別の顔
ほんの気まぐれだった。たまたまそうする時期に当たったと言うだけで、別にそれが花京院のためと言うわけではなかったけれど、バスルームから出て来たLupoに振り向いた花京院が、心底驚いた顔をして、コーヒーをカップに注ぐ手をそこで止め、つるりときれいになったLupoの頬やあごを凝視している。いつもは顔半分を覆うひげを、たった今全部剃り落としたところだ。
ほとんど黒に近い髪の色と同じに、伸ばせばうっそうと顔を覆うひげを、たまに気まぐれに全部剃り落とす。ひげが失くなれば、途端に4、5歳若返る──子どもっぽくなる──から、今の自分は花京院と並んでもそう違和感はないかもと、Lupoはその思いつきを驚くほど気に入った。
肩をすくめて見せ、どうかしたかと、わざと仕草で言う。花京院は1拍置いてから慌てたように首を振り、
「少し、びっくりした、だけです。」
言い淀んだ言葉には明らかな訛りがあって、そう言えば初めて出会った頃は、少し聞き取りにくかったそれに難儀したこともあったと、たかが数ヶ月前のことに懐かしさを感じる。
自分に向かって差し出されるコーヒーに足を向けながら、つるりとした頬を撫でて、Lupoは花京院に向かってにっこりと破顔した。
「たまに全部剃るんだ。」
短く言って、すでにクリームの入ったコーヒーをひと口すする。
体を寄せていたキッチンのカウンターの縁で肩を回し、完全にLupoと向き合うと、花京院はまぶしそうに目を細め、いつもそうするように、Lupoに向かってあごを突き上げるように首を伸ばした。
「初めて見ました。」
軽い驚きと、それから明らかにこの眺めはこれとして気に入ったと、ややゆるんだ目元に表情が浮かんでいて、Lupoは花京院の反応に気を良くし、これからはもう少し頻繁にひげを剃ろうかと、頭の隅で考える。
とは言え、殺人課の刑事として保つべき強面もあり、Van BurenとBernardの、ちょっとからかうような目つきを思い出して、やはり今まで通り、年に数度起こる気まぐれにしかならないかと、またコーヒーに唇を寄せた。
やっと休みの取れた火曜の午後、花京院が来るとわかっていたのに時間通りに起きられずに、たった今シャワーを浴びたところだ。
花京院はもう勝手知ったる他人の家で、この狭いアパートメントのキッチンで、寝起きのLupoのためにまずコーヒーを作る。
裾の長い神父服姿は、ここで見るには、いつも少しばかり異様だ。
一切の私物──聖書と十字架以外──を持たないという花京院は、外出のための私服もなく、まだ恋人同士と声高に言うわけではないにせよ、実際にはそういうことになっているLupoのところへも、この姿のままやって来る。
このことが、花京院が信じるところの神──Lupoの信じる神でもある──の教えに反しているという点について、一体どういうことになっているのか、まだ訊いたことはない。
Lupoの方にも、警察という機構の中で同性愛者であることを大っぴらにするにはきちんと見極めなければならないタイミングと言うものがあり、そして他にも、花京院がLupoの扱った事件に、一時とは言え容疑者──結局起訴されることはなかった──として関わっていたという事情のせいで、ふたりのことはまだ当分ひっそりと隠していなければならなかった。
ばれたらばれた時のことだと思いながら、正直なところ、パートナーのBernardが一体どう思うか、考えるまでもなく見当がついているから、その辺りの面倒くささも重なって、だからこそこのことに、Lupoの心はいっそう傾いてゆく。
容疑者になった花京院を逮捕した後で、Lupoは比較的早いうちにこれは起訴できる事件ではないと見切りをつけていたけれど、Bernardはずっと後になるまで、人を騙すのが商売の連中もいるからなと、疑いの目を変えようとはしなかった。
何もかもを疑うのが警察の役目だから、Bernardの方がよほど刑事には向いていると思いながら、もうあの頃には花京院に魅かれていたのだということを、Lupoはまだ誰にも──花京院にすら──言ったことがない。
他の場所で会う時には必ず紅茶のくせに、ここではコーヒーを飲む花京院が、Lupoと同じカップに唇を寄せて、また珍しそうにLupoのひげのない顔を飽かず眺めている。
「先週、インターネットで写真を保存して、それをメールで送るっていう課題が出たんです。」
「ひとりでできた?」
「・・・インターネットに繋げる時間がありませんでした。」
それは困ったなという表情をわずかの間浮かべてから、Lupoはまた肩をすくめ、リビングの端に置いてある自分のコンピューターを振り返った。
「まあ、あの機械じゃあ仕方がないか。」
花京院のいる教会の、薄暗い図書室にぽつんと置いてある年代物のコンピューターは、元々はLupoが中東へ行く前に身の回りのものを全部片付けた時に、ついでにと寄付したものだ。普通のモデムはとりあえずついているけれど、LANカードなどというものはないし、今時では子どものおもちゃにもなりそうにない代物だった。
それでも、ちょっとした文書を打つとか、何かのリストを作るとか、ごくまれに他の教会から回って来るEメールを受け取るとか、その程度の作業なら支障はないから、教会では新しいものを買うとかどこかから手に入れて来ると言うこともせず、Lupoがニューヨークに戻って来た今も、そのまま現役として働き続けている。
とは言え、限られた時間で、気を使いながら電話線でインターネットに繋ぎ、調べ物をしてどうこうとなれば、機械の非力が気になるのは仕方がない。
花京院に自分のコンピューターを使わせるのに問題はないのだけれど、なるべく自力でやった方がいいに決まっている課題に、横で見ていて口を出さないというのも難しい話だった。
「あなたの写真でも撮って、それを送りましょうか。」
Lupoの、ちょっと迷うような表情をどう受け取ったのか、至極真面目な顔つきで花京院が言う。
「いい考えだけど、どうせ撮るなら一緒の方がいい。一緒に撮って、どこかに飾ろう。」
珍しく、わかりやすい求愛の表現を口にして、Lupoは自分で照れる前に、花京院の方へ顔を近づけた。
カップを片手に持ったまま、花京院はよけるようにLupoの唇の辺りへ指先を添える。
「・・・先に、課題をすませないと・・・。」
顔を動かして花京院の指先をずらしながら、
「15分ですむ。」
また指先が、元の位置に戻る。
「・・・ほんとうに?」
「ほんとうに。」
しっかりとうなずきながら、やっと外れた指を下目に追って、Lupoはやっと花京院の唇に自分のそれを重ねた。
自分がそばにいて、やり方を教えれば5分ですむ話だ。
このまま口づけを続けても、課題とやらをさっさと終わらせて、とりあえず午後は全部一緒にいられる。どこかの路地で死体が見つかったという連絡がどうか入らないようにと、Lupoは頭上の神に祈った。
花京院が、Lupoのつるりとした頬を撫で、唇が離れたすきに照れたように微笑む。まるで、Lupoではない他の誰かと抱き合っているようだと、そう思っているのが、少し潤んだ茶色の瞳に浮かんでいる。
その瞳に映る、今は少し若く見える自分の顔に向かって、Lupoはちょっと挑戦的に笑いかけた。