Human Noise
呼吸をしていない、と広川は感じていた。体中の細胞が、カタカタ音を立てて笑っていた。
生暖かく、何かが身内を満たす。
気持ちいい、と広川は呟いてみたけれど、それが果たして、声になったかどうかはわからなかった。
締め切ったカーテンから透ける陽は明るく、外は昼間であることを、広川に伝えてくる。
目の前の肉塊が、ゆらりと動いた。薬のせいの幻覚、広川には見えない何かを、見続けているらしかった。
時間の間隔はすでにない。1日も1分も、広川には区別すらつかないし、そしてもう、とっくに意味を失くしてしまったことだった。
脱力した体の、指先だけが、広川とは別の意識を持って、同じリズムを刻み続けている。左手の人指し指は4拍、右手の揃えた指先は、その左手の2拍の間に3連を刻む。大嫌いな、2拍3連。
ほらまた、3連の1拍目が突っ込むんだよ。後ろの4拍、ちゃんと聞けってば。
藤田の声が聞こえた。
これも薬のせいか。けれど広川の口元は、知らずにゆるんでいた。
広川は、Warpigsを、ヴォーカルの近藤と一緒にクビになった。2日前になる。
理由はいつも通り、もうおまえとは演れない、というとっくに聞き飽きた台詞で告げられ、そしてもうひとつ、近藤と一緒に、少しばかりの遊びのつもりで手を出していた薬のことも、今回は理由のひとつに加えられていた。
つまり、そういうこと。
近藤は、こんなバンド、俺から辞めてやるよ、と捨て台詞を吐き、広川は、何も言わずにそれを眺めていた。言うだけ無駄だと、知っていたから。
ふたりで一緒にしたたかに酔って、そして近藤の部屋になだれ込み、こんなふうになるまで、半日とかからない。
どうでもいいや。別に、Warpigsなんか。
また目の前の肉塊が、ごろりと体の向きを変える。広川の方へ首を曲げ、何を感じているのか、顔中の筋肉が弛緩しきっている。
「ケンちゃん・・・」
広川は声をかけてみた。ふっと睫毛が揺れたような気がしたけれど、目は閉じられたままだ。どのみち返事なんか、これっぽっちも期待していない。猫のように床を這い、音を立てずに彼の傍へすり寄る。
藤田の体温が、恋しかった。無性に、彼に会いたかった。
あの肩や胸に寄り添えたのは、ほんの短い間。DOOMを脱けてからは、逢うことさえままならない。
あれから2年だ。DOOMで過ごした3年に比べて、はるかに長い間に思える、ひとりぽっちの2年。
必死にふたりの時間をつくり、藤田の負い目らしきもの----広川をDOOMから追い出した、という----につけ込んで、広川は、藤田につきまとい続けている。広川を邪険にできない、藤田のあの優しさは、逆にもっと広川を傷つけるのに。
近藤の左腕が、広川の肩を抱き寄せた。
今度はさぁ、藤田クンと、ふたりで来たいよねェ。
ニューヨーク。ソーホーの、北辺り。何の秩序もない、人込み。広川は、冗談めかしてそう言った。答えない代わりの、藤田の苦笑。
あの街ならきっと、ふたりを暖かく迎え入れもしない代わりに、冷たく拒絶もしないだろう。
あそこならきっと、藤田クンとふたりで一緒に暮らせるよ----灰色の脳髄が、どろりと溶けた頭の隅で、その思いつきだけが、小さな模造の月のように輝いている。そんなことが可能なのだと、今は信じられた。
「藤田クン・・・」
いつの間にか、この間別れたばかりの女の名を囁きながら、近藤の手が、広川の服を脱がし始めている。その近藤に向かって、広川は藤田の名を呼びかけた。女を抱こうとしているつもりらしい近藤の下で、広川は、優しい気持ちで目を閉じた。
元基は藤田の下で、どんな表情をするのだろう。藤田の掌の中で、溶けるように折れてしまいそうなあの骨細い体を、どうねじ曲げて藤田を受け止めるのだろう。
憎悪で人を殺せるなら、元基はとっくに死んでいるに違いなかった。藤田の躯で結ばれたふたりは、心が繋がった双子のようなものだ。藤田の膚を通して、お互いの心の内は、すっかり読めてしまう。広川は元基を憎み、元基は広川に、奇妙な親しみ----つまり、ひとりの人間を、同じ目的で共有しているという共通項ゆえに----を感じている。
相手を傷つけられない憎悪は、逆に所有者を傷つける。藤田が思うよりはるかに、広川は、元基のことで傷ついていた。
慣れた痛みが、次第に熱を帯びてくる。藤田と違う圧迫感は、広川の自嘲を、ゆっくりと満たしてくれた。
ねえ、藤田クン・・・いつの間にか、自分の内に棲みつかせてしまった藤田の幻に、広川はそっと囁きかける。
何やってんだよ、一緒にニューヨークに行くんだろ。
藤田の幻が、言った。
ふと、広川の唇が、嬉しげに歪んだ。
そして広川は、思いきり両腕を、宙に伸ばす。そこに藤田はいないのに、広川はいつまでもいつまでも、両腕を宙に遊ばせていた。