My Friends
体が硬直して、動かなかった。蛇に睨まれたカエルだ、と頭の隅で思う。
腰の辺りに、まるで絹でもまとったように、デイヴの両掌が添えられている。この男はいつも、こんな風にギターを抱いて、軽々とその指板に指を滑らせるのだろうかと、アンソニーは、あまりこの場には相応しくないことを考えた。
魅かれていたことは、もう、アンソニーの内部が認めている。だから、犬が尻尾を振るように、デイヴのアパートメントに招かれたことを、嬉しさと戸惑いをない交ぜにして、喜んでいた。ただ、単純に。
期待は何もなかった。期待のしようも、なかった。
デイヴが、時折じっと、自分を見つめていることには気付いていたけれど、その視線の意味を理解できるほど、アンソニーはすれていなかった。残念なことに。
デイヴの胸が、さらに10cmほど、アンソニーに寄った。
胸と胸の間に、小指がようやく入るほどの距離を残して、デイヴの暖かい息が、耳元にかかる。唇が、耳の輪郭と、空気のようにゆっくりと下からなぞって、いちばん上の部分を、かりっと音でもしそうに、まるでクッキーか何かのように、デイヴがかじった。
ぞくっと、背中にしびれが走って、躯がすくむ。
目を大きく見開いて、声を立てないのが、精一杯だった。
「──困ってる時のあんたって、けっこう可愛いよ。」
柔らかい、吐息混じりの声。何かにさらわれそうな不安に、アンソニーは、思わずデイヴの背中に腕を回した。
こんなことが、起こるはずはなかった。挑発じみたことをした覚えはない。そんなことをしてみたところで、引っ掛かる相手がいるはずもなかった。それなのに今、よりによってデイヴが、アンソニーを抱き寄せようとしている。
逆らわない自分を、不思議に思う。
デイヴの言葉が、魔法の呪文のように聴こえる。今は何を言われても、素直にうなずいてしまうに違いなかった。
腰から、デイヴの両掌が、ゆっくりと上に向かって滑る。腹を通り、胸を撫で、それから、鎖骨を過ぎて首筋に達してから、指先が、絡みつくように頬を包んだ。
「そんな泣きそうな顔されると、まるでおれが、あんたのこと、無理矢理手込めにでもしようとして るみたいじゃないか。」
だって、そうじゃないか。そう言いたかったけれど、声は、喉の奥に張りついたまま、アンソニーの唇からは滑り出ては来なかった。
デイヴが、すぐ目の前で、ひどく蠱惑的な微笑を披露する。
また、躯が、すくみ上がる。
今なら、まだ間に合う。デイヴの掌を振り払って、こんなことは好きじゃない、そう言えばいい。そうすればデイヴは、あっさりと手を引いて、それ以上無理なことはしないに違いなかった。何事にも趣味のいいデイヴが、強姦を楽しむタイプとは思えなかった。簡単なことだ。こんなつもりじゃなかった、こんなこと、考えたこともなかった。だってオレ達、友達だろ、ただの。
──ウソつき。アンソニーは、声もなく、叫んでいた。
はっきりとした形ではないけれど、確かにアンソニーは、欲情している。デイヴと寝てもいいと、今思っている。だから、逆らえない。逆らう気もない。逃げ出したいのは、こんなことには馴れていない、アンソニーの臆病さのせいだ。
デイヴがまた、耳元に唇を寄せた。
舌先が、何かを探るように這い回る。
アンソニーはもう、逃げることを諦めたように、おずおずとデイヴの腰に手を回し、ぴったりと胸を合わせた。
自分の存在が、とてつもなく、他愛なく感じられる。ふわふわと実体のない、気体の塊のように、頼りない自分。デイヴの腕の中の、のっぺらぼうの、名前もない自分。人間ですらない、ただの有機物の集合体の、自分。皮膚を剥がれ、神経を剥き出しにされ、感覚だけが研ぎすまされてゆく、自分という、ちっぽけな存在。
デイヴの歯列が、立ち止まって耳の軟骨を甘噛みするたびに、思わず漏れる声を、アンソニーはもう止めようとしなかった。それを、自分の声だと知覚する神経は、すべてデイヴの触れる場所にだけ、集中してしまっている。
顎に触れたデイヴの指先が、唇をなぞる。我慢できずにアンソニーは、唇を開いて、その指先に舌を伸ばした。
それを見計らったように、デイヴが、唇を、重ねに来る。
ただ夢中で、アンソニーはデイヴの舌を絡め取った。自分の中を満たす、デイヴの舌先を、自分の舌で探り、不快感も嫌悪感もなく、アンソニーは接吻に熱中する。
躯中が、熱かった。
あちこちに触れて欲しくて、デイヴに、じかに触れたくて、どうしたらそれを、うまく伝えられるだろう。いつも、誰とでもこんなに淫らになれるのだと、デイヴに誤解されずに、どうしたらそれを伝えられるのだろう。
目眩にも似た感覚が、脳髄の底の方で白い爆発を起こす。
このまま溶けて蒸発する、そう思った時に、ようやくデイヴが唇を外した。
逆らえるわけがない。ずっと求めていたものが、眼の前で両腕を広げているのに、逃げ出せるわけがない。
捕まった、と、アンソニーはその時ようやく悟っていた。
罠が、足元で大きな口を開いていた。狼の、鋭い牙の向こう、真っ赤な長い舌の覗く、大きな、口。
ねえ、おばあさん、おばあさんの口は、どうしてそんなに大きいの?
無邪気な赤ずきんの、無邪気な問い。そしてアンソニーを助けにやって来る猟師は、今はどこにもいない。
アンソニーの口元をついばんでゆく、軽やかな接吻。
今なら、どんな恥知らずなことも、問われればやってしまいそうな気がする。できるような、気がする。
あまりにも間近過ぎて、デイヴと、こんな距離で視線を絡め合わせるのが恐くて、アンソニーは、痛くなるほど強く、瞼を合わせていた。指先がそこを、優しく撫でてゆく。唇と指先にあやされながら、もっと強い接吻が欲しくて、おずおずと瞼を持ち上げる。
「あんた──こんなのになんか、馴れっこなんだと思ってたよ。」
揶揄するような、デイヴの口調。
抗議のために、思わず強く首を振りそうになって、その表情を、またデイヴが笑う。
しばらく、時間が止まった。
アンソニーの腰に手を添え、デイヴはただ、アンソニーを見ている。まるで、美術館の絵でも眺めるみたいな目付きで、アンソニーを見ている。
ふたりの間の空気が、急に濃度を増したように、アンソニーは感じた。水のように、濃い、空気。とろりと唇を割り、喉を通り、肺を満たす、息苦しく。まるで、デイヴの蠢く舌先のように。
呆けたように、アンソニーは、デイヴの色の濃い瞳の中に映る、自分の姿を見つめていた。小さく怯えきった、そのくせ逃げる気配のない、獲物。喰われる運命を、諦めではなく、期待を込めて待っている、獲物。
自分の腰を抱くデイヴの腕を、アンソニーは、ゆっくりと撫で上げた。
掌から手首へ、手首から肘へ、肘から二の腕へ、二の腕から肩へ。肩に辿り着いても、流れる動きは止めずに、鎖骨と首に触れ、そして頬を包んだ。
引き寄せる動作を見せてから、瞳を閉じる。唇を開きながら、言葉にすれば、哀願じみる望みを、アンソニーは指先に囁かせた。
自分から、舌の絡まる接吻を誘う。恥知らず、と躯の奥底で声がした。こんな接吻は、突然始まるべきではない。見つめ合って、心を通わせて、語り合って、言葉を尽くした先に、もどかしい想いを込めて、交わすべきだ。
なのに──なのに、デイヴとの接吻を、止められない。いつまでも続けばいい、とさえ思う。
心より先に、躯を重ね合う、起こるはずのない、こと。
ここから先を、アンソニーは知らない。迷路の入り口が、ぱっくりと口を開けて待っている。闇色の瞳の案内人に手を引かれ、手探りで進む以外に、術はない。踏み出した足は、戻せない。
腰を強く抱き寄せられ、アンソニーはデイヴの首に両腕を絡めた。もう、ためらいもなく。
重なった胸は、接着されたように、離れる様子もなく、互いの鼓動を互いの皮膚に伝えている。
不意に、囁き。
トニー、とデイヴが、アンソニーを呼んだ。
その囁きを、耳の奥に聴きながら、迷路の入り口が背後で閉じる音を、アンソニーは聞いたような気がした。