼って。飼ってよ、藤田くん、オレのこと、飼ってよ。
 子どもが寝転がって、自分のわがままを通そうとして暴れる時のように、元基は藤田を困らせたがる。自分の願いを、藤田が決して聞き入れられないことを知っていて、元基はそれでも、藤田に同じ類いのわがままを繰り返す。
 この間、PAZZの家------正確には、彼が最近転がり込んでしまった、彼の恋人の実家なのだけれど------に生まれた子猫の中に、1匹、脳髄が剥き出しのまま生まれてしまったのがいたのを、藤田は見た。
 それはとても正視に耐える代物ではなくて、母猫の出産に付き合って寝不足だったPAZZの彼女は、その子を見て、息を飲んだ後、貧血を起こしてしまった。意識を取り戻して泣き出して、それきり彼女は、猫達の傍へさえ寄ろうとはしなかった。
 母猫にも知らんふりされたこの子猫を放っておけず、仕方なくPAZZがミルクをやるのを、藤田も傍で手伝った。
 半日と生きてはいなかった。
 藤田の掌の上で、ひくひくと小さな体を痙攣させ、絞め殺される小鳥のような声を、切れ切れに吐き、剥き出しの脳髄が、脈打つように一度だけ揺れて、そして子猫は静かになった。
 何故か藤田は、醜悪なその奇形の子猫を、猛烈に美しいと感じていた。その、強烈な美しさに嫉妬した何かが、この子猫を連れ去ってしまったのだと、藤田は考えていた。
 憐れさが不意に、喉元に突き上げて、藤田はかたく目を閉じた。子猫を優しく抱きしめて、気がつくと藤田は、泣いていた。声を立てず、涙だけを流して、藤田は泣いた。苦痛を越えて生まれて、けれど苦痛の中から逝ってしまった、小さな魂のために、藤田にはただ声もなく泣くことしかできなかった。
 泣きながら、何故か元基のことを想っていたのだと、けれど元基には言わないでいる。奇形の子猫と元基と、言葉では表現できない共通点が、あるような気がしたのは、藤田の思い込みだったのだろうか。
 ねえ、オレのこと飼ってよ、ねえ。
 元基が、返事をしなくなった藤田に焦れて、藤田の顎髭を引っ張りにかかった。そして、藤田の首に両腕を巻きつけ、頬と頬をすり合わせるようにして、藤田に体の重みを移動させてくる。
 藤田は、優しい仕草で、元基のその背を撫でてやった。
 藤田クンの掌って、おっきいじゃん。オレが猫だったら、この上で寝れるかなぁ。
 一度だけ、広川がそんなことを言った。その言葉に含まれた広川の想いを知っていて、あの頃の藤田は、それに気づかない振りをしていた。藤田は藤田なりに広川を愛していて、けれどそれは、血の繋がった弟に対するような愛なのだと、藤田は知っていたから、広川が自分に示す、ためらいのない素直で赤裸々な気持ちを、受け取ることが恐ろしかった。
 藤田が、例えば雨の日に、小さな捨て猫が鳴いていれば、その前を素通りできず、とりあえず家に連れて帰って、ミルクでもやって、せめて雨が上がるまでは外に追い出せない、そんな類いの良心の持ち主なのだと、広川も元基も、見抜いているに違いない。だから、どこか猫的精神の持ち主のふたりは、自分の傍を選んだのだろうと、藤田は思う。
 広川は、藤田に捨てられたのだと思っている。原因は元基だと、信じている。
 広川は今、誰を飼い主だと思っているのだろう。女でも男でも、自分を抱きしめてくれれば、優しい人間なのだと、自分のすべてをゆだねきってしまうあの男は、今は、誰に自分を預けているのだろう。家を出てしまった弟を心配するように、藤田は広川のことを考える。
 女ひとり養えないのに、元基さんは飼えませんよ。それにうちのマンション、動物飼うの、ダメなんですよ。
 小犬がうなるように、元基が、喉の奥で声を濁らせた。
 これはゲームだ。いつも繰り返しやる、ゲームだ。元基は藤田のぬくもりを確かめるために、藤田は元基の心の在処を確かめるために、ふたりで飽きもせず繰り返すゲームだ。ゲームはいつか終わらせなければならないから、そのために藤田は、元基に、元基が欲しがる藤田の愛情のあかしを、与えなければならない。
 餓えた元基を満たすために、藤田は元基の膚に指先を押しつけた。
 床に同化しながら、元基が藤田の首筋に爪を喰い込ませる。動脈がいびつに歪んで、血の流れが塞き止められるのを、藤田は心地良い、自虐の痛みで感じている。
 元基の躯がしなやかに歪むと、猫の鳴き声が、その喉から微かに漏れた。
 猫の形で繋がりながら、藤田は元基の左の首筋に、思わず噛みついて、ぎりぎりと歯を立てる。そうしてしまってから、この歯形を隠す長い髪を、元基がもう持たないことに気付く。けれど藤田は、知らんふりを決め込んだ。
 躯を歪められ、不自然に侵されているこんな元基は、あの、奇形の子猫にそっくりだ。醜悪で猛烈に美しくて、そしてどこか、儚い。
 元基の白い背が、今にもぼやけて闇に溶け出し、みるみる消滅するのではないかと急に不安に捕らわれ、藤田は思わず、きつくその背を抱きしめた。
 肋骨にぶつかりながら、元基の心臓は、藤田の掌の中で強く脈打っている。
 子猫の脳髄の灰色が、なぜだか藤田の視界を塗りつぶし、そして消え、藤田は元基の心臓を、握り潰そうとするかのように、そこにきつく爪を立てた。


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