表現
小さな部屋がある。ガラス張りで、一応ブラインドが掛けてあるから、必要なら外からは見えなくもできる。簡易の取調室---非公式の尋問---にもなるその小部屋は、資料の部屋と呼ばれていて、事件の書類の山を抱えて閉じこもるのが、ほとんどの目的に使われていた。山のような紙の束に埋もれて、その大半は、事件を解決してくれる鍵かどうかも判断がつかない、けれど重要でないと判断するには時期尚早のものばかりだ。有象無象の中から、大事なヒントを拾い上げるために、Bobbyはよくここへひとりで閉じこもる。あるいは、長時間、パートナーのAlex Eamesと一緒に。
そのAlexは、今日はCaptain Deakinsと一緒に、上層部と何やら会議---と呼ばれる、一方的な命令の通達の場---へ呼び出されていて、この場にはいない。代わりに、Mike Loganが、Bobbyと一緒にいた。
煮詰まった、冷えたコーヒーを間に置いて、大男がふたり、小さな机に書類を積み上げ、椅子からはみ出ながら、ああでもないこうでもないと、その紙の山を引っかき回し続けている。
若い女性が、自宅のアパートメントのバスルームで、頭から血を流して死んでいた。強姦された様子はなく、パジャマ姿から察しられるのは、そんな姿でも気兼ねのない相手だったのか、あるいは鍵をすんなりと開けることのできた、どこの誰とも知れない不法侵入者だったのか。指紋はない。足跡は、年に何万足と発売される類いの、安物のスニーカーだ。
警備のカメラが設置されているようなアパートメントに住めなかったことが、彼女の不運だったのかもしれない。
ただひとつ、Bobbyが到着した現場で嗅いだ、男ものの、かなり値の張るコロンの匂いだけが、今は犯人に繋がるかもしれない手がかりだった。
「電話の記録には、何も残ってなかったのか。」
Mikeが、書類に顔を埋めたまま訊く。
別の場所にあった書類に手を伸ばして、それを指先でなぞりながらBobbyが応える。
「死亡推定時刻が深夜ちょっと過ぎ、その3時間前の9時から11時半頃まで、女友達と長電話、それだけだ。」
ふん、とMikeが鼻先で笑う。
「・・・女ってのは、べらべら喋るのが好きだな、相変わらず。」
「被害者のその友人は、電話では何も妙なところはなかったと証言してる。そっちに手がかりはなさそうだな。」
Bobbyが難しい顔をして、自分で取った聞き取りのメモ読み返しながら言った。
「無理に侵入した気配はなし、窓には鍵、そもそもアパートメントの3階だ、非常階段は窓とは別の方角、どう考えても、ガイ者と関係のあった誰かの仕業だろう。」
「かもしれない。でもまだ100%そうとは判断できない。」
断定したがる口調のMikeに、半分だけ同意を示して、けれどBobbyまだ難しい顔で、自分のメモを眺めていた。
「彼女の仕事先の人間関係は洗ったか?」
「名前のリストならあるぜ。全員からの証言はまだじゃないか。確かふたりほど、休暇を取ってどこかへバカンスだ。」
「ふたり?」
初耳だと言うように、口にするよりも早く、Bobbyは立ち上がってMikeの方へ歩み寄る。
その名前のリストとやらを、Bobbyにために探し出したMikeが、それをBobbyの方へ差し出すよりも早く、BobbyはMikeの肩に大きな手を置いて、Mikeの頭越しにリストを覗き込んだ。
Mikeは、Bobbyの仕草に、一瞬体を硬張らせる。こんな距離に、慣れていないからだ。そもそも、背中に胸がつくほど近く、自分より大きな男に体を寄せられるなんて、想像したことすらない。
Bobbyほど鼻の効かないMikeは、Bobbyがまったく無臭であることに驚いていた。現場で、犯人が残したかもしれない匂いと、混乱しないためか。それとも単に、周囲では変人として有名なこの男の、好みの問題なのか。
自分のコロンは、一体どんなふうにBobbyの鼻先に届いているかと、ふとMikeは思った。
肩に置かれた掌の大きさと、書類に落ちた影の大きさと、必ず長身と称される自分よりも、さらに背の高いBobbyを、Mikeは横顔だけで振り返る。
肩越しに、長い腕が伸びてきて、形の良い指先が、リストの真ん中辺りをつついた。
「この名前を全部洗って、それから、この名前と付き合いのある男---そうだな、20代後半から30代後半の、わりと金に困ってない男たちを、全部さらった方がいいかもしれない。」
「・・・あのコロンか?」
Mikeの肩から、Bobbyの掌と、体の重みと大きな影が、ゆっくりと引いて行った。
「こんなボトルが、150ドルもする代物だ。カフェのウェイターや厨房の連中が普段使いするようなコロンじゃない。」
親指と人差し指の間を、せいぜい10センチほど開けて、Bobbyが言う。
確かに、身に着けるものには基本的に金を惜しまないMikeでさえ、少々ためらう値段ではあった。
Bobbyは、まだMikeの背後に立っている。まるで、自分が尋問されているようだと、Mikeはほんの少し居心地悪く思った。
書類の山を引っかき回して、少々気になるポイントをいくつか書き出して、明日の予定をそれで組み立てて、BobbyとMikeのおこもりは終わった。
Bobbyは、常に小脇に抱えている革のバインダー---身の回りに構うタイプには思えなかったけれど、時々びっくりするほど質の良い小物を持っていることに、Mikeは気づいている---を手に、図書館へ行ってくると言い残して、ついさっき姿を消していた。
聞き込みで外を歩くのは苦にならないけれど、書類の束と格闘するのはいまだ苦手だ。
凝り固まった肩と首の辺りを、そちらに伸ばした手でもみほぐしながら、コーヒーメーカーの前で首を回していると、Alexがやって来た。
「Logan、Gorenは?」
小柄で金髪で、可憐としか形容のしようのないこの刑事は、時折Mikeさえ驚くほど、被疑者を容赦なく扱う。その被疑者を、少々気の毒だと思うことがないわけでもないMikeは、できる精一杯の敬意を込めてAlexに微笑みを向けると、
「図書館へ行くって、出てった。」
「ああそう。」
パートナーとは言え、一応は格下ということになるBobby---そしてMikeも---が、許可もなく出歩いているのを咎める様子はない。ただ、どこへいるのか所在だけはっきりさせておこうと、ただそれだけらしい鷹揚さに、Mikeは心の中で驚きを隠せない。
そう言えば、図書館という場所では、携帯の電源は切っておかなければならない。いざとなれば、その場に出向いて、Bobbyを連れ出すというわけかと、このふたりの奇妙なパートナーシップを、Mikeはまだ今ひとつ理解しきれずにいる。
刑事である以上、性別云々に言及するのは野暮というものだ。間違いが決して起こらないということは、ことMikeには断言できることではなかったけれど、AlexとBobbyの間に、そういう匂いは一切なく、ふたりが仕事のパートナーという以上に親しいらしいということは、観察しているだけで推測できたけれど、それがいわゆる男と女の関係というやつかと言われたら、Mikeは即座に首を振るだろう。むしろ、姉と弟という、肉親のそれに近い親密さの方が、より的確に思えた。
Mikeの掌ほどもありそうな大きなカップに、ティーバッグを放り込んで熱湯---と記してある---を注ぐAlexの横顔を眺めて、Mikeは、音を立てずにコーヒーをすすりながら、ふと、Bobbyのことを訊いてみる気になった。
「Eames、Gorenのことだが。」
Alexが、ちらりとMikeを斜めに見上げた。ティーバッグを取り出そうとしている手を止めて、きれいに整えられた眉を軽く寄せる。警戒の表情だ。それを和ませようと、Mikeは、お得意のおどけた笑みを口元に刷く。
「いや、気に入らないとか気に食わないとか、そういうことじゃない。」
「なに?」
それでも100%は警戒を解かずに、AlexはMikeへ正面に向き直ると、湯気を立てているカップを片手に、胸の前で腕を組んで見せる。少し胸を反らせば、小柄な体はやや大きく見えて、Mikeは、人と向き合う時の距離を、礼儀正しく守るために、わずかにかかとを後ろへ引いた。
「あの男は、いつもああやって人に近づくのか。」
言っていることがよくわからないと、Alexのさらに寄せられた眉の形が言っている。
Mikeは両手を体の脇へ上げて、説明のために顔の位置を落とした。
「あれだ、いきなり後ろに立ったり、正面に近づいて来たり。あのデカさだ、ビビった野郎が殴りに手を出すかもしれないとか、考えないのかあいつは。」
胸の前で組んでいた腕を解いて、Alexは両手にカップを抱え直す。合点が行ったという表情をはっきりと見せてから、からかうような薄い笑みを、Mikeに見せる。それがとてもチャーミングで、Mikeは思わず肩を引いて横を向いた。
「あれは彼のやり方だから。彼はああやって、人の内側に踏み込んでゆくの。うっかりボロを出すのを楽しんでるってところね。事件に関係なければ、悪気はない、ただのクセよ。」
「悪気がないねえ。」
Mikeは意地悪い笑みを浮かべて、片手であごの辺りを撫でた。
「興味のない人には、一切やらないから、別に注意するほどのことでもないでしょ。Bobbyが気づいてるかどうかはともかく、あれは彼流の、好意の表れでもあるわ。」
Bobbyを名前で呼んだのは、わざとだったのかどうか、AlexはMikeの肩をひとつぽんと叩いて、その横をすり抜けて行く。なみなみと注いだ熱い紅茶がこぼれたりしないように、左右にバランスを取りながら。
そうして、Alexからも、ほとんど化粧やコロンの匂いがないことに気がついて、Mikeは思わず大きく首を回してAlexの背中を見送る。
好意の表れ。なるほど。変人と有名で、ほとんどの人間と上手く付き合えなくて、周囲が迷惑をこうむることが多いらしいという評判のあの男の、好意の表れ。
そしてそれを教えてくれたのは、どうやらBobbyに対して、全面的な信頼を抱いているらしい、能力も経験も揃った刑事だ。
Mikeは、一体どんな笑みを浮かべていいのかわからなくて、ひとまず、皮肉笑いと苦笑の中間辺りに、唇の形を定めることにした。
出会い方が素晴らしかったとは思えないけれど、社交辞令で気にしていないと言ったわけではなくて、実のところはほんとうに、Mikeにそれなりに感謝していてくれているのかもしれない。
なるほど。少なくとも、同僚としては、受け入れられているわけだ。
Mikeは、今度は声を立てて笑った。まるで子どもが、いたずらを思いついた時のような笑い方で、ひとり笑った。
悪くない。そう思って、自分の机へ戻るために、Alexが去った方へ、ようやく体を回す。